「こんな金額、返せない…！」高級ブティックの値段を知らなかった地味女は、慌てて男に電話して…
「変わってやる！」
そう思った瞬間から、人生はアップデートされていく。
10年前の恋愛の傷から、着飾ることをやめノーメイクで生きてきた春野菜月（29）。
そんな彼女が、変わることを決意したら―？
◆これまでのあらすじ
経営者・大翔から仕事をもらうことになった菜月。突然連れていかれたクロエのブティックで、社会人としての身だしなみだからと、無理やり服をプレゼントされる。
▶前回：「私、そんなつもりで来たんじゃないのに…」興味のない男に押し切られて、タクシーで連れて行かれたのは
「今度ディナーおごってよ」
…昨日の大翔のニヤけた顔を思い浮かべながら、菜月は顔をしかめた。
プレゼントとして無理やり渡されたクロエの服は、まだ紙袋の中に入ったままになっている。
プレゼントと言っても、菜月は何もねだっていない。
最初は受け取りを拒んだ。それでもどうしてもと言うので、代金を払おうとした。しかし大翔は代わりに「ディナーおごってよ」と言ってきたのだ。
― はあ。面倒ったらないわ。…で、この服どのくらいするんだろう。
紙袋から服を取り出すと、菜月がこれまで着てきた服とはまったく違う触り心地がしてうろたえる。
パソコンで値段を調べると、間の抜けた声が出た。
― ふぇ！？
肩に刺繍のあしらわれたワンピースは、菜月の月収ほどあるのだった。目まいがしそうになる。
― こんなお値段って知ってたら、絶対に受け取ってないわ！
まさか、だった。かなり素敵な服ではあるけれど、数万ほどだと思っていたのだ。
ファッション誌のひとつでも読んでいれば…と、己の無教養さにため息が出る。
急いでスマホを手に取った。
「もしもし、大翔さん！」
「お、どうした？」
「昨日のお洋服、やっぱり受け取れません！恥ずかしながら、お値段を調べました」
大翔から「お礼にディナーを」と言われて、すんなりうなずいたことを恥じた。この金額をディナーで返せるわけがない。
しかし焦る菜月の耳に、大翔の笑い声が届く。
電話越しの笑い声。その心理とは？
「はは、菜月ちゃんって面白いね。でも俺は『投資』って言ったでしょ？」
「はい？」
「これは投資なんだよ。菜月ちゃんがうちのアプリで活躍したら、当然俺にも収入が入る。だから菜月ちゃんはただ、活躍する人間に育ってくれればいい」
大翔はやや早口で、さも当然のように言った。
「あ、でもディナーだけは、おごってよね。行きたい店があってさ」
大翔のワクワクした声に、菜月は違和感を覚える。
― こんなの、絶対に下心がある。仕事をお願いしたいだけじゃないんだわ。
大翔がいくら稼いでいるか知ったことではないが、下心もなくポンと何十万円も出せるわけがないと思った。
「わかりました」
渋々そう答えながら、菜月は決めた。
― 今度のディナーで、どんな仕事がもらえるのかきちんと聞こう。相当魅力的な仕事じゃない限り、もう会わないって言おう。
◆
「美味しいです」
大翔が指定したのは、皇居から程近いクラシカルフレンチだった。
シャンデリアの輝く個室で前菜を食べながら、菜月は目をまるくする。
「え？なに？こんなの、食べたことない…！」
「面白いな。菜月ちゃんの反応見てると、食事がますます美味しくなる」
大翔は、満足そうにうなずいた。
今日は、もらったクロエのワンピースに身を包み、メガネを外して化粧もバッチリしてきた。
そのことに大翔は先ほどから満足げだが、着飾ったのは無論、大翔のためではない。普段の菜月のままではとても入れないランクのレストランだからだ。
「あんまりジロジロ見ないでください。じっくり味わいたいので」
真顔でそう言うと、大翔はまた笑った。何を言ってもニヤニヤしてくる。
― これじゃ、まるでデートだわ。私はただ、仕事が欲しいだけなのに。
心の中で悪態をつくと、それを察したかのように大翔は仕事の話を始めた。
「そうだ。菜月ちゃんにはね、記事を書いてもらいたいんだ」
大翔は、急に真面目な表情になる。
「うちのアプリ、AIって謳っているからか、たまに『生きた英語』には弱いって思われていることが調査でわかったんだ」
