今でも、憧れの人を間近で見るのは「現実味がない」と、彼女は言う。

 初めてテレビでコートを駆ける姿を見た時から、その人は彼女のスターだった。小学3年生時の自由研究ノートには、カラフルなペンで彩った"憧れの人"の写真をいくつも貼り、空白を「この人みたいになりたい!」の文字で埋めつくした。


大坂なおみ(左)の肩を抱いて祝福するセリーナ

 それから10年以上の時が経ち、23歳になった彼女は、憧れの人----セリーナ・ウイリアムズ(アメリカ)----と、全豪オープン準決勝で対峙する。

 39歳になった生きるレジェンドは、23のグランドスラムタイトルを手にし、一児の母にもなっていた。

 大坂なおみが、自分に対して無垢な羨望の目を向けていることも、セリーナはよく知っている。そして、2年半前の全米オープン決勝での不本意な敗北を払拭するために、必ず倒さなくてはならない相手であることも......。

 5日間の無観客の日々を経て、ロックダウンが解除されたセンターコートは、キャパシティの半分とはいえ席が埋まり、ファンの熱気で満たされた。

 試合開始前のウォームアップの間、対戦するふたりのプロフィールが場内にアナウンスされる。

「グランドスラム通算23度優勝。ここオーストラリアでは、2003年、2005年、2007年......」

 栄冠の足跡を読み上げる声に呼応し、アリーナが歓声に揺れる。

 その絶対的な強さの開示を前にして、畏怖せぬ者はいないだろう。

「とてもナーバスだったし、怯えてもいた」

 大坂も抱えた恐れを、隠そうとはしなかった。

 試合立ち上がりの大坂は、明らかに「恐れ」が表出する。

 甘くなったセカンドサーブを、激しく叩かれ決められたリターンウイナー。続くポイントでは、緊張が隠せぬダブルフォルト。その後も萎縮したかのように腕が振り切れず、打球は狙ったコースから外れていく。

 いきなり奪われた、ブレーク。畏怖の背景にあったのは、「彼女に甘いサーブを打ったらどうなるか、子どもの頃からずっと見てきたから」という、憧憬の記憶が結ぶ像だ。

 だが、3度のグランドスラムタイトルを懐に抱く今の彼女は、目の前の事象と過去を切り離す術を持つ。

「ごちゃごちゃ考えるのはやめよう。1ポイントずつしか取れないんだから、すべてのポイントで全力を尽くそう」と自らに言い聞かせた。

 そして今、やるべきことが明瞭化されている大坂は、誰よりも強い。

 3ゲーム目のブレークの危機を好サーブ連発で切り抜けると、文字どおり"地に足が着いた"ように腰を落とし、セリーナの強打を深く打ち返して、ラリーをじりじりと支配し始める。

 リターンでも、遮二無二ウイナーを狙うのではなく「中央に打ち返し、威力を"中和"することを意識した」。

 それは彼女がこのオフシーズン、最も力を入れて磨いた武器。それも打ち合いに持ち込めば、誰が相手でも優位に立てる、との勝算があってこその戦略でもある。

 その"中和リターン"が「なかなかうまくできたと思う」と、彼女はサラリと言った。

 同時にその頃から、セリーナにミスが増えていく。

 「なんであんなにミスをしたのか、訳がわからない」と、あとにセリーナは吐き出したが、おそらく本当はわかっている。淡々と、だが確実に自身を追い詰める23歳に、セリーナは重圧を、あるいは恐れを抱いていた。

 第1セットを6−3の逆転で奪った大坂は、第2セットに入るとさらに精神と動きを研ぎ澄ます。コートを広く使った走り合いでも、足を止め打ち合う力比べでも、大坂はセリーナを組み伏せていた。

 圧巻は第2ゲームでの、時速193kmの2連続サービスエース。大坂が畏敬の目を向けてきたリターンを、セリーナに打つ機会すら与えなかった。

 センターコートの大型スクリーンに映されるセリーナの顔に、困惑の陰が落ちていた。起死回生の一撃に悲壮な希望を込めて強打するも、叫び声とは裏腹に、ボールは伸びずネットを叩く。

 さらには、左右にピンポイントで打ち分けられる大坂のサーブも、セリーナはまったく読めなくもなっていた。ワイドに重心をかければ、190キロ超えのエースが中央に叩き込まる。中央に動けば、スライスサーブが逆サイドのコーナを滑っていった。

 試合開始から、1時間15分。大坂が5−4とリードし迎えたサービスゲーム。最後のゲームも、161キロのエースで幕を明け、そしてセリーナのショットがネットを叩き、幕を閉じた。

 その時、大坂は控えめなガッツポーズをファミリーボックスに掲げると、うつむき気味にネットに歩み寄りながら、「現実味がない」存在へと頭を下げた。

 セリーナより少し早くネット際に着くと、足を揃えて再び会釈をする。近づくセリーナに対し、どうするべきか一瞬迷ったように見えたが、セリーナが両手を広げ肩を抱くとそれに応じ、そして......最後にもう一度、頭を下げた。

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 会釈は、彼女がいつの間にか覚えた仕草である。姉のまりから「意味がわからないから止めなよ?」と言われても止めず、母の環さんが「教えた訳でもないのに、いつの間に」と不思議がる、シャイな少女が体得した感謝の表出法である。

 そのいかにも日本的な所作が、最大の敬意の表れであることは、セリーナにも伝わっただろう。万雷の拍手を浴びる23度のグランドスラム優勝者は、観衆に毅然と手を振り、掌を胸に当ててコートをあとにした。

 涙の跡を隠しもせず会見室に現れたセリーナは、「あれは、オーストラリアのファンへの別れの挨拶か?」と問われると、「もし別れだとしても、誰にも言うことはないわ」とぎこちなく笑う。

 続く質問に応じようとした時、こみ上げる涙を押し止めることができず、「もう、おしまいね」と席を立つと、走るように会見室から去っていった。

 その、約1時間後。

 同じ席に座った勝者は、「もしかしたら、これがセリーナの最後の全豪かも」と記者に問われると、少し目を伏せて答えた。

「そんなこと言われると、悲しい。彼女には、永遠にプレーしていてほしいもの。私のなかの"子ども"が、そう言ってるの」

 セリーナを退け、決勝に歩みを進めた大坂は、2月20日、通算4度目のメジャータイトル獲得をかけ、これが初のグランドスラム決勝となるジェニファー・ブレイディ(アメリカ)と対戦する。