経営していた会社が倒産し、負債を抱えた夫を「捨てる」と決めた女。しかし1週間後、まさかの展開に…
恋に落ちると、理性や常識を失ってしまう。
盲目状態になると、人はときに信じられない行動に出てしまうものなのだ。
だからあなたもどうか、引っ掛かることのないように…。
恋に狂った彼らのトラップに。
▶前回：マッチングアプリにハマった女が取った、危険すぎる行動
「麻里亜、あれ…。あとで片付けといてくれ」
月曜の朝8時。全身から酒の臭いがする夫を送り出すと、私はマスクとゴム手袋をして、リビングに向かった。
「あぁ、今日もだわ…」
結婚した5年前、一括で購入した代々木上原の3LDKマンション。引っ越してきた当初は大好きだったこの家も、今では落ち着くことのできない場所になった。
夫の直也は毎晩、深夜に帰宅してから酒を飲み始め、ソファで酔いつぶれたまま朝を迎える。かつて輝いて見えた夫の面影はもう、どこにもない。
大学を卒業し、富裕層向け投資会社の受付嬢をしていた私は、友人の企画した食事会で直也と出会った。
当時、建築会社の次期社長候補だった彼は、付き合いだして間もなく社長になったのだ。
そして私が27歳、直也が32歳のときに結婚。最初の4年ほどは幸せだった。
しかし私たちは、なかなか子どもを授かることができず…。不妊治療をめぐって気持ちがすれ違うなか、直也の会社の経営状況が悪化し、酒に頼るようになったのだ。
だが私には、彼と別れることができない理由があった。…事業に失敗した父親の借金を、肩代わりしてもらっていたから。
その額、数百万円。簡単に離婚はできない。だから、こうして我慢するしかなかった。
「ふう、やっと片付いた…」
一通り部屋の掃除を終わらせると、私はいつものようにスマホのブックマークを開く。“あるサイト”を見るためだった。
夫に不満を募らせる麻里亜が、スマホでこっそり見ていたモノとは？
死神、現る
それは、夫デスノート。
おどろおどろしいフォントのサイトが表示され、多くの女性から寄せられた“夫の死”を願う書き込みが、何スクロールも続く。
私はコーヒーを飲みながら、一通り“今日のデス書き込み”を読み始めた。
「えっ！Rikoさんの夫、とうとうアルコール中毒で入院されたんだ。…おめでとうございます、っと」
コメントを入れると、彼女からすぐに返信があった。
『Riko：Maria様にも、死神が微笑みますように』
「死神、か…」
夫に消えてほしいと願う私のストレス発散法は、こうして夫デスノートに直也の悪口を書き込むこと。私の投稿者名は、Mariaだ。
『Maria：今日も夫は、吐き気のするような臭いを漂わせながら会社に行きました。早く消えてほしい』
ほどなくして、いくつかコメントが入る。
『Nami：望みが叶いますように』
『Yuko：うちの夫もアル中です。消えてほしいですね』
同じ空の下に、酒乱の夫に消えてほしいと願う女性たちがいると思うだけで、救われる思いだった。
…そんなとき、あるコメントが目に留まったのだ。
『God：あなたの夫をこの世から消すお手伝いをします』
コメントの下にはURLが貼り付けられている。そっとタップすると、真っ赤な壁紙に“消し屋”と黒文字で書かれたサイトが表示された。スクロールすると、問い合わせフォームが表示される。
「なにこれ…。なんだか気味が悪いなぁ」
背筋が冷たくなるのを感じた私は、サイトを閉じて、お気に入りの韓流ドラマを見始めたのだった。
◆
その夜。眠りにつく直前、ベッドの中で夫デスノートを開くと、新着コメントが届いていた。
『Riko：消し屋さんに頼むと、うまくやってくれるよ』
― 消し屋って、あのサイトの…？
返信しようとした、そのとき。寝室のドアがいきなり開き、直也が怒鳴り込んできた。
「おい、麻里亜！…倒産が決まったよ、うちの会社」
「えっ、ウソでしょ…」
「負債の一部は、俺が被る。もう1回生まれ変わったって返せる額じゃない」
そう言って夫はリビングに向かい、浴びるように酒を飲み始めたのだった。
私は寝室に閉じこもり、子どもの頃のことを思い出していた。幼少期は裕福な暮らしを送っていたけれど、父の会社が倒産して生活が一変したのだ。
あの日々にはもう、絶対に戻りたくない。私は衝動的にスマホを開くと、消し屋のサイトにアクセスしていた。
『プライバシー厳守・完全匿名性で、24時間対応の無料電話相談を受け付けています』
リビングからは、猛獣のような直也のいびきが聞こえてくる。私は早鐘を打つ胸を押さえながら、電話番号をタップした。
「お問い合わせありがとうございます。消し屋お客様担当の、神谷です」
