戦後初めて日本が開発した国産戦車の61式戦車。1961年制式化のためそう呼ばれますが、実はヨーロッパにも同じような名前の似た戦車が存在します。よく見ると開発の端緒も似たような境遇からでした。

強敵だったソ連製T-34/85戦車

 日本が戦後初めて開発した国産戦車「61式戦車」。いまでも各地の陸上自衛隊の駐屯地などに展示されています。しかし、世界を見渡すと同じく「61」と名付けられた戦車が存在します。それはスイスの「Pz.61」。Pzとは「Panzer」すなわち「装甲」、転じて「戦車」という意味のため、日本語に訳せば「61戦車」であり、まさに日本の61式戦車と同名といえるでしょう。

 よく見ると外観形状も似通っている両車、奇しくも同時期に東西の小国が独力で生み出したMBT(主力戦車)です。しかも、どちらも1度も戦火に晒されることなく退役しています。この日本とスイス両国の「戦わざる戦車」がどのような経緯で生まれたのか見てみましょう。


日本の61式戦車(上)とスイスのPz.61(柘植優介撮影)。

 まず日本の61式戦車ですが、第2次世界大戦に敗れた結果、日本では戦前から培ってきた独自の装甲戦闘車両の開発能力が途絶えてしまいました。戦勝国が、敗戦国の軍事力の根源ともいえる兵器開発能力を制限するのは、当然の措置だからです。

 しかし1946(昭和21)年の中国の国共内戦、1950(昭和25)年の朝鮮戦争勃発など、東アジアにおける共産主義の台頭に危機感をおぼえた戦勝国の代表たるアメリカは、自らのコントロールの下での敗戦国日本の再軍備化を容認します。そして自衛隊の前身となった保安隊に、M24軽戦車「チャーフィー」を供給。さらに、後にはより強力なM4A3E8「シャーマン」中戦車の供与も行いました。

 とはいえ、M24は朝鮮戦争で北朝鮮軍が装備したT34/85戦車に対して苦戦を強いられ、M4A3E8も、アメリカ戦車兵の練度が高かったおかけで、かろうじてT34/85に優位を保てたというのが実情でした。そのため、戦車としての基本性能でT-34/85を凌駕できたのは、90mm砲搭載のM26「パーシング」中戦車と、その改良型であるM46「パットン」中戦車でした。

強力戦車くれないなら自分で造っちゃえ「61式戦車」

 第2次世界大戦末期に登場したM26は、当初「重戦車」に分類されていましたが、のち「中戦車」に再区分され、同じ90mm戦車砲を備えた後継のM46は、戦後第1世代MBTの嚆矢に数えられました。そして朝鮮戦争での戦訓を知る日本も、M26やM46といった大型の高性能戦車に着目していました。

 ところが、朝鮮戦争の戦訓のみならず東西冷戦の激化も影響して、アメリカは自軍用の戦車の開発と生産に躍起となっており、日本への戦車の供給は、大きく遅れそうな状況でした。そこで日本は、MBTの国産化へと舵を切ったのです。


旧ソ連の傑作中戦車であるT-34/85(柘植優介撮影)。

 開発は1955(昭和30)年からスタート。戦前の戦車にも使用されていて蓄積があった空冷ディーゼル・エンジンを採用し、鉄道や橋梁などのサイズ制限や重量制限もそれなりに考慮しつつ、当時主流だったアメリカ製の90mm戦車砲を、改修のうえ国産化して搭載しました。

 なお、当時は陸上自衛隊(1954年発足)が国外に展開することは一切考えられていなかったので、この国産戦車は日本国内のインフラや地形にのみ対応し、日本へ上陸侵攻してきた敵戦車を撃破できればよいという条件に基づいて開発されました。

 こうして誕生した戦後初の国産戦車は、1961(昭和36)年に制式採用となり、61式戦車と命名されます。敗戦直後の戦車技術断絶の期間があったにもかかわらず、世界水準に達した戦後第1世代MBTとして見事に成功したのです。その性能は、アメリカをはじめ世界の同世代のMBTと比較しても、勝るとも劣らないものだったといえるでしょう。

