「事故物件住みます芸人」として8万部のヒット著書も持つ松原タニシさん(37歳)。彼はこれまでどんな人生を歩んできたのでしょうか(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第68回。

4人兄弟の末っ子として何不自由なく育った

松原タニシさん(37歳)は「事故物件住みます芸人」として活動している松竹芸能所属のお笑い芸人だ。

事故物件とは、自殺、他殺などで人が亡くなった住宅物件のことを指す。通常は忌避する物件にあえて住み、起こった出来事をレポートする。

松原さんは、大阪で殺人があったマンションを起点として7軒の事故物件に渡り住んでいる。東洋経済オンラインでも2度にわたり記事化し、どちらも大きな反響を得た。

自身の事故物件に住んだ経験をまとめた『事故物件怪談 恐い間取り』は8万部を超えるヒットになった。


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また、松原さんは心霊スポットと呼ばれる場所に出向き、そこで一晩を明かすという試みを続けている。その体験談をまとめた『異界探訪記 恐い旅』が今年7月に発売されたが、1カ月で3刷とこちらも売れ行きは好調だ。

今回は、松原さんが、どのような変遷を経て事故物件に住むことになったのか、幼少期からを振り返って追った。

松原さんは、兵庫県神戸市垂水区に生まれた。父親は公務員で、4人兄弟の末っ子だった。自宅は住宅地にあり、何不自由なく育ったという。

「幼稚園時代はトシちゃん(田原俊彦)のモノマネをみんなの前でしたりするような明るい子でしたね。

小学校時代は少年野球をやっていました。当時バッテリーを組んでいた塩川達也くんは、プロ野球選手になりました」

塩川達也選手は、東北楽天ゴールデンイーグルスに入団して活躍、現在は同チームの2軍内野守備走塁コーチを務めている。

「小学生時代はとくにガリ勉じゃなかったですけど、成績はよかったです。1つ上の兄がお笑い、野球、プロレス、音楽とマルチに詳しい人で、その影響で僕も詳しくなりました」

子供の頃は、朝日放送で放送していた『すんげー!Best10』というテレビ番組が好きだった。千原兄弟が司会で、中川家、次長課長、ケンドー・コバヤシ、など現在も人気のある芸人がたくさん出演する番組だった。

「クラスではお笑いにいちばん詳しかったです。クラスで面白いことをやるのは好きでしたけど、でもお笑い芸人になろうとは思ってませんでした」

クラスメイトとの離別

中学校になると、ほかの地区の小学校と合流して人数が増えた。

「『よその小学校のやつらはなんてお笑いのレベルが低いんだ!!』って思ったんです。話していても全然面白くない。ほかの学校の人と、もともとの友達が仲良くなることで“つまらなさ”がクラス中に侵食してくる気がして嫌でした」

そんな松原さんを尻目に、クラスではくだらない下ネタがはやり、みんなで盛り上がっていた。

松原さんは普段は下ネタはしなかったが、どうせ下ネタをするならと思い、和式便器にウンコでウンコという文字を書いてみんなに見せてみた。

「みんな口々に『さすがに笑えねえよ』『やりすぎだよ』って言ってきました。それで、もうこの人達とは面白いことはできないな、って思いました。大げさに言えばクラスメイトとの離別ですね」

松原さんは中学時代も野球部で汗を流していた。中3になり引退すると、野球部員たちはみんなサッカー部やバレー部など学校で“イケてる側”の生徒たちに迎合していった。そして急に女子たちと仲良く話すようになっていく。

「なんだこのつまらなさは!!って思いました。そこで『面白くない人とはしゃべらない』『女子としゃべる人とはしゃべらない』って自分で掟を決めました。

結果的にクラスの端っこでマニアックな話をしていたオタクの人たちとしか話さなくなりました」

そのルールは高校入試にも影響した。よりレベルの高い男女共学の公立高校に進学せず、あえて私立の男子校に進学した。

「当時は『女のいる世界に面白いやつはいない!! 面白いやつだけの国を作ろう!!』って本気で思ってました。ただ高校に入って愕然としました。男子校のクラスメイトも全然おもしろくなかったんです」

