佐野五輪エンブレムは超弩級の駄作!/純丘曜彰 教授博士
もういいかげん、観念したらどうだ? 潔く自ら身を引いて丸く収めてくれるものと期待していたのだが、あまりに往生際が悪く、すっかり呆れ飽きた。なぜ「ゴキブリンピック」の「ゴキブレム」がプロのデザイナーの「作品」として落第点の失敗作であり、国際的な場での使用に耐えないのか。仕方ないから、その「作品」そのもののみに即して(製作者の資格と品位の瑕疵や、製作や選出、修正のプロセスの不明朗さは、いまはさて置いて)、以下に、はっきりと説明し、引導を渡すことによう。
1.形態の問題:パーツの寄せ集め
このロゴのメインは、中央にあって天地(図形の上下の限界)に付き、ロゴ全体の面積の幅三分の一をも埋め尽くす黒い縦長の方形である。ほぼ世界共通の通行禁止の交通標識などと同様、中心を塞ぐ棒(縦でも横でも斜めでも)は、閉塞封鎖、を直感させる。また、縦横が等寸の正方形ならともかく、その辺の長さが異なるとき、人間の心は、短辺より長辺に方向性を感じる。この場合、一般に、白(青)=上昇、黒(赤)は下降を意味する。この色の方向性は、株式市場などでも世界共通の「ローソク足」としておなじみだろう。つまり、この塗りつぶしのメインパーツの形だけでも、閉塞下降感があって、祝祭にふさわしくない、と人々が感じるのは当然。
つぎに、この全体が幾何学図形のみで出来ていること。手描きの自由曲線が生命力や躍動感、人間味を感じさせるのとは対照的に、幾何学図形は、無機質、無生物のもので、通常は静寂が求められる特別な神域などで用いられる。企業ロゴでも、かつては再現が手作業だったため、三菱マークのように、確実に同一になるよう、幾何学的な図形が使われ、大阪万博のころ、このスタイルがそこら中を埋め尽くしたが、今日は、むしろ複製模倣が容易ではない(真贋のチェックができる)唯一無二の自由曲線(複雑な計算に基づいて検証可能な数学的曲線)を用いたものの方が主流になりつつある。それゆえ、あのロゴを見て、古くさい、デジタル以前の70年代的、と思った一般の人々の感覚は、この事情から、これまた当然。
左上と左下には、立方体から扇形を切り欠いた金と銀のパーツがある。デザイナー本人は、このロゴが九分割ユニット構成で、多様な部品の組み替えを想定したものであるとの説明をしていたが、このパーツがユニットとして個々に完結しているのなら、この扇形の切り欠きの中心もまた、ユニットの中に収まって、ユニットの正方形の角でなければならない。ところが、実際は、ユニットの外、ロゴの中心を扇形の孤の中心としている。このために、説明のようにユニットパーツとして組み換え、別の場所に置くと、孤はロゴの外を、その中心として指し示してしまう。それゆえ、この九分割ユニットとその展開は、話としてもデザインとしても無理と矛盾がある。この孤の中心がロゴの中心にある限り、この2つのパーツは、このロゴの四隅以外に配置することは不可能である。
もう一つの説明としては、この両隅のパーツによって、ロゴ全体をおおう大きな白い円を表現している、というものである。しかしながら、人間の感覚は、およそ三分の二が見えているときに、残りの見えない三分の一まで補って認識することができるが、両隅のみで、上下左右の枠の外側の孤まで欠けていて、大円の弧のおよそ四分の一しか見えていないのに、そこに残り四分の三の孤を自分で補って大円を見ろというのは、デザイナーの思い上がり以上のなにものでもない。鉤括弧(「」)程度の囲い込みの印象すら、危うい。
まして、このパーツは、欠けた部分が下や上の白地と繋がってしまっており、このために、むしろ鋭角の残片の方に存在感を生じてしまっている。また、形態的に角の方が矢印型で、大円としての本来のロゴの中心への求心力よりも、両斜め端への遠心力を生み出してしまっており、ロゴ全体が散漫となって、パーツの寄せ集めにすぎない、との印象を与えてしまっている。くわえて、この残片の鋭角がまずい。自由曲線の余端であれば、残像的な運動感もあるが、縦横等寸で動きを殺してしまっており、両側が鋭角な形態は、敵意や攻撃心、もしくは切り裂かれた深傷を思わせる。
最悪なのは、右上の梅干。円は、一般に、その中心に視点を引きつけ、小であれば求心、大であれば放射の力を、そこに与える。このロゴの場合、この小さな梅干が、ロゴ全体の中心であればともかく、ロゴの隅であるために、ロゴの全体とはまったく独立して、別の場所に別の求心性を発揮してしまっており、全体からすれば、いかにも異物、デザイナー本人の意図とは別の強烈な介入、を感じさせる。おまけに、リエージュ劇場のロゴが、同じような鋭角の隅パーツを使いながらも、それを中心の細めの長方形の残像として位置づけ、全体を点対称とすることで、回転感=人が集まる求心力、を表現しているのに対し、ゴキブレムの方は、全体に回転の力動性があるにもかかわらず、この梅干がその回転を刺し留めてしまっているかのようだ。不吉な印象、停滞感、「デザインする側の『押しつけ』が感じられる」というのも、この異物の梅干による罪が大きい。
