【赤木智弘の眼光紙背】大人の責任 - 赤木智弘
※この記事は2008年01月24日にBLOGOSで公開されたものです
1月17日、大阪市住吉区の踏み切りで、市立中学教諭の48歳男性が列車に跳ねられ死亡した。警察では自殺とみているという。1998年以降、常に年間3万人以上の自殺者数をキープしている自殺大国日本においては、一見ありふれた自殺のニュースである。
しかしこの男性、2005年に顧問を努めるサッカー部員を全裸でランニングさせたことが去年になって発覚。マスコミでも報道され、その対応や人間関係に悩んでの自殺ということらしい。
教育問題というと、我々はつい子供の学力や子供の体力など、子供側のことばかりを気にしてしまうが、実際の問題は子供だけにあるわけではない。教師もまた人間であるがゆえに不完全な存在に過ぎない。にもかかわらず、教師は完璧な大人としてたち振る舞うことを社会から期待されている。
この時に「今は完璧ではないので、完璧であることを目指すべき」と考えるのならば問題は少ないのだが、完璧でないことを自覚せずに「完璧である」と考えてしまうと、妄想と現実の区別がつかなくなり、教師が完璧でないことが露呈する事態となったときに、過剰な反応を生み出してしまう。それを避けるために学校側は事態を隠蔽しようとするが、そうした行いは問題をややこしくしていくだけである。
ならば最初から教師が完璧であるなんてことを考えずに、問題を起こすか可能性があることを念頭に考えるのが妥当だろう。
しかし、この教師も責任感がないというか、想像力がないというか。
まず、自殺するにしたって、多くの人に迷惑をかける電車での自殺を選ぶことはない。鉄道会社から遺族に巨額の賠償金が請求される場合もあるのだから、せめて首吊りや練炭などの、極力迷惑をかけない手段をとることを考えるべきだ。(もちろん、まったく迷惑をかけない自殺手段が存在しないことは、いうまでもない)
また、そもそもの問題である「全裸でのランニング」についても、部員がふざけていたなどの部員側の過失に対しての行き過ぎた体罰ではなく、「プレッシャーの中でPKを決めるため」と、PKを外した部員を全裸でランニングさせたのだという。こうした行為が社会的問題になるという想像力が、そもそも働いていなかったのだろう。
念のため、お断りをしておくが、死者に鞭打つようなことをするのは、私の本意ではない。
しかし、だからといって「死ねばすべてが許される」というのでは、生きて責任をとったり、そもそも許されないようなことをしないという、人間が社会生活を営む上で必要な責任感や自制というものが軽んじられかねない。
先に「教師は完璧だと考えるべきではない」と書いたが、それは教師という存在の意味を客観的に考えた場合の結論であり、教師自身は完璧を目指すべきだし、社会における最低限の責任のとりかたは、当然考えなければならない。
完璧にはなれないと諦念しながらも、それでも完璧を目指すこと。他人を指導する立場の人間であるならば、いや大人であるならば、そうした反立した概念のなかで、ジリジリと思い悩むべきである。それが大人であることの責任の1つだと、私は考える。
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か」
眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。