松原さんは、入学の日に3年間クラスメイトとは一切しゃべらないと決めた。

「卒業後クラスメイトとたまたま街で出会ったときに、話しかけられても無視してやろうと思いました。

中学を卒業後、面白くない人たちは髪をツンツンに立てたり、ズボンを腰ではいたり、路上に座り込んだりすることに気づきました。そんな面白くない彼らと仲良くなんかなってはいけないと思った僕は、彼らにナメられないためには自分も強くならないといけないと思い、柔道部に入部することにしました」

そんな理由で入った柔道部だったが、世界学生柔道選手権で優勝した経験を持つ先生が顧問を務める過酷な部活動だった。

「入部して3日で耳を潰されました。今もいわゆる餃子耳です。

しばらく言われるままに頑張ったんですけど、体の大きい人にはどうあがいても勝てないなって思いました。自分だけの柔道をやっている意味を見つけなきゃって思いました」

そこで投げ技はすっぱりと諦めることにした。その代わりに、関節技を研究することにした。一人でサンボ(ソビエト連邦の格闘技)の本を読むなどして研究し続けた。

「当時プロレスが好きだったんですが、ケンドー・カシンというマスクマンの得意技である、飛びつき腕ひしぎ十字固めを自分でもできないかと練習しました」

練習を重ねてなんとか飛びつき腕ひしぎ十字固めを使えるようになった。

早速大会でかけようとしたら、失敗して上手く手をつかめなかった。そして、そのまま下にドンッと落とされてしまった。

友達の価値に気づいた入院生活

試合は一本負けになり、しかも落下の衝撃で鎖骨を骨折した。そして病院に入院することになった。

「入院中はやることがなかったので、たくさん本を読みました。例えば大槻ケンヂさんの本とかに夢中になって、自分の中の世界が広がったように感じました。不幸中の幸いでした。

結局、高校3年生までクラスメイトとは誰ともしゃべりませんでした。相当な変人だったと思います。でも高校生活も終わる頃、クラスである漫画がはやっていて、それをどうしても読みたくなったので、

『読みたいから貸してくれない?』

って聞いたら

『もちろんいいよ〜』

って笑顔で貸してくれました。話したらすごいいいヤツで、友達の価値って面白い、面白くないだけじゃないよなって、そのときになって気づきました」

高校時代はほとんど勉強せず、大学入試では浪人をすると決めていた。

そして実際に浪人生活を過ごした。

「まずバイトがしたかったんですね。人材派遣会社に登録して、色々な仕事をしてみることにしました」

野菜の市場で段ボールに果物を詰めていくバイトを皮切りに、スーパー、カラオケ、コンビニなどでアルバイトした。

コンビニでのアルバイト中、中学の最後に友達になったオタクなクラスメイトと再会し、バンドを組んでライブをしたりした。

結局入試のギリギリになって勉強をしはじめて、京都の龍谷大学に合格した。

「1人暮らしがしたくて京都の大学に進学したのですが、両親に『何言ってるの? 実家から通いなさい』って言われました。毎日往復4時間の通学はしんどくて、すぐに嫌になりました」

「面白いやついないから、すぐに舞台に立てるよ」

その頃はコンビニの夜勤バイトをしながら大学に通っていたが、バイト終わりに中学校の同級生と再会した。

彼は修学旅行で漫才をしたりして、みんなに『面白い!!』って言われるような友達だった。彼は、松原さんがお笑いに詳しいことを思い出し、

お笑い芸人になろうと思うねん。吉本と松竹とどっちがいいと思う?」

と聞いてきた。

「松竹のほうがタレントスクールに入る値段が安いのでいいと思うよ、と勧めました。そうしたらそいつ本当に松竹芸能に入って、1〜2カ月で舞台に立っていたんですよね。そいつに、

『面白いやついないから、すぐに舞台に立てるよ』

って言われて僕も松竹に入ろうかと思いました。その時まで、お笑い芸人になりたいという気持ちはあんまりなかったんだけど『お笑い養成所に入って、舞台に立つ』という経験はしてみたいなと思ったんです。アルバイトして貯金をしていたのでお金に余裕もありましたしね」