2.配色の問題:ナチス・フラッグ色
黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ。それに金銀を加えるなど、まさに軍事配色のナチス的悪趣味。こんな暗色だらけで彩度の無い陰鬱なロゴは、高コントラスト(明暗比)で視認性のみを問われる軍の部隊マークかなにかならともかく、和やかな国際的祝典には似つかわしい配色ではない。たとえ日米の人々に抵抗が無くても、かつてのナチスの大量虐殺にいまでも激しい嫌悪感が渦巻いているヨーロッパなどにおいては、この軍事配色(「ジャーマン・グレイ」と呼ばれるナチスドイツの特有色)では、絶対に拒絶される。くわえて、日本の軍国化を懸念している近隣諸国においても、非難のネタにされることは必至だ。
そもそも、同じ色でも、その「面積効果」によって濃さ・明るさに錯視がある。明色は、大きくなるほど明るくなり、彩度が落ちてしまい、白っぽく見える。暗色も、大きくなるほどより暗く、やはり彩度も落ちる。それゆえ一般に、デザインの策定過程では、壁面サイズに拡大した場合から、書類の片隅に極小印刷した場合まで、くわえて屋外でも使うのであれば、朝日や夕陽、曇天まで、多種多様な大きさと光の影響を踏まえたサンプルを作成し、その様子を確かめる。また、周辺背景色との対比で、ロゴの色合いの印象が大きく変わってしまうため、「ゾーニング」として周辺の余白もデザインのうちとして固定するのが普通。(日の丸は、白地まで含めてこその日の丸だ。)
ところが、問題のロゴは、余白指定が甘く、全体に占める黒の比率が大きすぎ、この面積効果のせいで拡大すればするほど暗くなってしまう。まるで黒い収容所の壁。巨大な垂れ幕にした発表の時の圧迫感、威圧感は、そのせいだ。企業ロゴと違い、開会式などでは、あれくらいのサイズでも用いられることは、デザイナーとして当然に事前に設計段階で想定しておかなければならない。縮小しても潰れない単純な形態で、かつ、壁面サイズの拡大にも耐えられるようにするのなら、ベタ塗りの大ブロックは使わない、せめてそこにグラデーションでもかけるべきだった。また、日本の伝統的意匠技術という意味でなら、縮小しても拡大しても同一に見えるミツウロコのようなフラクタルな地紋を使ったり、大きさによって違った印象の深みが出る江戸小紋でも織り込んだりする手もあったはずだ。
また、色は単独で使われるわけではなく、組合せによっても印象が大きく変わる。葬儀の鯨幕などは、黒を際立たせるために白が入っている(白無しの黒無地だと、ただの布の色に見えてしまう)。逆に、いくらわざわざ黒をいわゆる印刷用のリッチブラック(C40%M40%Y40%K100%、漆黒=ウルシの黒)ではないスミベタ(ジャーマン・グレイ=ナチスドイツの制服や戦車に用いられた濃い灰色、それもパソコン用のRGBベースでR55G55B55)に落としていても、白地との対比で、視覚的には真っ黒に見えてしまう。
なんにしても、シンプルをウリにするわりに、色設定がおよそシンプルではない。世界中のどこの国の、どんな媒体でも、ほぼ同じような発色になるように考えておかないといけないのに、全体が印刷物無視のRGBベースで出来ていて一般フルカラー印刷のYMCKの四色のインクでは出せない「特色」の金銀が入っていたり(それとも自販機やコンビニの金属缶への印刷が含みなのか)、梅干の赤も、単純なR255=印刷用の金赤(M100%Y100%)ではなく、また、いわゆる標準の「オリンピック・レッド」(おおよそR237G27B47=C1%M99%Y89%K0%)でもない、これまたRGBベースのR230G0B20(赤はじつはかなり幅が広く、その内色構成が真正ブランドの証拠で、たとえば本物のコカコーラなら赤はC0%M100%Y90%K0% =R254G0B26)。日本国内でなら、五輪と梅干の2つの赤を正確に区別して印刷するだろうが(それでも特色の金銀は新聞雑誌などでは迷惑面倒、スポーツ記事の紙面全体の印象まで汚くなる)、海外には技術レベルが高くない国も多くあることを忘れていないか(海外の質の悪いザラ紙の新聞雑誌では、インクが摺れ、手や棚が黒く汚れて嫌われる)。
3.構成の問題:フラットデザインの失敗
ルネッサンス時代に遠近法が発見されて以来、平面の絵画(浅い建築スペース)に擬似的な奥行、人物や物体の立体感を表現する「トロンプ・ルイユ(目騙し)」の技法が発達し、パソコンの画面においても、Windows Vista の Aero や、Mac OS X v10.5 Leopard の Dock などが、その典型。ところが、Photoshopその他のアプリの普及で、疑似立体感がだれにでも容易に出せるようになり、かつてのWordArt(文字列フォントの立体化や曲線ベースへの変形)などと同様、疑似立体化の濫用はかえってシロウトくさく見えてしまうようになってしまった。そこで、プロのデザイナーは、近年、逆にミニマムでシンプルな機能美として、疑似立体化をしないタイル型のUI(ユーザーインターフェース)を模索している。その典型が、Windows 8。
