※この記事は2007年12月13日にBLOGOSで公開されたものです

 朝青龍の復帰で注目された冬巡業で、熊本県天草市の勧進元が、報道陣に対して一社あたり1万円の入場料を請求した。
 これに対し、マスメディアは、報道の自由を揺るがすものとして、入場料の請求に対して、不満の声をあげているという。

 しかし、この場合の「報道の自由」とは、いったいなんなのだろうか? 私には釈然としない部分がある。
 今回の巡業に対する注目度の高さは、朝青龍の騒動にあることは明白だ。相撲の内容を論じようというならともかく、騒動を報じる上で、土俵に上がった朝青龍の絵が欲しいだけのマスコミに対して、果たして勧進元が特別な配慮をする必要などあるのだろうか?

 だいたい、騒動に関しても、マスコミは「朝青龍が悪い」という結論ありきの報道に終始している。
 マスコミは朝青龍がモンゴルでサッカーに「興じていた」などと、「サッカーをして遊んでいた」かのように報じているが、実際はモンゴルサッカー協会が日本の外務省を通じて朝青龍に依頼する形で、サッカーに参加したのであり、朝青龍にとってサッカーは「仕事」であった。これを「興じていた」と報じるのは、報道の体として違和感が残る。
 このことに関して、モンゴル大使館が日本相撲協会に謝罪したり、モンゴルサッカー協会が謝罪の上、処分軽減の嘆願書を出しているのだが、このような経緯は、いまやほとんど報じられておらず、「朝青龍が仮病で本業をサボって、モンゴルでサッカーに興じていた」という極めて画一的な「事実」のみが報じられている。
 こうした朝青龍への注目のあり方は、一部の人達にとっては心地よいものなのかもしれないが、相撲業界全体の利益を考えたときに、そのような露悪趣味的な報道が有益であるとは考えにくい。
 勧進元の思惑がどこにあるのかは分からないけど、もしマスコミが相撲を盛り上げようとか、相撲の問題を考えていこうという真摯な姿勢で報じていれば、勧進元も入場料の請求という考えに至らなかったのではないだろうか。

 私は「報道の自由」の必要性は、ある特定の考え方に偏ることのないオルタナティブを生み出し、社会に対して数多くの視座を提供するためにあると考えている。
 しかし、朝青龍騒動に関してのマスコミのありようは、特定の考え方や特定の勢力に都合のいい視座のみを国民に提供し、朝青龍に対する一方的なバッシングを翼賛している。
 そしてこうした報道を繰り返すマスコミが、ちょっとしたお金を請求された途端に「報道の自由を守れ」と吹き上がる。
 報道の自由がそんなに大事ならば、その必然性を他人から認められるような報道機関であることをこころざすべきだ。報道の自由は決して既存のマスコミにあたえられた永久手形ではない。その価値はマスコミ自らがまっとうな報道をもって、守らなければならないはずのものだ。


プロフィール:
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)…1975年生まれ。自身のウェブサイト「深夜のシマネコ」や週刊誌等で、フリーター・ニート政策を始めとする社会問題に関して積極的な発言を行っている。近著:「若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か」

眼光紙背[がんこうしはい]とは:
「眼光紙背に徹する」で、行間にひそむ深い意味までよく理解すること。
本コラムは、livedoor ニュースが選んだ気鋭の寄稿者が、ユーザが生活や仕事の中で直面する様々な課題に対し、「気付き」となるような情報を提供し、世の中に溢れるニュースの行間を読んで行くシリーズ。