大翔の会社は、AI英語学習アプリを手掛けているのだ。
「だから、現役で活躍している通訳者のエピソードをトップに掲載したい。それがイメージ改善になるかもしれないと考えてるんだ」
「はあ…」
大翔は真面目なトーンで続ける。
「ライティングのプロも入れて、テーマと構成は考えてもらうから、安心して」
「はい。…条件は、決まっていますか？」
「そうだな。1回5万円。向こう半年間、ひと月に最低4回は必ず発注する。これでどうかな？」
大翔とのディナー。菜月は意外な感情を抱く
菜月はコクリとうなずいた。
固定の収入は、フリーランスにとって命綱のようなものだ。しかもありがたいことに、かなり待遇がいい。
「わかりました。ぜひ、お願いします」
真顔のまま言った菜月の方に、大翔の手が伸びる。ふたりは握手を交わした。
最高の料理に、仕事がもらえる高揚感。菜月はいつもより開放的な気分になった。
こまめに注がれるワインに、酔いも進む。
普段は5杯ほどしか飲めないのに、今は何杯飲んだのかがまったくわからなくなっていた。
大翔も上機嫌で、身の上話をする。
「俺はね、受験英語しかできない人間だったんだよ。話す英語が、まるで通じない。でもそういう日本人って多いだろ？だから英語学習アプリを作りたくってさ」
学生時代に英語力をつけられなかったという大翔は、オックスフォード大学に留学していた菜月を、尊敬のこもった目で見つめた。
「ねえ。留学のこと、もっと聞かせてよ」
「はい」
酔いが回った菜月も、いつもの倍以上に饒舌になる。
イギリスで驚いたことや、楽しかったことを話しては、ふたりで笑いあった。
シャーベットを食べ、コーヒーを飲み終える頃、菜月はハッとする。
「あ！私、お会計してきますね」
思わず忘れかけていたが、今日の第一目的は、プレゼントの一部を返金することだった。
ゆっくりと席を立ちかける。しかし大翔は、いつものようにおかしそうに笑うのだ。
「菜月ちゃんって、冗談通じないところあるよね。可愛い」
「はい？」
「さすがに俺が払ったよ」
ポカンと口を開けたまま、瞬きをした。
― どういうことなんだろうか。
大翔の得意そうな顔を見ても、あまり嬉しくない。
説明を待つが、大翔はただ「楽しかったなあ。あっと言う間だった」と名残惜しそうに言うだけだった。
「ごちそうさまでした」
もやもやした気持ちのままお礼を言い、店の外に出る。
少し歩いたとき、大翔の手が菜月の腰にまわされた。
「菜月ちゃん。うちにいいウイスキーあるんだけど、飲みたくない？」
「え？結構です」
トゲのある声になった。
留学時代にトニーと関係を絶ってから、一度も男性と寝たことはない。10年近くも経験がないのだ。
― 私、本当に大切にしてくれる人としかしないんだから。
その時、救世主のようにタクシーが現れた。
菜月は自分から手をあげて止める。
「では大翔さん、お先にどうぞ」
「まいったな。強制退場か」
返金もできなかった上、露骨に誘われたから、菜月は不快だったのだ。
苦笑いする大翔に、せめてもの礼儀として言った。
「本当に美味しいお食事でした。ごちそうさまでした。お気をつけてお帰りください」
「菜月ちゃんも気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
それから大翔はしばらく菜月の顔を見つめたあと、確認するように言った。
「楽しかったね」
菜月は、その言葉になぜか自然とうなずいていた。
大翔がタクシーに乗り込んで、去っていく。
「ありがとうございました…」
届かない声を出しながら、いま自然にうなずいた自分に驚いていた。
― え…楽しかった？…どうしよう。私、楽しかった。
立ち尽くしたままで、遠ざかるタクシーのテールランプを見つめる。
なぜだか目を逸らせない自分に、菜月は戸惑うしかなかった。
▶前回：「私、そんなつもりで来たんじゃないのに…」興味のない男に押し切られて、タクシーで連れて行かれたのは
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嫌いなはずなのに…思わぬ気持ちの変化
