東レ社長 日覺昭廣(にっかく・あきひろ) 1949年、兵庫県生まれ。73年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了、東レ入社。2001年エンジニアリング部門長 工務第2部長、02年取締役、04年常務、06年専務、07年代表取締役副社長。10年に代表取締役社長 COO、11年より代表取締役社長 CEO兼COO。

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■米国の生産現場を「燃える集団」に

1990年の初め、米国ロードアイランド州の州都プロビデンスで、10人余りの労働団体のトップらと向き合った。新工場建設に雇っている配管工や塗装工、設備据え付け工らの仕事ぶりが、どうもおかしい。米国では職種ごとに労組があり、それぞれ上部団体の指導で動く。働き方を正すには、上部団体との交渉が不可欠だった。

建設現場は、州都から車で約15分のノースキングスタウン。元は軍港があった地で、そこのフィルム生産会社を東レが買収し、子会社が設立されて、ビデオテープなどに使うポリエステルフィルム「ルミラー」の工場をつくっていた。工務部門の責任者として、その指揮を執る。

ところが、職工たちは、日本人社員が現地事情に通じていないのをいいことに、自分たちで働き方を決めていた。例えば、「こちらでは、通勤時間も仕事のうちなのだ」と言って、出社時間が遅い。作業の開始もバラバラで、連携が悪い。改善を求めても「労働団体の規則に沿えば、こうなのだ」と言い張る。

労働団体は政治力もあって、手強い。でも、手を打たないでいれば、計画した時期までに新工場が完成しない恐れがあった。米国人の購買部長と2人だけで、地域で最も力があった団体の事務所へ出向き、集まった面々に問題点を挙げていく。

初の海外勤務で着任して約1年、41歳になったころだ。日本で、労使交渉をした経験はない。でも、あるべき姿を把握し、その実現のためにやるべきことは、やり通す。入社以来、岐阜工場と静岡県・三島工場で9つのフィルム生産ラインをつくるなかで貫いた、信条だ。正しいと思うことを、きちんと伝えないと納得しないのが、性分でもある。

正しいボタンを押せば、相手もまともな対応をとる。労働団体のトップも、立場上、お粗末な対応はできない。そして、上部団体が決定すれば、現場は従う。働き方は次々に改善し、建設は進捗する。計画通り、91年1月に新工場が動き出す。

だが、生産現場で連日、トラブルが起きた。日本なら、同じ製品のラインで豊富な経験を持つベテランがいるから、すぐに改善できるが、経験のない集団の米国ではそうはいかない。2年たっても毎日のように設備が止まり、生産目標に届かない。

そこで、1つの勝負に出た。米国人部下たちと相談し、「60日間、ライン停止なし」の目標を決める。60日間ゼロなら、ある月が「月間ゼロ」となる計算だ。達成したら、祝宴を開く。実現を疑問視する声もあったが、目標さえ明確になれば、意外に「燃える集団」となる米国人だ。案の定、彼らは燃えた。ただ、合理主義だから、「異常なし」の日が続くと、「何で、こんなことを毎日やるのか」と手を抜く。すると、どかっとトラブルが出る。彼らの胸に点いた火を消さないために、あることを説き続けた。「トラブルの原因の徹底的な究明をやろう」。

原因が把握できなければ、その場しのぎの策が繰り返され、同じトラブルがまた起きる。原因をつかみ、すぐに正せば、「トラブルゼロ」も夢ではない。やがて、工場のあちらこちらに「今日はゼロ何日目」と書かれ、半年余りで「月間ゼロ」を達成する。工場近くの中華料理店に、工務・保全部門の約20人を招き、祝いの昼食会を開いた。

「小人之過也必文」(小人の過つや必ず文る)――徳や器量のない人間は、失敗をすると、必ず言い訳をして取り繕うとの意味で、『論語』にある言葉だ。取り繕うだけでは本当の原因がつかめず、同じ失敗を繰り返すから、原因を把握して打つべき手を打て、と説く。この教えに、日覺流はまさに重なる。

