注目の候補作のひとつ。『さようなら、オレンジ 』岩城けい/筑摩書房

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第150回という節目を迎える芥川・直木賞、今回もエキレビ!より予想をお届けします。
ちなみに第100回の受賞作は芥川賞が南木佳士「ダイヤモンドダスト」と李良枝「由熙」、直木賞が藤堂志津子『熟れてゆく夏』と杉本章子『東京新大橋雨中図』でした。節目にふさわしいといえるほど華々しい受賞作かといえば別にそうでもない(話題性に限って、の話ですが)。あくまで通過点として淡々と両賞は歩んできたわけです。しかしニコニコによる記者会見生中継なども始まり、文学賞ならぬ文学ショーとしても注目度が高まってきた現状は25年前とは異なるでしょう。第100回と同じように淡々と「通過点」の作品を出すのか否か。そんな点にも着目して今回の賞の行方を見届けたいと思います。

それでは予想を。まずは芥川賞から。前回と同じで★で表しているのは今回の本命度ですが、作品の評価とは必ずとも一致しないことをお断りしておきます。(5点が最高。☆は0.5点)。

■「穴」小山田浩子(初。「新潮」2013年9月号)
今回の候補作は5作で初ノミネートの作家が2人いる。この辺にも新鮮さをアピールし、文学賞復興を印象づけたい芥川賞側の思惑が覗けて見える。しかし新しい才能の持ち主が注目されるようになるのは喜ばしい事態なのである。文句なし!
小山田浩子は2010年に「工場」で新潮新人賞を獲得してデビュー、同作は他の短篇とともに2013年に単行本化され、読書家の間では話題になった。
「穴」の主人公は、夫が異動になったため転居を余儀なくされ、夫の実家が持っている借家に住むことになった「私」を語り手とする小説だ。彼女はそれまでの勤めを辞め、専業主婦になる。「私」は職にそれほど執着しておらず、夫の母が高齢にもかかわらずいまだ働き続けていることにむしろ負い目を感じるような人物である。新しい家は地名に「字」がつくような鄙の地だ。自分で使える車がない「私」にとっては、孤立した家で家計をやりくりすることと、夫の母との関係を円満にすることが日々の課題となる。
「工場」をお読みになった方は、あの中に工場ウや洗濯機トカゲといった謎の生物たちが登場したことをご記憶のはずである。「穴」の主人公も、家の近所の川原で不思議な黒い獣に遭遇する。そのへんからぐにゃりと世界は歪んでいくのである。紗のかかった視界の中で風景からはちょっとだけ現実感が失われ、代わりに人を不安にさせるようなものが入ってくる。そのありさまから連想したのが隠れ里の民話だった。転居によって自分が属していた世界から隔絶された「私」が白昼夢を見ているような小説なのだ。その隔絶された先が「夫の実家」であるというのは、働き口が十分ではない地方で暮らす女性たちの立場を代弁しているようでもある。幻想譚であり、かつ諷刺の視点もあり、実に豊かな作品だ。この奥行きの深さは選考委員にも愛されるものと思いたい。期待をこめて★★★★。

■「コルバトントリ」山下澄人(3回目。「文学界」2013年10月号)
第147回の「ギッちょん」、第149回の「砂漠ダンス」と、前2回の候補作は前衛的な手法を用いた作品だった。筋を追うことにはまったく意味がなく、全体を俯瞰して散らばった断片をつなぎ合わせ、出来上がった図柄をどう受け止めるかで評価が決まるというタイプの小説である。そういう小説をあまり読んだことがなかったので、「ギッちょん」以来山下澄人は私にとって気になって仕方がない作家になった。今度は何をしてくれるのだろう、という期待を持っていつも作品を読むのだが、万人向きの作風ではないことは間違いない。
「空はとても晴れている」と始まる小説の語り手は「ぼく」なのだが、「おとといの爆撃はすごかった。たくさんの飛行機をぼくは防空壕の上に立って、見た」という文章がすぐ後に続くことから、それがおそらくは第二次世界大戦下の出来事であろうことがわかる。しかし、次の場面で「おばさん」の家に暮らす「ぼく」は明らかに戦時下の人間ではない。二番目の「ぼく」は「おばさん」に見送られて出た後、「金田さん」という学生服の人が駅で仲間からリンチを受ける場面に遭遇する。その一件は少し前に出てくる「チビ」という猫が車に轢かれて死んだエピソードと呼応しているのである。
小説の時間は過去から未来へと流れるのではなく、不定期でジャンプしていることがわかる。その契機となるものが、たとえば「チビ」の事故であったりするわけだ。そうした形で時間軸の中をさまようことになるのだが、小説の終盤において運動はだんだん収束していく。そして「ぼく」たちの集合体に見えるものの中に一つの家族の記憶が浮かびあがってくるのである。時が過ぎ、そこにいた人々が姿を消しても、記憶はなんらかの形で保存される。その残存した記憶をつなぎ合わせるという意図で書かれた小説だと私は読んだ。
山下についての過去の選評を読むと「意欲は買うが実験の意図は不明だ(大意)」と言っているものが多く、非常に不安な気持ちにさせられる。実は私はこの小説のことがよくわかっていない(なぜサンタクロースの山が題名なのかもわからない)。不勉強を恥じつつ、おもしろく読んだという自身の勘だけを頼りに★★★をつけておく。

