【赤木智弘の眼光紙背】第16回:祭りはキモい - 赤木智弘
※この記事は2008年01月17日にBLOGOSで公開されたものです
千年以上の歴史があると言われ、毎年旧暦の1月7日から翌朝にかけて岩手県奥州市の黒石寺で行われる「蘇民祭」。この宣伝ポスターの掲示をJR東日本が拒否をした。拒否の理由としてJR東日本側は「胸毛などに特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」と、説明している。
で、私もそのポスターをTVやネットなどで拝見したが、たしかに非常に「キモい」ポスターであった。しかし、私はこのポスターをセクハラだと思わないし、セクハラというなら、電車の車内にはもっとどぎつい表現や、エロティックな雰囲気の女性を使った広告などが、いくらでもあふれている。私も少し前に、これは小田急線の駅であったと記憶しているが、日ハムのダルビッシュ投手の上半身ヌードが駅構内に張られていたことに不快感を感じたこともある。
ただ、そうしたセクハラまがいの広告たちと、セクハラだと言われたこの広告の差異は、その圧倒的な「キモさ」にあると私は考える。JR東日本も「キモいから」などとは、一企業としてはいえないからこそ、「セクハラと思う女性がいるだろうから」と、あくまでも「判断基準は世の中の女性ですよ。私たちではありませんよ」と必死に言い訳をしているのだろう。
しかし、私はこのポスターのキモさを不快だとは感じていない。このポスターは実に見事に「祭り」の本質を表している、とても素晴らしい作品だと、私は思う。
そもそも祭りというものは、大変「キモい」ものである。
いい年をしたジジイどもが、どこからともなく集まって、集団で神輿を担ぐ。昼間から酒を飲み、大騒ぎして、贅肉腹の上半身ヌードを公衆の面前に晒す。ああ、なんてキモいんだろう。
一般の祭りですらこのキモさなのだから、それこそ毎回のように死者が出る諏訪大社の御柱祭や、山車を全速力でひきまわす岸和田のだんじり祭などは、もはや参加しているものが人間だと信じられないぐらいにキモい。
しかし、えてして「祭」とはそういうものではないか。
普段、まじめに働いているジジイどもが、年に一度「ハレ」の舞台で、普段は温厚な仮面の下に隠し、抑圧した人間的本能を、公衆の面前にむき出しにして楽しむ。
件のポスターに大写しになっている、髭と胸毛が印象的なキモいオッサンは、蘇民袋を勝ち取った歓喜の雄叫びをあげていると報じられているが、その瞬間、まさにこのオッサンは、己の「人間」を公衆の面前にさらけ出している。そんな表情がキモくないはずがない。それは髭や胸毛とは関係ない。人間が人間であるがゆえの臭い立つようなキモさである。
だからこそポスターをつくった人も、この表情を蘇民祭の本質と考え、ポスターの主役とたのだろう。その判断は「作品」としては正しかったと思う。
しかし、このポスターを駅構内で見る人達は、日常という「ケ」の時間を過ごしている人達である。そうした人達が唐突にこの「ハレ」のエネルギーを内包したポスターに触れるときに感じるのは、ただひたすらの「キモさ」でしかない。たいていの人は日常の通勤という、もっともエネルギーを消費したく内時間に、こんな人間が満ちあふれたポスターなどを見たくはないのだ。だから、このポスターは「広告」としては大変間違ったものだと思う。
そういう意味で、私はこのポスターの掲載を拒否したJR東日本の判断は、決して間違った判断ではなかったと考える。
しかし、問題だったのは、このポスターを「セクハラだから」という間違った理由で拒否したことだ。せめて拒否をするなら「キモいから」と、正直に告白し、このポスターをつくった写真家や髭と胸毛のオッサンに敬意を示すべきではなかったのか。
祭りとはキモいものだ。
しかし、そうしたキモい姿を晒すのも、また人間である。
祭りは人間そのものを暴きたてる。そして、それは広告という媒体に沿うものではない。
JR東日本が広告を拒否したって、千年以上続いてきた祭りはこれからも続いていく。
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か」
眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。