そして松原さんは、松竹芸能のお笑い芸人養成学校に通うようになった。

そのとき大学2年生だが、すでに学校にはあまり通っていなかった。

「なぜかそのタイミングで父親が定年退職したのち、同じ大学の同じ学部に入ってきたんですよ。僕が父親の大学の先輩になってしまいました」

家族にはお笑い学校に通っていることは隠していたのだが、学校のつながりでバレてしまった。仕方なく、父親には「大学を辞めようと思っている」と伝えた。

松竹芸能ではアルバイトをしながら芸人を続けた。数カ月で、劇場の進行係の手伝いをすることになった。落語台を出したり、マイクを下げたりするような仕事だ。

「そのとき、お世話になったのが先輩芸人のみわゆうすけさんと、かみじょうたけしさんでした。みわさんに『俺部屋引っ越すから、貸してやるわ』って言われて、初めて1人暮らしをすることになりました」

「じゃあドラム侍でいこう!!」

そのとき、松原さんがやっているネタが、「一発屋芸能人へ手紙を書く」というものだった。

当時人気が高かったお笑い番組『エンタの神様』のオーディションで披露してみると、

「それを楽器使ってやれないかな?」

と言われた。松原さんが「ドラムなら少しは叩けます」と答えると、プロデューサーからは、

「じゃあドラム侍でいこう!! ドラム侍として、もうテレビ出られるからね」

と言われた。

「消費者金融から30万円を借りて、電子ドラムを買いました。それをみわさんから借りた自室に備え付けて、練習しはじめました」

部屋でヘッドホンをつけてドラムを叩いていると、階上から、

「うらー!!」

という怒鳴り声が聞こえてきた。何なんだろう?と思っていると、階段を乱暴に降りて来てドアを激しくノックされた。

「おそるおそるドアを開けると、ムキムキの筋肉で全身イレズミの男が、物干し竿を持って立ってました。『お前かー!!』って怒鳴られました」

男は部屋に入ってこようとしたが、すんでのところで男の奥さんがやってきて連れ帰っていった。

後ほどその男性は大家に、神戸で震災の体験があり、振動音に敏感で発作的にやってしまったと謝ったそうだ。その折に松原さんがドラムを持っていることが大家にバレてしまった。

「『ドラムはやめて』って大家に言われてそれで練習できなくなりました。もちろんネタもできず、借金だけが残りました。何なんだ!!って腹が立ちましたね」

そこからはなかなかうまくいかなくなった。松竹芸能では月1回ライブをしていたが、それにも選ばれなくなった。

煩悩の数だけライブをするんだ!!

「松竹芸能のライブに出演するには、誰が出演するのかを選ぶ人に好かれなければいけないなど色々関門があるんです。

まあ理不尽な部分もあるんですが、社会にはこういうつまらないシステムがたくさんあるじゃないですか。若いうちに出会っておいてよかったと思います」

松原さんは「松竹芸能のライブに出るだけがすべててじゃないよな」と思うようになった。同じような境遇にいる芸人を集めて、さまざまな自主ライブをするようになった。

お芝居にしたら珍しくて注目されるんじゃないか?と思ってやってみたが、演劇はなかなか大変で数回で終わった。

ならば、ピン芸人を集めて、大阪から広島まで各駅で路上ライブをしようということになった。

「大阪から広島まではちょうど108駅あったので、煩悩の数だけライブをするんだ!!ってなりました。

ピン芸人って漫才コンビに比べて人気がつきづらくて、ライブでも落とされがちなんです。ライブに出られないピン芸人を集めてゲリラライブをしたいという思いがありました」

駅前でゲリラライブをしていると、駅員などに怒られることがわかった。

ならば芸をしていない芸人が駅前の掃除をしたらいいのではないか?と思った。

「1人がネタをしている間、ほかの4人は全力でゴミ拾いをしました。そうしたら怒られなくなりました」

自主的なライブだからもちろんギャラはない。交通費は自腹だから、むしろ赤字だ。回を重ねるごとに、大阪から離れて行くため時間もお金もかかる。

「儲けにはなりませんが、やってるとうまくいってもいかなくても達成感はありました。結局、大阪〜広島各駅路上ライブは、4年かけてクリアすることができました。

姫路でライブをしている時、商店街の劇場から声をかけられて

『よかったらうちの劇場で毎月やってよ』

って言われて、無料ライブをさせてもらうことになりました。もちろん無料ライブなのでギャラはありません。それから9年経ちましたが、いまだにやらせてもらっています。『2000円払ってでもやりたい』『損してでも劇場に出たい』って人だけがやり続けました。結局振り返るとそういう人だけが芸人として生き残っていると思います。

