野球殿堂入りを果たした野茂英雄。今回取り上げた本以外でも、『ドジャーブルーの風』(野茂英雄/集英社)、『八月のトルネード』(阿部珠樹/ベストセラーズ)、『野茂英雄「大リーグ30試合」』(江夏豊/講談社)などがあります。

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1月17日(金)、東京・文京区の野球殿堂博物館で2014年の野球殿堂入り表彰者が発表された。プレーヤー部門で選出されたのが、大魔神・佐々木主浩、ソフトバンク・秋山幸二監督、そしてトルネード投法・野茂英雄の3名だ。特に野茂は、故・川上哲治の45歳8ヵ月を塗り替える史上最年少での殿堂入り(45歳4ヵ月)、スタルヒン・王貞治以来、史上3人目の候補初年度での一発当選など、現役時代の偉業同様、殿堂入りに際しても大きな足跡を残す形となった。

日本人メジャーリーガーのパイオニア、日米通算201勝、2度のノーヒッターなどなど、殿堂入りによって、野茂英雄のプレーヤー時代の功績が各メディアで改めて紹介されている。その一方で、取材嫌い・マスコミ嫌いだったためか野茂英雄の人間性、キャラクターについてはあまり報じられることがない。そこで本稿では、野茂英雄自身が過去に書いた自著、そしてチームメイトや球界関係者の著作物から、野茂の人間味溢れる部分を紐解いてみたい。

【頑固者・野茂英雄】
自他ともに認める頑固者、それが野茂英雄だ。自著『僕のトルネード戦記』(集英社文庫)の中にこんな記述がある。
《僕は確かに頑固かもしれません。人間としても野球人としても。でも、ピッチャーという人種は、どこかで頑固でないとやっていけない》

その頑固さゆえ、近鉄球団や鈴木啓示監督とは事あるごとに揉め、後の「任意引退」→「メジャー挑戦」に繋がっていく。野茂英雄の考察本としてはもっとも詳しい『野茂英雄〜日米の野球をどう変えたか〜』(ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳/PHP新書)には、チームどころかリーグからの要請にも頑として譲らない野茂の様子が描かれている。

《野茂は球団とも衝突する。一九九四年、オールスター戦のあいだ全員がミズノのスパイクを履くのが“常識”だったにもかかわらず、野茂はパ・リーグの命令を拒否しナイキを履く契約を結んだ。パ・リーグがミズノから受け取った契約金の一部をもらっていたバファローズの重役たちは、怒り心頭だった。》

この他にも、球団が解雇した立花龍司コンディショニングコーチと個人的に契約を結ぶなど、仰木彬監督の退団(1992年)以降は調整法や起用法など様々な面で球団・監督と揉めた野茂。自分が信じるもの、いいと思うものを貫く野茂が日本球界に収まらなかったのは、ある意味で当然だったといえる。

【マイペース・野茂英雄】
良くも悪くも、頑固とマイペースは紙一重。野茂がアメリカで成功できた理由のひとつに、「マイペースだったから」があるといわれ、野茂自身、著者やインタビューなどで「何でも食べられること、いつでもどこでも寝られること」の大切さを語っている。
そんなマイペースぶりをいかんなく発揮したのが、2010年の日本シリーズ・中日×ロッテの第6戦、野茂英雄・初解説の試合だ。
この一戦は、延長15回引き分け、日本シリーズ最長記録となる5時間43分を擁した試合だったのだが、イニングが進むにつれて野茂の口数が少なくなり、「野茂、ぜったいに寝てる!」と当時Twitterを中心に話題にもなった。隣にいた解説の田尾安志が、「野茂さん寝てるかなと思いましたが、しっかり見てて感心しました」と語ったのは、ネタだったのか本心だったのか。

もっとも、そのくらいマイペースじゃなければ生き残れないのがメジャーリーグ。野茂の偉業のひとつである、MLBにおける2度のノーヒッター。そのうちの1試合は、打者有利の球場だったことに加えて試合開始が天候不順で2時間以上遅れ、コンディショニングが難しかったからこそ、アメリカでも賞賛を集めることになった。
では、野茂はその2時間をどうやり過ごしたのか? 前述した『野茂英雄〜日米の野球をどう変えたか〜』によれば、ヘッドホンをつけ、ソリティアで時間をつぶしていたという。あの試合、中継がなかなか始まらず、日本で見ていたこちらがソワソワしていたというのに、当の本人はいたって平常心だったのだ。

