―俺、何のために頑張ってるんだっけな...。

メガバンクのエリート銀行員・岩崎弘治(40歳)は、最近こんな疑問に駆られている。

仕事はイケイケでも、プライベートでは長年連れ添った妻に逃げられ、特筆すべき趣味もない中年男。

だが、いまいちパッとしない寂しい日々を送る彼の前に突如現れた美女によって、男の生活はガラリと変わるー?

これは、出世争いに必死に勝ち抜いてきた社畜オヤジに突如訪れた、新橋を舞台に繰り広げられるファンタジーのような純愛物語である。




寝起きの自分の顔を見るのが億劫になったのは、一体いつからだろうか。

干し方がよく分からず湿り気を帯びた布団に、くすんだ色のパジャマ。曇った洗面台の鏡に映るのは、疲れ顔の“しがない”中年オヤジそのものである。

これでも、会社では「弘治さんは、365日24時間いつもキレッキレッすね!!」なんて、部下から憧れたりもしているのに。

細々とした家事というものが、これほど面倒で厄介な労働であることを、弘治は妻がいなくなるまで全く知らなかった。

自分なりに掃除はしているはずなのに、部屋の隅には3日と経たずにホコリが溜まってしまうし、風呂も洗面台も窓の冊子も「次の休日に綺麗にしよう」と少し放置しただけで、後戻りできぬレベルの汚れがこびりついていた。

そうして10年前に新築で購入した品川の2LDKのマンションは、日に日にボロッとくすんでいく。弘治の人生も、それに連動して老朽化していくようだ。

だが、しかし。

弘治はそんなくたびれた顔に喝を入れるように、ヒゲを念入りに剃り、久しぶりに購入した男性用化粧水と乳液を顔に塗り込み、単価高めのホワイトニング歯磨き粉で念入りに歯を磨く。

そして眠気に抗いながら、口角にクィッと力を入れ、眉間のシワを解くように眉を上げてみると、なかなか悪くない大人の男の顔に仕上がった。

―俺も、それほど捨てたモンじゃないんじゃないか...?

イイ歳して馬鹿げているのは百も承知だが、“彼女”が同じ部署に配置されてから、弘治はこんな風に細かな外見にソワソワと気遣うようになったのだ。


突然妻に「離婚」を言い渡されたエリート銀行員。その理由は...?


念願の昇進を果たした日に、「離婚」を言い渡された男


1年前、妻に突然「離婚」を言い渡されてからというもの、弘治の人生の目的を完全に見失ってしまった。

何のために、働いているのか。
何のために、頑張っているのか。
何のために、生きているのか。

他人に話せば大袈裟だと笑われるに違いないが、仕事に精を出す時間以外は、そんな疑問が幾度となく頭をよぎる。

元妻は、学生時代のサークルの後輩だった。

国立大学の男と女子大の女をくっつけることが目的のよくあるテニスサークルで、弘治と元妻は学生時代から数年の交際を経て、社会人2年目あたりで結婚した。

平凡な話だし、晩婚化が進む昨今、結婚に踏み切るには少々急ぎすぎたと思うこともあったが、弘治は結婚生活に満足していた。

妻は人に自慢できるほど美人というわけでもなかったが、思慮深く従順な性格で、家や夫の身の回りの世話を焼く能力が高かった。

フラワーアレンジメントの資格を生かして花屋で働いてもいたが、彼女はほぼ専業主婦のようなもので、家のことを安心して任せて仕事に集中できるのも有難く、弘治は妻を愛しているつもりだった。




銀行というのは、とにかく出世競争の激しい世界である。

5年ほど前に「半沢直樹」というドラマが流行ったが、あれは作り話でも何でもない、弘治の日常そのものだ。

弘治は東大卒という学歴、実力、そして運にも味方され、順調な出世コースを歩んでいた。都心の大型店舗の配属を経て、丸の内本店の法人営業部に勤務。一言で言えば、まさに順風満帆な人生だ。

“とにかく出世がすべて”という世界で、上司に気に入られ、部下の面倒を見て、人事部の機嫌を取りながらも仕事の成果を出し続ける。

それは優秀で要領のいい弘治にとっても簡単な事ではなかったが、40歳を目前に異例とも言われるスピードで副部長の肩書きを与えられた時は、何物にも変えられない達成感と喜びが溢れた。

