甲子園とは縁がなかった古田敦也氏

写真拡大 (全9枚)

日本の野球選手にとって究極の目標は、打者なら2000安打、投手なら200勝ではないだろうか。

もちろん、今はその上にメジャーリーグと言うステージはあるが、甲子園球児が目指すのは、プロで太く、長く実績を積み上げることだろう。

そこで2000安打、200勝、250セーブを挙げた選手の高校野球での実績を調べてみた。

本人の甲子園の出場の有無、母校の甲子園での実績、そしてその学校から何人のプロ野球選手を輩出したか。つまりプロ野球の大選手はどれだけ甲子園に縁があるか、の調査だ。

甲子園とは縁がなかった名選手 投手編




※200勝、250セーブ以上の選手。グレー地は現役。太字は優勝経験

400勝の金田正一以下、甲子園とあまり縁のない投手がずらっと並んでいる。春の甲子園に出場した投手の最多勝は鈴木啓示の317勝、夏は東尾修の251勝。

27人中、実に18人は甲子園を知らないままプロ入りしている。

トリビアな情報として、堀内恒夫は63年選手権大会に出場しているが、この年は出場校が多かったので甲子園以外に西宮球場も使われた。堀内は西宮でプレーしたのみ。甲子園では投げていない。

甲子園の優勝投手で200勝したのは戦前の野口二郎(春夏優勝)と、平松政次(春優勝)の二人しかいない。

別所は選抜大会で負傷して投げられなくなり「泣くな別所、選抜の花」と呼ばれた。若林忠志は日系二世でハワイ出身のため、甲子園とは無縁だった。

この表を見ていると、甲子園で活躍しない方が、プロでの伸びしろは大きいのではないかと思えてくる。甲子園で燃焼し尽くして、余力がなくなる投手も結構いるのではないだろうか。

そもそも母校が一度も甲子園に出場していない投手も小山正明、スタルヒン、稲尾和久、村山実、皆川睦雄、杉下茂、岩瀬仁紀と6人もいる。

中でも村山、皆川、杉下、岩瀬は「母校からプロに行った選手も1人だけ」。その学校にしてみたらまさに「奇跡の人材」だ。


甲子園とは縁がなかった名選手 打者編




※2000安打以上の選手。グレー地は現役。太字は優勝経験

野手の方は、44人中ちょうど半分の22人が甲子園経験者。投手よりもかなり多い。

また、浪商、早稲田実業、PL学園、平安、中京、県岐阜商、高知、法政二と春夏で優勝経験のある強豪校の出身者も多い。

打者に限っては、有名校から甲子園というコースは、プロでの成功の近道だと言えるかもしれない。

今の学制では、球児は最大春2回、夏3回甲子園に出場できる。

清原和博は目いっぱい出場したうえに、春夏ともに全国制覇している。チームメイトの桑田真澄も全く同じ経験。ともに「甲子園の申し子」と言えるだろう。PL学園出身の2000安打者は立浪、宮本、清原、加藤、新井と5人もいるが、全員甲子園に出ている。

高校時代、投手として甲子園を沸かせたのが王貞治、柴田勲。ともに野手に転向し、巨人V9を支えた。

この表にはないが、イチローは愛工大名電時代に投手として春、夏の甲子園に1度ずつ出場。母校は春夏合わせて20回甲子園に出て春に優勝している。

松井秀喜は、星稜高校時代に春1回、夏3回出場。有名な「5打席連続敬遠」は3年夏の甲子園だ。母校は春夏合わせて27回甲子園に出て夏準優勝1回。

本人も、出身校も甲子園に縁が無かったのは、長嶋茂雄、山内一弘、広瀬叔功、秋山幸二、松原誠、駒田徳広の6人。中でも「母校からプロに行った選手も1人だけ」は、山内一弘、秋山幸二の2人。

さらに、中村紀洋、古田敦也の母校も、甲子園に一度だけ出ているが、プロ入りしたのは1人だけ。ともに公立高校だ。

高校球児は、無名校に入ったからと言って、そんなに悲観しなくても良いようだ。投手も野手も、無名校から大選手になった前例はたくさんある。

特に投手は、高校野球で頭角を現して甲子園で消耗するよりも、高校、大学、社会人とじっくり成長する方が良いのではないかと思う。

【執筆:広尾晃】
1959年大阪市生まれ。日米の野球記録を専門に取り上げるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドアブログ奨学金受賞。著書に「プロ野球なんでもランキング」(イーストプレス刊)。