松竹芸能から仕事をもらっていた芸人は、売れないことに対する不満とストレスでやめてしまう人が多かったです」

有名番組には出れたけど…

26歳の時、人気のお笑いテレビ番組『爆笑レッドカーペット』に出演することになった。

当時はフリップ芸をしていた。

「出れたのはうれしかったんですが、自分の面白いと思ってる部分をプロデューサーに全部変えられてしまったんですね。それでも頑張ったんですが客にはまったく受けず、2度と呼ばれることもありませんでした。まあ結局自分の力の無さが原因なんですけどね(笑)。

有名番組には出れたけど皆の記憶に残ることはできませんでした。苦い思い出ですね」

20代後半はお笑い芸人としては低迷した。賞レースでは勝てず、テレビ番組の出演もなかった。

そんな時にラジオ番組から声がかかった。『森脇健児のサタデーミーティング』(KBS京都)という森脇健児さんがMCを務める番組だった。そして森脇さんから、

「毎週、3分のネタを作ってこい」

と言われた。

「最初意味がわからなかったんですね。ネタって、漫才?コント?って。聞けば3分間フリートークできるネタを持ってこいってことだったんですね。その時初めて、エピソードトークって自分で探すんだって気づきました。毎週、生活しながら必死にネタを探してそれをラジオで話しました。例えば、

『下の兄貴が結婚することになって僕がネタをすることになったんです。上の兄貴が沖縄蛇味線を弾いて、おかんが日本舞踊で踊って、姉貴がアイドルのデビュー曲を歌って(松原さんのお姉さんはアイドル歌手)、父が仏教で説法を始めて。まるで松原一座のようでした』

みたいなトークをしました。5年間呼んでもらえて、普段からの心構えとしてネタを集めること、責任持って面白いトークをすることが習慣になっていきました。これが後からとても役に立ちました。

ただ相変わらずお笑いとしては低迷で、本来のネタではまったく評価されませんでした。レギュラーはこのラジオ番組だけ。周りの芸人もバンバンやめていきました。芸の収入だけでは当然食えず、どうしよう?と思ってるときに『事故物件に住む』という仕事が来ました」

「事故物件に住んでみないか?」

『北野誠のおまえら行くな。』(エンタメ〜テレ)という番組に出演することになった。


過去に住んだ事故物件(筆者撮影)

その番組で北野誠さんに、

「事故物件に住んでみないか?」

とふられ、事故物件に住むことになった。

「事故物件と言えど、ただ住んでいるだけでは、そんなに面白いことはなかなか起きません。そこで、ラジオの経験が生きました。日常の小さなことを拾い、面白く話すクセがついていたんですね。

でも、だんだん感覚が変なふうになっていきました。定点カメラに変なものが写ったり、交通事故に巻き込まれたり、普通なら嫌なことが起きると『ラッキー』って思ってしまうようになるんです。どんなに不幸なことでも、何も起きないよりはいいって思ってしまうんですね(笑)」

ただ、それでもどうしても『事故物件に住む』だけでは、起きることは限られている。基本的には、受動的に何かが起きるのを待つしかない。ならば、自ら何か起きそうな場所に出かけようと考えた。

「事故物件で寝られるなら、心霊スポットでも寝られるだろうと思ったんです。ヒマがあれば、心霊スポットに出かけていって、そこで寝るというネット配信をすることにしました」

『異界に泊まろう』というタイトルで動画配信しはじめた。配信収益システムはあえて使わず、無収入のまま配信した。毎回、長時間の生配信をした。


ある心霊スポット(筆者撮影)

