『エンダーのゲーム』2014年1月18日全国公開。ギャヴィン・フッド監督。ハリソン・フォードも出てた! 原作オースン・スコット・カード。

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『エンダーのゲーム』、大傑作だ。
大学生のころだったか、ぼくは『エンダーのゲーム』を読んで驚愕した。
硬い訳で読みにくかったが、それでも夢中になって読んだ。
著者は、オースン・スコット・カード。
『エンダーのゲーム』は、1977年(『スター・ウォーズ』が公開された年!)に短編版で発表され、1985年に長編化。
ヒューゴ賞とネビュラ賞を受賞。大絶賛された。
翌年に発表された続編『死者の代弁者』で、またもネビュラ賞とヒューゴ賞をダブル受賞。
大人気である。

「海外SFで誰の作品が好きか、ベスト3を挙げよ」と若き自分が尋ねられたら、
すぐに即座に3秒以内に「フィリップ・K・ディックとオースン・スコット・カードとオースン・スコット・カード」と答えていただろう。
それほど好きなのだ。
全銀河を歌声で魅了する美少年と皇帝の運命を描いた『ソングマスター』を何度読んだことか。
『消えた少年たち』を読んで、どれほど泣いたことか。

そのオースン・スコット・カードの代表作『エンダーのゲーム』が、ついに映画化された。
やほーーーい!
嬉しい。
純粋に嬉しい。

昆虫型宇宙人バガーの第三次攻撃におびえる地球人は、「戦いを終わらせるもの」を養成するためにバトルスクールを設立した。
少年エンダーは、バトルスクールに編入し、コンピュータ・ゲームや、無重力訓練エリアのシミュレーションバトルで桁違いに優秀な成績をおさめていく。
って話で、ゲームと戦争がキーになっている。

“「(…)敵は教官たちだよ。彼らはおれたちに、たがいに戦い、たがいに憎むようにしむける。ゲームこそがすべてだ。勝て勝て勝て。そんなことを積み重ねてもなんにもならない。おれたちは殺し合い、おたがいを叩きつぶすのに血道をあげる。そしてそのあいだじゅうずっと、おとなたちはおれたちを監視して、研究し、おれたちの弱みを探り出し、おれたちにじゅうぶんな能力があるかどうかを判定している。(…)彼らは、おれたちがそのプログラムにぴったりだと判断したが、そのプログラムがおれにぴったりかどうか、だれも一度だって訊いてくれなかった」
「じゃあ、なぜ故郷へ帰らないんですか?」
ディンクは皮肉めいた微笑を浮かべた。
「ゲームをやめられないからさ」横の寝棚に載っているバトル・スーツの布地をひっぱった。「こいつが大好きだから」”
ああ、そうだ。
これを読んでいたころ、ぼくは、コンピュータゲームに夢中だった。
「ゲームをやめられないからさ。こいつが大好きだから」というディンクのセリフを、そしてエンダーの命運を、自分のことだと考えて、読んでいたのだ。

読んだのは、もう30年前だ。
懐かしい。
しかも映画化にあわせて新訳がでる!
最高に嬉しい。

でも、再読するのは、映画を観てからにしようと決めて、読みたいのをがまんしてジリジリ待ち、いよいよ公開日。
行くよーっ。

観たよーっ。
うーん。
マジメかっ! マジメかっ! マジメかっ!
何度か、心のなかで突っ込んでしまった。
ちゃんと映画化してました。

もちろん上下巻の長い原作なので、細部は省略されている。
さっき引用したセリフは映画にはないし、兄ピーターの「ブログで世界を支配するぜ」計画も省略された。
だが、原作に描かれたアクションで表現しやすい部分を、ていねいに映像化して、しっかりと114分にまとめていた。
「よくできました!」という感じ。
最初、主人公のエンダー・ウィッギンを観たときに、NHKの午後6時ぐらいのジュブナイル・ドラマに出てきそうな感じだなーと思ったのだ。
ついでヒロイン・ペトラ・アーカニアンが登場して、その印象が強まる。
鼻が上向いていて、ちょっとぽっちゃりで、お母さんが「この娘が、うちの息子のガールフレンドだったらいいのにね」って言うタイプ。
映像やデザインも、しっかり正しい。

パンフレットに、アニメーション監督荒牧伸志が次のように書いている。
“メカ・デザインの第一印象は、すごくマジメに作っているなということ。”
“デザイン的に飛び抜けた部分はないけれど、全体的にとてもバランスがよい。デザイナーたちは実に緻密な作業をしているし、あくまでも物語の流れに忠実な正攻法なデザイン・ワークに好感を持ちました。”
同感だ。

ああ、劇場いっぱいに中高生がやってきていて、「おおおー!」とか言いながら観て、原作を読もうと思ってくれたらいいのに。

さて、新訳の『エンダーのゲーム』(Kindle版)を再読しよう。
ああ、ワクワクする!(米光一成)