「東京はなんでも、やたらに高い…」そう嘆きながらも、女が東京にしがみつくワケ
あなたのカレンダーには、どんな予定が刻まれていますか？
これまでめくってきたカレンダーには、どんな素敵な思い出が刻まれていますか？
レストランの数だけ、ストーリーがある。
これは東京のレストランを舞台にした、男女のストーリー。
▶前回：離婚前夜、夫婦で最後のディナー。2人の思い出のレストランが起こした奇跡
Vol.7 梨花（24）6年間好きになれなかった街の、知らない一面
私にとって、大嫌いな時間が始まった。
「おいしそ〜！」
「かわいい〜！」
私も必死に、似たような言葉を投げかける。
「ね、おいしそう〜…」
けれど、すぐにボキャブラリーが尽きてしまう。
ちょうどそんなタイミングで、フォーマルな衣装に身を包んだ店員さんが絶滅危惧種だという鮎の塩焼きを運んできてくれた。
これがどんな料理なのか、誰も興味はないし、きっと店員さんだってそれに気づいている。けれど、料理の説明は一言一句省かれることなく、丁寧に行われる。
何て無駄な時間なんだろう、そう思ってしまう。
「え〜、絶滅危惧なのに食べちゃっていいの〜？」
「すご〜い」
説明が終わるや否や、カシャカシャといつもの音が響き渡り、スマホを手にした女が3人、画面に食い入りになっている。
「…おいしそうだね〜」
私も一応の相づちは打ちながらも、関心は鮎に向いてはいなかった。
― お会計、一体いくらするんだろ…。
東京は、なんでもやたらと高い。
雰囲気料や場所代という訳のわからない名目に、私はいつも納得感を得られない。目当ては料理であって、その場所ではないのに。
…私は、東京が好きになれずにいた。
東京のレストランが嫌いだというのに、女子会に参加する女。彼女の過去には一体何が…
鮎は、至って普通の鮎だった。私に味覚センスがないのか、本当に普通の鮎と変わらない味だったのかわからないけれど、この際別にどっちでもいい。
空腹を4割程度満たすだけの食事に16,000円払い、私は銀座から有楽町まで歩き、山手線へと乗り込んだ。
比較的空いた車内から、窓の外を眺める。同じような格好をしたサラリーマンが、駅に向かって吸い込まれて行く。
― まるで巣に餌を運ぶ、アリみたい。
そんな風景を眺めながら、私はぽつりとつぶやいた。
「私、何しているんだろう…」
◆
6年前、Instagramで知ったカリスマスタイリストに憧れ、私は上京した。
厳格な両親は横文字の、しかも不安定な職業に拒否反応を見せ、地元の山口をほぼ家出同然で飛び出した。
叔父の家に住まわせてもらい、アルバイトで学費を稼ぎ、服飾系の専門学校に通った。卒業後はスタイリスト事務所に所属、アシスタントとして毎日必死に働いた。
本当に、夢中だった。夢に向かって、文字通り全力疾走していたのだが、本気になりすぎてしまったようだ。すぐに体を壊してしまった。
叔父はそんな私を見かね、繊維を扱う中小企業での働き口を見つけてきてくれた。
「服に携われるし、正社員だからお給料も安定してるよ。体壊してまで働いちゃいかんよ」
そして、私は素直に叔父の言うことに従って、会社員として働きはじめたのだ。
服に関わる仕事といえばそうだけど、私のしたかったこととは全く違っていた。
けれど、叔父の私を気遣う言葉を、無視することはできなかった。
両親とほとんど疎遠になっている私にとって、叔父は唯一の身内といってもいいのだから。
それに、このままアシスタントを続けても、いつになったら芽がでるのかわからなかった。
“カリスマ”として人気を博すスタイリストは、ごく一握り。冷たい現実に、体だけじゃなくて、心まで折れかけていた。
だけど、夢を諦めて地元に帰るのもなんだかカッコ悪い。
結局、私は東京でやりたくない仕事をして、会社の同僚が月1で主催する「贅沢お食事会」というものに腑に落ちない交際費を払い、高い家賃を払っているという次第なのだ。
「ごたんだ〜ごたんだ〜」
聞き慣れた声とチャイム音に、外の喧騒。
私は物思いを強制終了させ、電車を降りた。
少し暖かい、春の陽気。
いつもは浅草線に乗り換えて、自宅のある荏原中延まで帰るのだが、その日は散歩がてら歩こうという気分になった。
五反田駅の改札を出て、西口から出て歩き始めたそのとき。
「お、梨花じゃねぇか」
懐かしい声が、私を呼び止めた。
東京に絶望してる梨花を呼び止めた、男の正体は？
「え、翔太じゃん」
翔太は、高校時代の同級生。
「そっか、お前東京いるのか！めっちゃ久々だな」
「うん、本当久しぶり」
数年見ない間に、随分と大人びた印象を纏ったように見える。
「な、一杯行こうぜ？付き合ってよ」
「…え」
「こっちにいい店、知ってんだよ」
久々の再会だというのに、どうするか考える隙間も与えない強引な翔太。