しかし、その昇進ニュースを意気揚々と我が家に持ち帰ったとき、弘治がそれを口にする前に“離婚届”を妻に突きつけられたのである。

妻には長年蓄積した様々な不満があったそうだが、一番の理由は、

―私が家計やら栄養バランスを細かく考えて作った食事を、あなたが毎晩のように平気で「いらない」と言うのを聞くのに疲れたー

とのことだ。

その後、弘治がどんなに引き止めても、いくら挽回に努めようとしても、彼女は頑として意思を変えなかった。

それどころか、最終的には慰謝料も家も何もいらないからとにかく早く離婚して欲しいとせがまれた。

それは弘治にとって長年の夫婦の歴史や自分の存在自体を否定されたに等しく、再起不能なまでの精神的ダメージを負ってしまった。

その致命傷とも言える心の傷は、まだほとんど癒えてはいない。


失意のアラフォー男に、モーションをかける美女登場...?!


これは夢か?ハニートラップか?


「岩崎さん、こちら、お待たせしました」

秋月瞳がこちらに近づいて来るのは、彼女が15mほど離れた席を立った瞬間から気づいていた。

直視なんか絶対にせずとも、視界の端では彼女のスラリとした美脚とショートカットの小さな顔をバッチリ捉えている。

「おお、早いね。助かるよ」

「...岩崎さん。何だか今日はお肌が艶々してて、さらに素敵ですね。今夜楽しみです」

頼んでいた資料を受け取ると同時に、瞳はいつものように、他の誰にも聞こえない小さな甘い声で囁いた。同時に、品のある香水の香りが鼻孔をくすぐる。

何とか硬い表情を崩さぬまま「そうだね」と平然と答えるが、耳の先がカァッと熱くなるのが自分で分かった。

彼女はそんな弘治の反応を楽しむように、含み笑いを浮かべてその場を去っていく。

瞳は、4月に弘治の部署に配属されたばかりの部下だ。

30歳、しかも女性で本店の法人営業部に配属されたのを裏付けるように、とにかく仕事のデキる女で......おまけに、かなり美人だった。

そしてナゼだか分からないが、この真面目で硬い社内の風潮をモノともせず、こんな風にたびたび弘治をおちょくるような好意を示してくるのだ。

―からかわれているのか、それとも、誰に対してもあんな態度なのか...。

社内での女性関係など言語道断、仕事で公私混同もしないように、弘治は長年細心の注意を払っていた。

ほんの些細なミスやトラブルで出世コースから脱落するこの世界で、そんなリスクを取る気はサラサラなかったし、そもそも弘治は、禁断の色恋沙汰に欲情するタイプの男ではないと自負していた。

だが、瞳のような美人から露骨に褒められたり、遠くからジーっと熱い視線を注がれるうちに、どうにもこうにも彼女のことがイチイチ気になり始めてしまった。

人生のほとんどを仕事に注ぎ込み、妻に捨てられた寂しい男にも、そんな浮き立つような10代の男子のような自意識がまだ残っていたのだ。

恥ずかしくも照れ臭くもあるが、意外にも、それは悪くはない感情だった。






「二人で、抜けちゃいませんか」

この日は、チームの飲み会だった。

銀座の居酒屋で行われた1次会もお開きの時間に近づいた頃、会計のために席を立った弘治を、瞳が待ち伏せていたのだ。

「ふ、二人って、いや...」

酒でほんのりとピンク色に蒸気した頰に、小さく形の良い赤い唇。暗がりの中で見る瞳の顔は、昼間のオフィスとは比べものにならないほど色っぽい。

正直を言えば、実はそろそろこんな誘いを受けるんじゃないかと、期待とも妄想とも言えない思いを抱いていた。もしや、これは夢だろうか?

だが実際、万一誰かにバレたら大変だ。それに、自分のようなオヤジが美女に誘われるなんて、ひょっとしたら流行りの“ハニートラップ”的な可能性だってある。

「もし何か相談や話があるなら、改めて...」

「お店、岩崎さんがどこか指定してください。私、先に出て待ってるので。約束ですよ」

しかし瞳は、弘治の躊躇いなど完全に無視して、そのまま店を出てしまった。もう彼女に従うしか選択肢はない。

―ど、どうしたものか...。

他のメンバーに見つかる可能性が低く、万一見つかったとしても“仕事の延長”として誤魔化せるような場所。それでいて雑多すぎず、弘治自身もそれなりに馴染みのある店がベストだ。

―『ビストロ ミヤマス』で待ってて―

仕事以上に頭を必死にフル回転させた結果、弘治は彼女の社用スマホにそんなSMSを送っていた。

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久しぶりの「デート」なる展開に、キュンキュン&焦りまくるアラフォーオヤジ。