1949年1月、兵庫県三木市で生まれる。父は野菜や牛乳などの卸しを営んでいた。姉が3人と妹が1人で、自然に恵まれた地で育ち、中学時代はバスケットボール部ですごす。県立三木高校から東大理科I類へ進み、自動車が好きで、船用機械学科でエンジンの設計を専攻する。

大学院で産業機械工学を学び、大きな工場やプラントを建設できる会社への就職を目指す。高価な外国の生産設備を買うことは厳しかった時代。設備をすべて自社でつくっていた東レを選び、73年4月に入社。人事担当に研究所へ配属と言われたが、「生産現場へいきたい」と申し出て、大津市にある滋賀事業場の施設部工務課に配属された。工務部門は、設備の開発も手がける中核的な存在。戦後から80年代の社長6人のうち、5人までが工務出身だ。

■年間1000人に面談で問いかけ

4年目に岐阜工場へ転じ、「ルミラー」の生産ラインを担当する。ビデオの普及が進んだときで、毎年のように新ラインをつくり、ソニーやTDKがどんどん製品を受け取りにきたが、品不足が続く。このとき以降、三島や米国、フランスを合わせて、13ものラインを手がける。

米国勤務を終えた後、次回触れるフランスでの建設へ向かう予定だったが、計画がずれ込み、三島工場ですべての事業につながる工務技術課長を務め、待機した。そこで、想像もしなかったことに遭遇する。43人いた部下に、仕事をどう進めているかのメモを出してもらい、それに沿って面談を重ねると、他部門の要請にただ従っていただけの部員が多い。問題が起きても、原因の徹底究明までは至らず、対症療法ですます傾向もある。当然、米国時代と同様に「過也必文」を戒める。

2010年6月、社長兼最高執行責任者(COO)に就任。翌年、最高経営責任者(CEO)にもなる。社長内定の記者会見で「全社員があるべき姿を目指し、その実現に何をやるべきかを考え、やっていく」と確認した。価値観が違う外国勢とは、意志がなかなかつながらない。ベクトルをどう合わせていくか。日覺流は、国内外の生産、販売の現場を支えている面々の話を聞き、相手がなぜそう考えているのかを、徹底的に理解することから始める。拠点を回り、年間に900人から1000人ぐらいの話を聞く。

相手が考えていることの根っこがわかれば、「そこは、こう違う。あるべき姿はこうだから、やはり、こうすべきだよ」と説く。相手が間違っている、という意味ではない。気づいていなかったか、そんな発想に至らなかったのだ。それを、頭ごなしに叱っては、前へ進むことができない。「リーダーシップとは、権力で命令してやらせることではない。納得させて、やらせることだ」――「過也必文」と並ぶ、戒めだ。

すべての製品の元となる素材は、社会を根本から変える力にもなる。2011年の9月、東京・丸の内で第2回東レ先端材料展を開いた。そこに、車体を炭素繊維でつくったスポーツカーを置いた。東レのコーポレートカラーである真っ青な車だ。別に、自動車もつくろうというのではない。試作品をつくり、自動車メーカーにみてもらい、どう炭素繊維車がつくれるかを考えてもらう。

自社の先端技術をそういう形で披露し、よりよき用途を広げてもらうことは、東レのDNA。かつてナイロンを開発したときも、いい用途がみつからず、ミニスカート普及の先導役となった英国人モデルのツイッギーを起用し、「例えば、こんなのはいかがですか」と世に問うた。

物不足の時代とは違い、いま、多様な品があふれている。そのなかで全く新しいものをつくることは、難しい。でも、「こういうものがあればいいのにな」というのが、必ずある。会社のOBに「まだ繊維などをやっているのか」と言われるが、同じ繊維でも、中身は全く変わった。水や空気、熱などをコントロールする最先端の機能を持つ。日本の「ものづくり」の底力は、こういうところにある。「過也必文」になることなく、調べ抜き、考え抜くことを続ければ大丈夫だ、と確信する。

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)