電話の向こうから聞こえてきたのは、高級ホテルのコンシェルジュのように上品な女性の声だった。
「あ、あの…。消し屋の利用を、検討してまして…」
「かしこまりました。私どもの消し屋は、お客様のお望みに合わせて、様々なプランをご用意しております。100万円の行方不明プラン、300万円の事故死プラン、そして1,000万円からの特別プランの3つですね。
基本的には1ヶ月以内のご希望のお日にちに、お相手をこの世から抹殺させて頂きます。ちなみに、どなたをご希望でしょうか？」
「夫を…」
「旦那様ですね、かしこまりました。同じようにお望みの方は多数いらっしゃいます。失礼ですが旦那様とは、まだ婚姻関係でいらっしゃいますか？」
「あ、はい…」
「でしたら、旦那様が死亡保険に入っていらっしゃる場合にオススメの、事故死プランもございますが」
担当者の驚くほど明るい声に、自分が恐ろしいことを計画しているのを、つい忘れそうになる。
「いえ、実は夫の会社の経営が芳しくなく…。保険や証券はすべて解約していたはずです」
「承知しました。それでしたら月額オプション5万円の、人生のシナリオも付けられてはいかがですか？」
「人生のシナリオ、って…」
「旦那様が行方不明になられてからの、人生プランのご提案です。未亡人という形で生活なさりたいか、別のお相手の方と第2の人生を歩まれたいか。専任のコンサルタントが、今後のライフプランをご提案いたします。
お支払いは、作業がすべて完了したあとの後払い決済となります。もちろん、分割払いも可能です」
恐ろしいサービスを知ってしまった女。果たして、契約してしまうのか…？
「お客様、いかがなさいますか？」
電話の向こうから話しかけられている声が、遠くに聞こえる。私はその場にボーッと立ち尽くしたまま、しばし考え込んでいた。
「クソッ…！！」
するとそのとき、リビングから直也が叫ぶ声が聞こえてきたのだ。私はビクッと肩を震わせ、咄嗟にこう懇願していた。
「お願いします…！今すぐに夫を消してください」
「かしこまりました。では1週間後の19時頃に設定させて頂きます。ただし想定外のトラブルによっては、時間が前後する場合がございますのでご了承ください。では作業完了まで、今しばらくお待ちくださいませ」
その翌日。メールで行方不明プランの契約書と、“人生のシナリオ”と書かれたファイルが送られてきた。
そこには夫が消える前にすべきことや、希望する就職活動のために必要なことなどが、具体的に記載されていたのだった。
そうこうしているうちに、直也が行方不明になる日を迎えた。
倒産の手続きに追われていた彼は、朝7時に家を出発。もう二度とその姿を見ることがないんだろうなと思いながら、夫の背中を見送った。
「あと12時間、か…」
消し屋が本当に、直也を行方不明にしてくれるのか。まだ半信半疑だったが、おかげでこの1週間、以前よりもラクな気持ちで過ごすことができていたのは事実だ。
そのとき、スマホの着信音が鳴った。…直也の会社の、固定電話からだ。私は喉から心臓が飛び出しそうになるのを押さえ、電話に出た。
「もしもし。スマホ、置き忘れてないかな？」
周りを見回すと、彼のスマホは玄関の棚に置かれていた。
「あっ…。家にあるよ、持っていこうか？」
「うん。ありがとう、いつも」
直也の声が、いつになく優しく感じる。自分がこれからしようとしていることに罪悪感を覚えるが、酒に酔った彼の姿を思い出し、その考えを振り払った。
― もう直也と会うのは、これで最後。
私は彼のスマホを手に、マンション前の交差点で信号が青になるのを待つ。
「やだ、雨降ってきちゃった」
頬に冷たいものを感じ、私は上着を頭に羽織った。いつもより長く感じる信号が青になったのを確認し、駆け足で交差点を渡る。
そのとき、遠くで声が聞こえた。
「危ない！」
顔をあげると、交差点の向こうに立っている男性が、私を指差している。振り向くと、目の前に大きなトラックが迫っていた。
「えっ…？」
そして視界が回転したあと、私の身体はグシャリという音とともに、アスファルトに叩きつけられたのだ。
「救急車！救急車を呼んで！」
誰かが叫ぶ声が、遠くで聞こえる。握っていた直也のスマホの振動が、私がこの世で感じた最後の感覚だった。
◆
新着：メッセージ1件
奥様を消す作業を完了いたしました。
保険金を受け取られましたら、お支払いの手続きを進めさせていただきます。
消し屋事務局
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