【ひょうきん者・野茂英雄】
さて、マスコミからも球団からも厄介者扱いをされることが多かった野茂。だが、チームメイトからは「ひょうきん者」「仲間思い」と評されることが多い。
近鉄とNYメッツ時代にチームメイトで、野茂からフォークを教わった吉井理人は、自著『投手論』(PHP新書)の中で野茂のキャラクターを次のように紹介している。
《野茂ほど世間で言われているイメージと実像とのギャップが激しい人間はいない。いつも無口でブスッとしていると思われているが、実際の野茂はひょうきんでよく喋る。酒を飲みに行けば歌も歌うし、くだらない冗談を言って滑るような茶目っ気もある。》

そんな吉井が97年オフにFA宣言し、巨人入りかメジャー挑戦かで揺れていた際、決断のキッカケとなったのが野茂からの電話だったという。再び『野茂英雄〜日米の野球をどう変えたか〜』から、野茂が吉井にかけた電話の内容を引いてみたい。

《吉井は、読売の要求に従おうとした。その矢先、心変わりのきっかけとなる電話が鳴った。野茂英雄からだ。野茂は人生でもっとも重要なことを言った。
「自分の気持ちに正直になった方がいいですよ、吉井さん。もしも日本に残って、ジャイアンツやほかのチームと契約したら、一生後悔しますよ。立ち止まって、自分が何をやっているのか考えるんです。自分自身をよく見つめるんです」》
果たして吉井は巨人からの高額オファーを断り、NYメッツと1年契約を結んだ。野茂の意外な「仲間思いの熱い一面」を感じさせるエピソードだ。

同様に、MLBのタイガースとドジャースでチームメイトだった木田優夫も、自著『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)の中で野茂の「仲間思い」エピソードを明かしている。
ドジャースでのキャンプ前々日に交通事故にあい、入院することになった木田。翌日、病院で一人落ち込んでいると、キャンプイン前日にもかかわらず、野茂がお見舞いに来てくれたという。《自分の調整もあっただろうに、本当にいい奴》とは木田の弁。ちなみに木田は、野茂の食生活を真似てみたところ、生まれて初めて体重が100kgを超えてしまい、あわてて減量をしたという。

【パイオニア・野茂英雄】
最後に、パイオニア・野茂英雄の、責任感の強さを示すエピソードを紹介したい。
スポーツ・グラフィック・ナンバー編『日本野球25人 私のベストゲーム』(文春文庫PLUS)の中で、野茂自身がキャリアの中で特に印象に残っている試合を2つ挙げている。ひとつは1995年5月2日のメジャーデビュー戦。そしてもうひとつが、1990年4月29日のプロ初勝利の日だ。

野茂がプロ初勝利を大切な記憶としているのは、初勝利を挙げるまでに手こずったこともあるが、その1勝が後に続く後輩のためになるからだ。
《これは新日鉄に入った時もそうでしたが、後輩のことを考えて行動しなければならないという思いがあったので、その面でも責任を感じていたんです。自分の振る舞いが、後に続く人に影響するんだというのは、すごく思ってましたから。(中略)近鉄に入ってからも、自分の行動によって新日鉄堺の人たちが入ってこられなくなるかもしれないし、評判が下がるかもしれない(中略)そんないろいろなプレッシャーもあった中での勝ち星だっただけに、本当に嬉しくて。》

この言葉は、のちに野茂の功績によって日本人選手にMLBへの扉が開かれたことにも通じてくる。再び、吉井理人『投手論』から。
《今、日本人がこれだけメジャーで活躍しているのも野茂のおかげである。日本でもメジャーで活躍できると、アメリカのスカウトに思わせたことも大きいし、メジャーのこと、とくにグラウンド外の移動の仕方やクラブハウスでの過ごし方など、それこそ「クラビー(クラブハウスボーイ)にチップを払うのか」から「スパイクを磨くのは誰に頼めばいいのか」まで、小さな情報はすべて野茂から入り、日本人選手に広まっていった。予備知識があるため、その選手もスッと新しいチームに入っていける。》

野茂は自著『僕のトルネード戦記』の中で「優勝の夢 将来の夢/僕に続く人々へ」と題し、次のように綴っている。
《今、芽の出ていない人もあきらめる必要はないと思うんです。日本のドラフトで指名されなかったからといってプロ野球をあきらめる必要はないし、また日本の野球をクビになったからといってあきらめる必要はない。アメリカに来たって野球はやれるんですから。そういった意味で、僕の活躍が励みとなって、大リーグを目指す人が出てきてくれたら嬉しく思います。僕がその道筋を少しでもつけることができたなら、それは素直に喜びたいし、僕を通じてメジャーの良さがわかったというんであれば、それはそれで嬉しい》

1995年に綴られた野茂の言葉は、夢から現実になった。
(オグマナオト)