「アメリカ半端ねぇ」東京湾のB-29残骸に見る隠れた先進性 いかに技術のカタマリだったか
戦時中に墜落して東京湾で発見されたアメリカのB-29爆撃機の主脚とタイヤ。詳細を見ると75年以上前に作られたとは思えないテクノロジーが垣間見えました。そこには当時の日本では追いつけなかった先進技術も盛り込まれていました。
海底から見つかった戦争遺物とその正体
2020年11月30日、千葉県木更津沖の東京湾において操業中の底引き網漁船が、水深22mほどの海底で金属製の物体を網に引っ掛けました。このおよそ1tはありそうな大きな塊とタイヤは、後の調査で航空機の主脚、しかも太平洋戦争中に墜落したアメリカの爆撃機、B-29「スーパーフォートレス」の主脚とタイヤであると判明したのです。
「超空の要塞」と呼ばれたアメリカの長距離戦略爆撃機B-29。最高速度は640km/h以上、航続距離は6400km、爆弾は最大9t搭載可能で、搭乗員は11名であった(画像:アメリカ空軍)。
B-29爆撃機は太平洋戦争後期に登場したアメリカの大型戦略爆撃機で、出力2200馬力のエンジン4発を装備し、長距離飛行能力に優れていることから、中国大陸奥地、もしくは中部太平洋のサイパンやグアム、テニアンなどの島々から日本本土へ飛来し無差別爆撃を実施しました。これにより、多くの都市が爆弾や焼夷弾による火災で灰燼と化しており、一説には死者数は57万人(原爆被害も含む)に達したともいわれています。これは太平洋戦争中に死亡した日本の軍人と民間人を合わせた310万人のうち、実に約18%におよぶ甚大なものでした。
東京湾で発見された戦時中の遺物は木更津市で「拾得物」として管理されていましたが、昨2021年12月に発見者である漁船の所有者に戻されます。結果、この所有者の意向に基づいて栃木県那須郡にある戦争博物館へ移譲されました。
この過程で、本年2022年1月末に行われた移送作業の途中、日本陸海軍機の研究家で報国515資料館を運営する中村泰三氏のご自宅において、再調査と劣化防止を兼ねたクリーニング処置が行われました。
移送途中で見た巨大タイヤの先進技術
筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)は、その作業に、東京文化財研究所の研究員の方々と共に立ち会いました。B-29爆撃機の主脚の大きさと重量感に圧倒されながら、全体は錆び付きながらも光り輝くクロームメッキ部分に目を見張りました。また、同時にその横に置かれていた、直径が150cm近くもありそうな大きなタイヤにも目が行きました。
木更津沖の東京湾で発見されたB-29爆撃機の主脚タイヤ。その直径は150cm近くもあり、裂け目には絡まった細い繊維素材がいくつも見られる(吉川和篤撮影)。
B-29の主脚はダブルホイールです。今回、見つかったタイヤはいずれかの片側で、滑り止めに亀甲型のトレッドパターンが刻まれたものでした。そして、普通は目にすることのない内側も見ることができ、さらに墜落でできたと思われる裂け目には、絡まった細い繊維素材を確認しました。
B-29爆撃機の左右の主脚4本と前輪2本のタイヤには、現在では一般的ながらも、当時は新素材であったナイロン製のコードをタイヤの骨格層に使用したバイアスタイヤが採用されていました。
戦後、我が国でも女性用ストッキングの素材として重宝された化学繊維のナイロンは、戦前の1935(昭和10)年にアメリカのデュポン社で開発されました。実は日本でも1941(昭和16)年には別種のナイロン繊維の開発に成功していましたが、ここまで巨大な航空機用タイヤにその新素材を使って製造する能力は、まだ当時の日本の繊維産業やゴム工業にはありませんでした。
銃弾からもわかる巨人機のハイテク武装
こうしたタイヤ1本からも当時、アメリカが保有していた世界屈指の先進テクノロジーを垣間見ることができますが、同じことは主脚に固着していた弾薬からもうかがうことが可能です。
発見された弾頭や薬莢は、機体に装備された12挺のブローニング12.7mm M2機関銃に使用されたものです。この機関銃は、遠隔操作で動く上下4か所の銃塔と尾部銃座に各2〜4挺ずつ搭載されていました。こうした銃塔の遠隔操作方式は、胴体の搭乗員室が与圧式で仕切られていたことから開発・採用されたもので、それまでの機銃手が直接乗り込む、有人方式のものとは一線を画していました。
この無人の機銃塔は、上面と左右側面の半球窓に3人の機銃手が付いて照準を行いますが、それとは別に機体前方に爆撃手が兼任したもう1か所の照準装置が設置されていました。そして射撃システムには、ゼネラル・エレクトリック社製のアナログ・コンピューターを使用した集中火器管制装置を採用しており、上面に座る機銃手が1人で指揮することが可能な一方、状況に応じて各機銃手が個々に役割を兼任することも可能な高性能なものでした。
アメリカ軍のマニュアルに掲載された上面後部の遠隔操作方式の機銃塔と「床屋のイス」と呼ばれた射撃指揮官席。ここで各銃座の集中管制が可能であった(吉川和篤所蔵)。
このように、わずかな遺物からも先進テクノロジーの集合体であったことがうかがえるB-29爆撃機の製造費は、当時でも63万ドルに達するもので、同じ4発重爆撃機であるB-17「フライングフォートレス」の製造費のおよそ3.5倍にもなりました。
それほど高価であったB-29ですが、損失は実に485機(戦死3041名)にもおよんでいます。これは太平洋戦争終結までに生産された同機約2500機のうち、実に20%近くを占める数字です。この数は事故で失われた機数を除いても、旧日本陸海軍機の迎撃や、高射砲射撃による防空体制が決して無力ではなかったといえるでしょう。
こうして、徐々に本来の姿を見せた戦争の遺物は現在、那須の戦争博物館に移送が完了しており、すでに慰霊式典も終えて3月からの一般公開(木曜閉館)に向けて準備も最終段階となっています。
新型コロナの状況にも左右されるでしょうが、今後、同館を訪ねた際には、この主脚とタイヤの展示を見ることで、当時のアメリカ航空機産業に思いを巡らしてみてはどうでしょうか。