安価な「意識の高い人」が量産される仕組み

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今回は笹生英作さんのブログ『雛形の祭典』からご寄稿いただきました。
■安価な「意識の高い人」が量産される仕組み
以前、ココイチで隣に座っていたバイト仲間とおぼしき若い男性4人が「いかにして店の売り上げを上げられるか」について熱い議論を交わしていた。その後「パチンコいくか」とバイト代を溶かしに出かけてた。
「良いようにやられすぎだろ」と思いながら、「その店の店長はいい買い物したな」ともドライに考えた。

この、彼らの時給が幾らかはしらないがおそらく高くても1000円前後だろう。
一日8時間、週3日×4=月9万ちょっとの給料を貰い、さらに仕事後も仕事について熱く議論。その条件で彼らが何を買ってるのかと言えば「働いてる実感」「職場という家族へのコミット感」あたりだろうな、と想像する。

彼らの気持ちはわからんでもない。

家族的雰囲気のあるコミュニティに参加できている実感ってのはたしかにイイ物がある。それが生きるためのお金につながるのなら尚更。さらにその組織が「日本を変える!」みたいな方向に進んでたら、誰でもコロッといくよね。

けどそういう実感って危険でもある。
「意識高く働く」という事は、おおよそ妥当とは言えない給料で給料分以上に働かされるリスクと表裏一体だ。
この若い人の「意識高くありたい」=「替えのきかない人になりたい」という欲求。たちの悪い事に、欲求の増幅装置機構が若者の成長過程に組み込まれており、増幅されきった結果、巧みに利用されるような仕組みが存在している。

一言でいえば安価な「意識の高い人たち」が量産されるしくみだ

この仕組みとその危険性をいかまとめました。

●「意識の高さ」はどのように経営側に便利なのか
「自分は職場にとって替えのきかない人材である」
よく聞く発話だ。こういう理由で病気なのに休まなかったり、有給を取らなかったり、休日出勤したり、サービス残業したりする人を散見する。

たしかに、「替えのきかない人材になる」はお金と安定を得る為の個人としての最適解だ。
小中校と12年かけて「普通の事が普通にできる人」=「替えのきく人材」になった所で、いつでも誰とも交換可能な人になることになんの意味があるって話な上に、普通の事が普通で無くなった時、つまり需要の変化に酷く脆くなる。

一方で、組織運営の立場から見れば「替えのきかない人材だけ」で作った組織は酷く脆い。会社組織の全員が「替えのきかない人材」になるのは組織として脆弱すぎで発展もないな。ドライに考えれば「誰がいついなくなっても大丈夫」なのが理想的な組織であって、だからこその組織と言える。

だから実態としては「替えのきく人材」だけで組織を作りたい。というのが経営側のピュアな思惑だけど、
「求む!替えのきく人材!」なんて求人広告をうっても、そんな職場に人が集まるわけがない。っていうかそんなの見たことない。

さて、
自分の事を「替えのきかない人材」だと自覚した時の人間のモチベーションって馬鹿にできないものがある。休みなしで、または残業代なしで人を勤労に駆り立てるパワーがある。その突破力には正直、しばしば感心する。
こういう人。経営側としては非常に欲しい。

けど、先述のとおり、組織運営の立場としては「替えのきく人材」だ。

ということは?

組織として望ましいのは「自分の事を”替えのきかない人材”だと思っている”替えのきく人材”」って事になる。
こんな書き方すると身もふたもないけど、合理的に考えすすめていくと、経営者の目標はこういうところに落ち着く。

けど、このような前提にたってみると、学校にしても職場にしてもメディアにしても、