「心霊スポットって多くは自然の中にあるから、夏は暑いし、冬は寒いです。立ち止まると死んでしまいそうになるので延々と歩き続けたこともありました。

とある山中の廃神社に行った時は、イノシシと対面してしまいました。イノシシがいなくなるまで山を背にしてずっと隠れていました。あと、丑の刻参りで有名な神社に行ったところ、丑の刻参りをしていた人に追いかけられたこともありました。あちらは釘を打ち付けるハンマーを持っているはずなので怖かったですね」


夜の心霊スポット(筆者撮影)

視聴者数は徐々に増えていった。見ている人の多くは、

「配信中に何かが起こるかもしれない?」

と期待して見ているようだった。

松原さんも、トラブルが起こるのは怖いけれど、それでもネタが蓄積されるのはうれしいと思った。

たくさんの試みができるありがたい番組

また深夜に生配信をしているネット番組『おちゅーんLIVE!』(ちゅるんカンパニー)のメインMCを任され、4年間続けている。

「『おちゅーんLIVE!』は『こういうことをやったら面白いんじゃないか?』ということを、やらせてもらえる番組です。

例えば『童貞にセックスの価値をとことん聞いてみよう』とか『誰も笑えないドン引きする話だけをみんなでしよう』とか、普通の番組ではなかなかできない企画です。

正当なお笑い芸人としてはうまくいっていない僕にとって、たくさんの試みができるというのはとてもありがたかったですね。

最初はそれこそ20〜30人しか視聴していないような状態が続きましたが、それにも懲りずずっと続けさせてもらえたのがありがたいです」

『おちゅーんLIVE!』内で松原さん発案で始まった『OKOWA』という対戦形式で怖い話をする企画は話題になり、視聴者数は118万回を超えている。

そして、自身が事故物件に住んだ経験を描いた『事故物件怪談 恐い間取り』が発売されると大きな話題になり、8万部を超えるヒット作になった。

続いて自身が心霊スポットを巡った経験をまとめた『異界探訪記 恐い旅』もヒットしている。


左から『事故物件怪談 恐い間取り』(二見書房)、『ボクんち事故物件』(竹書房)、『ゼロから始める事故物件生活』(小学館)、『事故物件芸人のお部屋いって視るんです!』(ぶんか社)

また『ボクんち事故物件』(竹書房)、『ゼロから始める事故物件生活』(小学館)、『事故物件芸人のお部屋いって視るんです!』(ぶんか社)と、松原さんを主人公にした漫画も連載され書籍化されている。

事故物件をテーマにしたテレビ番組の出演も増え、一気に知名度が上がった。

はたから見ていると、独自のルートでお笑い芸人としてのし上がってきているように見える。

自分だけのお笑いをやる意味を探求し続けていきたい

「本に関しては売れるとはまったく思ってなかったのでビックリしました。新たな事故物件に引っ越すときに、金銭的な苦労をしなくて済むのはありがたいですね。ただ、正直やってることや、心持ちは全然変わっていないですね。多くのお笑い芸人と同じ方向の面白いことを目指さなかったのが結果的によかったのかもしれません。賞レースや人気番組の出演だけを狙っていっていたら、今頃もう芸人を廃業していたかもしれませんね。

これからも自分にとっての面白いこと、自分だけのお笑いをやる意味を探求し続けていきたいと思っています」

松原さんは、一般的なお笑いの道を歩めなかった芸人だといえるだろう。賞レースでいい成績を出し、バラエティ番組に出て、お茶の間の知名度を上げていくような、売れっ子芸人のテンプレートなルートをたどれなかった。

それで、彼は誰もやっていない、自分だけのルートを開拓した。そのルートの多くはお金にならないものだったが、結果的には本がヒットするという自身でも想像していなかった多額の収入を得ることができた。

松原さんの話を最後まで聞いて、ふと彼が高校時代に柔道部で一人飛びつき腕ひしぎ十字固めを練習していたエピソードを思い出した。たった一人他人とは違うことを黙々とやり続ける。周りに理解されようがされなかろうが、やり続ける。松原さんのマインドはその頃から変わっていないのだろう。

これからも、他人とは違う松原さんだけの道を歩んでいってもらいたいと思った。