しかし、デザインを実際にフラットに見せるのは、意外に難しい。というのも、色そのものに「進出色/後退色」があるせいだ。単純に色をつけただけで、形態に疑似立体加工をしなくても、一般には黄・赤・白・黒・紫・緑・青の順に浮き上がって見えてしまう。おまけに地色次第で、その順序も変わってしまう。それゆえ、フラットデザインにするには、地色や、タイルの大小、明度や彩度を調整して、色の進出や後退を抑えないといけない。ところが、問題のロゴは、フラット・デザインの体裁をまねただけで、その本当の難しさを理解しておらず、右下の銀パーツが致命的な進出色であるために、そればかりがやたらと目立って、浮き上がってしまっている。それで、そのパーツの存在の意味不明さ加減が世間一般の人々にも問題視されるところとなっている。
4.モティーフの問題:Tもどき
なぜ日本でローマ字のTなのか。世界には、漢字はもちろん、ロシア(キリル)文字、ギリシア文字、アラビア文字、ヘブライ文字、ハングル文字、ビルマ、ラオス、タイ、ベンガル、等々、多様な文字がある。世界の人々をあまねく平等にお迎えさせていただくオリンピックで、ホスト国がローマ字を公用としない日本であるにもかかわらず、なぜローマ字のモティーフを据えたのか。まして、チームだ、トゥマロウだ、などという中学生のような能書は、英語圏でしかこれらの語がTを頭文字としていない以上、まったくモティーフとしての意味をなさない。そもそも、オリンピックには数多くの個人競技もあるのだから、それらを統括するロゴでチームを強調すること自体、奇妙すぎる。ひょっとしてラグビー・ワールドカップかなにかと応募先を間違えたのではないか。つまり、この「Tもどき」のモティーフは、オリンピックとしても、日本開催としても、およそ精神的な根を持っていない。
それ以前に、そもそもあのロゴでは、だれもTとは読めまい。なぜなら、大文字のTは、右側を省略する場合、その上端角がペンの折り返しになるために、カリグラフィー(筆記体)として、縦棒下端はかならず左側に戻るから。もし縦棒下端のパーツを右側に入れるのであれば、小文字のtとして、あの梅干のところに横棒が無いとおかしい。こういう筆記法の基本に反しているから、あれはだれの目にもTLのモノグラム(合わせ文字)としか見えないことになってしまっている。識別判読性が問われる文字において別の文字と誤認されるような出来損ないは、デザインとして完全な失敗だ。こういう問題は、手書きの伝統と痕跡を残している文字文化に対する敬意と勉強の不足が元凶。まるで外国人が書き順も知らずに作った漢字ロゴのよう。
5.総評
以上のように、1:中心にあって全体の三分の一をも埋め尽くす黒ブロックの閉塞下降感、2:ナチス・フラッグを想起させる陰鬱で特殊な色遣い、3:異物として動きを止めている右上の梅干と進出色の右下銀パーツという構成の失敗、4:Tもどきモティーフに精神的根拠が無い、という四点などからして、この「作品」は、国際的な場での使用に耐えない。
これほど欠陥だらけ、問題山積の「作品」が、錚々たる一流デザイナーたちの応募作を抜いて選ばれ、もともと他のものに似ていたのに修正に修正を重ねてもなおまた結果として他に似たものが出てくるほど、オリジナリティ皆無の出来、などというのは、審査の過程に恥知らずな不正があったか、審査に関わった肩書のある人々が誠実ながらも真の審美眼に欠ける節穴であったか、日本のデザイナー業界全体のレベルが著しく低くて、どうやってもこれ以上のものを作れないのか、のいずれかでしかないのではないか。
いや、日本にあって、日夜、研鑽を重ね、仕事の大小にかかわらず、デザインという仕事、ほんの小さな視覚的作品で人を引きつけ、楽しませ、幸せにする仕事に人生を賭け、クライアントの無理解に苦しみながらも、ひとり黙々と、努力と精進を続けているデザイナーたちはもっと多いはずだ。その熱い思いは、五年後の東京オリンピックに出場しようと、人知れず練習を重ねている選手たちとかわらない。オリンピックは、人類の祭典として、日本のすべての人々に、そして、世界のすべての人々に祝福されなければならない。鋭角の殺意と戦争の悪夢を想起させるような、こんな不出来で不吉なものを世界のお客様方のお迎えに供したのでは、誇り高く、礼儀正しく、平和を尊ぶ日本人としての良心と矜恃と愛国心が、世界中から疑われ、笑いものになってしまう。選び直しが当然だ。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン、元ドイツ国立グーテンベルク大学メディア学部客員教授。専門は哲学、メディア文化論。)