今の日本は何十人何百人、人をひき殺しても加害者責任を求められない社会だと思います。

最近、大きな自動車事故が多いですね。祇園・亀山・関越道などなど。どの事故も居眠りだったり、思考がぶっ飛んでたりで原因は違いますが、片手を超える数の死者・負傷者がでてとても痛ましいい事件が多いです。

昨日のニュースでは亀岡の被害者遺族の方が怒ってましたね。
何で危険運転に問われないのか?
現実今の日本は何人ひき殺してもほぼ過失になると騒霊は理解してます。
それほど運転事故の故意性・無過失性を証明するのは難しい。
過失で7年くらい、危険で15−20年くらい。
でも亀岡の親父さんは事件直後、もっと重い罰、つまり極刑を望んだ発言をしてたと思います。確かに亀岡は3人、祇園は7人、関越は7人の死亡。実際それだけの何の罪のない人命が一時に失われたわけで、応報論の立場に立てばやっぱり遺族の方の思いはそれなりの納得性が必要ような気がします。

応報というと、光市の事件を思い出します。遺族の本村さんが言ってたのもそういう言葉でした。罪のない2人殺して少年だからという理由で一審では死刑ではなく無期。その法と判決に理不尽さを感じ本村さんが異議をとなえ、日本の刑法の制度と日本人の常識まで変えたのは、まだまだ皆さんの記憶にも新しいと思います。

今回の一連の自動車事故がこれからどのように常識と法律を変えるのか、まだまだよくわからない部分がありますが、場合によっては大きく変わるきっかけになるかもしれません。なってくれたらいいなと思っています。


近年はいくら個人に運転する自由があっても、社会全体として交通事故で死者をださないよう、むしろ運転する側の自由を制限する方向にあります。

よく「自動車が悪いんじゃない。運転する人が悪いんだ」「包丁だってそうだろう。主婦は毎日のように料理に使うが、その包丁で人を殺すこともできる。問題は使う人だ」という人がいます。

でも最近の道具や機械の機能は複雑化してきていて、一から十まで使う人が悪いとは言えなくなっています。例をあげればアメリカでおこったトヨタクレーム問題。使う人だけじゃなく複雑化している製造製品の問題も一つの要因だと指摘されています。
とくに製造物責任法。
いわゆるPL法が制定されてから、単純に使っている人に問題ではなく製造側姿勢により厳しい目が向けられてるがある状況になっています。

それによって飲酒運転をさせないためにアルコール探知機を装備する義務化がある国では行われてたり、ぶつかっても第三者に大きな怪我にならないよう素材を見直したり自動的に止まる車など、被害者を少なくする車作りがおこなわれてたりするのです。

日本もだんだんその傾向になってきました。
今までは使う人の命を守る車作りだったものが、今は車によって使う人以外の第三者の命を守る車作りに変わりつつあるといいます。

亀岡の事件だって、運転者が居眠りをしてると感知したら自動的に車は止まるとか、エンジンをかけるときには運転免許証をカードリーダーに差し込まなければ車は動かないとか、もっともっとハードの側から安全を防止できたかもしれませんもん。


今、社会の概念は、人に優しい社会に向かっています。

過失責任が原則の社会から、無過失責任が原則の社会へ

第三者を想定してなかった社会から、第三者を想定し第三者に迷惑をかけない社会になりつつあるのかもしれません。

社会も、売り手と買い手のよしだけでなく、世間よしも求めてきています。

万物流転。世の中の原理原則だって少しずつ変わってきている、
騒霊はそう思うのです。



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