みんな大変そう、自力開発してみるか「Pz.61」

 一方、永世中立国のスイスは、第2次世界大戦前には戦車を輸入に頼っていました。大戦中、戦車は急速に進歩したものの、戦車の開発・生産能力を備えた列強はすべて参戦しており、自国や同盟国向けの生産に追われ、スイスに戦車を輸出する余裕はありませんでした。

 またスイスとしても、戦車という陸戦の主力兵器を輸入することで、特定の大戦参加国との関係を深めるのは避けたいという意向がありました。

 このような理由から、スイスは戦後になって急ぎ当時の最新鋭戦車を求めたのですが、やはり朝鮮戦争や東西冷戦の激化のせいで、戦車開発能力がある西側戦勝国のなかにスイスに対してMBTを供給してくれそうなところは見当たらなかったのです。


陸上自衛隊の61式戦車。2色迷彩が施されるようになったのは1980年代以降のこと(柘植優介撮影)。

 もっとも、各国とも最新鋭戦車は自国軍への配備を優先しており、輸出するだけの余裕がなかったというのが本音でした。このあたり、不戦国と敗戦国という違いこそあれ、同じ国際情勢から受けた影響のせいで、スイスと日本はよく似た状況にあったといえるでしょう。

 こうしてスイスもまた、MBTの国産化という道を選択しました。とはいえ、同国には優れた時計や銃器を生み出す精密機械産業こそ存在していたものの、戦車の開発に不可欠な装甲板の鋳造や鍛造、内燃機関の開発に必須の重工業が脆弱という泣き所もありました。しかし、スイスはそれを押してMBTの国産化にまい進します。

 1957(昭和32)年、試験開始の年号を冠した試作車「Pz.58」が完成します。同車はアメリカ製の90mm砲、イギリス製の20ポンド砲、同じくイギリス製の105mm砲という各々の主砲を搭載したバージョンが造られ、比較試験が行われました。

 その結果、当時西側の標準戦車砲となりつつあったイギリス製の105mm砲L7を搭載することが決まり、最終的に1961(昭和36)年に「Pz.61」として量産が開始されました。

二つの61とも戦場に行くことなく全車退役

 Pz.61は、日本と同じく外国への侵略を意図しないスイスが独自に開発したMBTなので、61式戦車と同じく、自国内での運用に主眼を置いたコンセプトで造られています。たとえば、高速機動戦ではなく、定地防御的な運用を中心にすることや、敵をできるだけ遠距離で撃破できる能力などです。

 そのため、当時すでに西側で広く普及していた90mm砲ではなく、より強力な最新の105mm砲をあえて採用したようです。そして、この105mm砲を採用したことが、61式戦車とのいちばんの違いであり、日本の61式戦車が戦後第1世代MBTに分類されるのに対して、Pz.61は同年生まれながら戦後第2世代MBTに区分される理由となっています。


スイスが開発したオリジナル戦車Pz.61。主砲はいち早く105mmライフル砲を搭載しており、日本の61式戦車よりも強力だった(柘植優介撮影)。

 しかし61式戦車には、Pz.61に対して大きなアドバンテージがありました。それは、前者は国産の12HM21WT空冷ディーゼル・エンジンを搭載しているのに対し、後者はメルセデスベンツ837というドイツ製のディーゼル・エンジンを搭載していたことです。「戦車の心臓」たるエンジンを国産化できるか否かは、まさにその国の戦車開発能力の指標というべきものです。

 片や、国内どこでも道幅が比較的狭く曲がりくねっており、狭隘な山里に森林や耕作地が散在する山がちな地形が多い日本国内での運用に主眼を置いた61式戦車。片や、山がちではあるものの道幅も広く、山裾では、なだらかな傾斜の開豁地に田園地帯や森林が広がるスイス国内での運用に主眼を置いた設計のPz.61。この両車の登場当時の仮想敵はT-54/55となっていたため、90mm砲装備の前者にとっては少々手強い感はありました。

 しかし、それはそれとして、戦車先進国からの導入ではなく、独自に戦車開発の途を選択した東西の「不戦の国」が、奇しくも同じ時期に開発着手し、同年に制式化されたという点に不思議な縁を感じます。そして、両車とも戦火を潜ることなく、全車その任を終えたのは、まことに喜ばしいことといえましょう。