彼の誘いについて行きながら、また出費がかさむな…と些末な考えが頭をかすめる。
「ここここ！」
そんなことお構いなしに、翔太は大通りを曲がり、あるビルを指さした。
「…え？…ここ？」
古めかしい雑居ビルに、スナックらしき看板のネオンがともる。第一印象を一言で表すなら、それは“昭和”。
「梨花、今どこ住んでるんだっけ？」
「中延のほうだけど」
「じゃ、五反田近いじゃん」
「うん、毎日通ってるよ」
「え、五反田ユーザーなのに、五反田ヒルズ知らないの？」
ありえない、とでも言いたげに翔太は大袈裟に私の顔を覗き込む。
「…うん」
「お前、まじでそれ人生損してるぞ」
やれやれと言った表情で、中庭らしき場所にある螺旋階段を上りはじめる。
そして、翔太は『美亭』と書かれた扉を開けた。
◆
「え、なにこれ…。めっちゃ美味しい…」
正直、全く期待していなかった。
ついさっき、なかなか予約が取れないという高級レストランで食事をしてきたばかり。私にはよくわからなかったけど、一応美味しいとされている高級食材の後味が、まだ口の中に残っているのだから。
けれど、常連だという翔太が頼んだ串はどれも絶品だった。鮭ハラスに鯖、皮、うずら玉子、トマトの肉巻き…。
とくに鮭ハラスは、皮の焦げ目と脂身、塩加減が絶妙。ビールがこれでもかというほどにすすむ。
「だろ？てか、お前すごい食べっぷりだな、腹減ってたのか」
「いや、そうじゃないけど…」
「しかも、どれも1本150円〜ってのがいいんだよ」
「え、まじ？100本食べてもさっきより安い…」
―同じ魚なのに…。
ついさっき食べた鮎を、思い出す。
「なんて？」
「いや、なんでも…」
「梨花、もしかして『都々井』とか『おにやんま』も知らないの？」
「…うん、私高い店はちょっと」
「お前何言ってんだよ…」
そして、翔太は語り始めた。
すぐ近くにある『おにやんま』には、安くて美味しいうどんを求め、朝も夜遅くも行列が絶えないこと。
このビルの1Fにある『都々井』は、東京で一番コスパのいいお鮨屋さんと言われていて、いつも常連さんで賑わっていること。数年前に一度閉店してしまったが、再オープンを願う常連さんがクラウドファンディングで開業資金を募ったとか。
「それから、この1Fにある『気になる嫁デラックス』ってとこも最高でさ…」
アクセスの良さに比して庶民的な雰囲気であることに魅了され、もう6年も五反田に住んでいるという。
まるで我が街かのように語り続ける翔太の横顔は、とても楽しそうだった。
「美味しいのに安いってさ、やっぱ最高じゃん」
「たしかに…」
そして、翔太は独り言のようにつぶやいた。
「そんな仕事がしたいよな…」
翔太は早稲田大学を卒業し、超一流企業にも内定をもらっていた。それなのにすべての内定を蹴り、カメラマンを目指して勉強中だという。
「…どういうこと？」
「別に有名になったり金持ちになったりしなくていいからさ、目の前のお客さんのことをちゃんと満足させられる仕事ができればいいなって…」
翔太は遠くを見つめながら、ボソリと吐き捨てるようにつぶやく。
「普通にちゃんとした仕事ができれば、それでいいなって」
そんな彼を見て、私は何も言えずにいた。
過剰なサービスもなければ、着飾ることもない。けれど、十分に腑に落ちる価格で顧客を満足させる。
彼はこの店から、五反田という街から、何を感じとっているのだろう。
「おい、なんかしんみりすんなよ、恥ずかしいだろ」
「…ごめん」
― 普通に、ちゃんと…。
夢を真剣に追いかける彼の言葉は、どうしても私の心に引っかかってしまった。
◆
「じゃ、また飲もうぜ」
五反田の街に消えていった彼を見送り、私は中延へと向かって歩き始めた。
着飾ることのない街を歩きながら、私は考えた。
勝手に“カリスマスタイリスト”という高すぎる目標を設定し、勝手に頑張りすぎて、挫折した。もしかしたら、私は極端すぎたのかもしれない。
別にカリスマになれなくてもいい。東京の高いレストランの値段に、納得感を得られなくてもいい。
ただ、やりたいと思える仕事を、普通にちゃんとやれればいいのかもしれない。
…きっと、今よりはいい未来になる気がする。
「…もうちょっと、頑張ってみようかな」
私はスマホのカメラロールに残っていた鮎の写真を消して、叔父に電話をかけた。
そういえば、翔太は昔から現実主義者というか、どこか冷めた部分があった。だから大学を卒業してもなお、カメラマンになるという夢を追いかけていることがちょっと意外だった。
でも、大人になるって、夢を諦めることじゃなくて、現実的な夢を見ることなのかもしれない。
「あ、もしもし、あのね…」
普通に、ちゃんと。
大人になってはじめて、私はこの街に一筋の光を見つけたような気がした。
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