■「さようなら、オレンジ」岩城けい(初。初出『太宰治賞2013』)
すでに単行本化されており話題にもなっている作品だ。岩城けいは本作で第29回太宰治賞を受賞してデビューを果たした。単行本に書かれたプロフィールによれば、現在はオーストラリア在住であるという。この小説は、そのオーストラリアに暮らす2人の女性を主人公とし、2人の視点を交互に用いる形で書かれている。1人は戦火を逃れてアフリカからやってきたサリマ、もう1人はSという、おそらくは日本人だと思われる人物である。
後者がイニシャルしかわからないのは(後にフルネームは判明する)彼女のパートが恩師にあてた書簡の形になっていて、最後に記されたイニシャル以外に名乗りがないからだ。その手紙の中でSがモノローグのように綴る内容から、彼女が研究者の夫とともに暮らしていること、まだ四ヶ月の娘がいること、そして母国の言葉ではない英語で創作をしようとしていることが判明する。
サリマは2人の男児を抱えた母親だ。同国人の夫は、3人を残して家を出てしまった。彼女はスーパーマーケットで食肉などを加工する職に就き、なんとか親子三人の露命をつないでいる。しかし英語の読み書きができないことが大きな引け目となってしまい、サリマは学校に通い始める。そこで日本人の女性と出会ったことが彼女の運命を変えるのである。
2人の人生が交わったところに生まれたものを描く小説だが、言語の問題が作中で大きく取り上げられる。考え、書き、読むという行為はすべて言語を媒介して行われる。母国語ではない英語でそれが自由にできないということが、本書の登場人物たちにとっては重要な意味を持ってくるのだ。その問題に焦点を当てたことにより、本篇は豊かな奥行きを持つことになった。世界文学的な普遍性を獲得したと言っていい。その点を選考委員がどう評価するか。大衆小説的な一面もあり、それが不確定要素である。とりあえず★★★☆。

■「鼻に挟み撃ち」いとうせいこう(2回目。初出「すばる」2013年12月号)
前回候補作となった『想像ラジオ』では東日本大震災そのものを題材としたいとうせいこうだったが、残念ながら選考委員に全面的に受け入れられるというわけにはいかなかったようである(特に村上龍からはヒューマニズムに流れた安易さを批判されている)。今回の作品は前作とは趣きが異なり、メタフィクションの技法が採用されている。登場人物が何者かに向かって語りかけるという形で「声」を小説内に鳴り響かせるやり方は同じなのだが、前作ほどに直截的ではない。小説は、御茶ノ水駅前で一人の男が通行人に無視されながら街頭演説を行っている場面から始まる。というかその男の声から始まる。マスクで顔を隠した「わたし」の語りは、途中からいとうせいこうその人を思わせるものになる。『去勢訓練』以降の創作中断、パニック障害の過去などが第2章以降では綴られるのである。
本篇の中では、文学作品への言及が頻繁に行われる。特に重要なのがドストエフスキーに「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出てきた」と言わしめたロシアの文豪の、『外套』ならぬ『鼻』という中篇だ。人間の鼻が顔面から逃げ出し、こともあろうに五等官の位を持つ紳士になりすますという荒唐無稽な小説である。その『鼻』を作中で頻繁に参照しつつも、忠実な本歌取りとはならずに「あたかもプリズムで光が分岐するように」逸脱を繰り返すのが後藤明生『挟み撃ち』という小説なのだが、この作品が第2の重要な因子である。構造を『鼻』に、拡散して小説外のことども(その中にはいとう自身と後藤との、あるか無いかの微かな縁の糸も含まれる)を巻き込んでくる手法を『挟み撃ち』から拝借しながら、いとうは迂回路を通って小説の最後でやはり読者への呼びかけを行う場所に戻ってくるのだ。
芥川賞にはつれなく足蹴にされた前作『想像ラジオ』だが、本篇にはそのリベンジの意図がこめられている。どう考えても迎え撃つ選考委員は、本篇を挑戦状と受け止めるはずだ。その態度表明が吉と出ることを祈るが、不遜と受け止められる可能性もある。ゆえに★★をつけるが、どうぞご武運を。予想が外れたら私が芥川賞を見くびっていたということです。

■「LIFE」松波太郎(2回目。初出「群像」2013年7月号)
前回のノミネートは第141回(「よもぎ学園高等学校蹴球部」)、4年半ぶりの候補である。
冒頭、いきなり「国王」による演説が始まるのでびっくりする。なんじゃこりゃ(『リアル鬼ごっこ』を連想してしまった)。やがて、それは本篇の主人公である猫木豊の空想世界の中の出来事であることがわかる。猫木は宝田という女性と同棲しているのだが、彼女の口から自分が父親になったことを告げられる。それは「王国」にとっては国王の「代替わり」を意味するのであった。以降要所で猫木の脳内ビジョンが展開されていくことになる。
2人は妊娠をきっかけに籍を入れる。しかし猫木は依然として彼女を姓、もしくは「おまえ」ないしは「文学少女」と呼び続ける。よって小説内の表記も「宝田」のままだ。宝田と出会ったときから猫木は一貫してフリーターであり、基本的にあまりものを知らない。勤め始めた職場で言われないのない天引きをされたといって怒り、そのヨー保険(雇用保険の聞き間違いである)とかいうのは要らないから給料を上げてくれ、と言い出すほどだ。
端的に言えば「LIFE」は、そんな風に行き当たりばったりで生きてきた男が、子供の誕生という局面に出くわして意識を変える小説である。そういう「ピシッとしなきゃ」の元ヤン話なのに、猫木の内的世界の登場人物が「国王」然として話すところに可笑しみがある。生身の猫木が獲得していないはずの観念や問題意識を「国王」は備えている。猫木が持っている言語体系は極めて貧弱なものなのでそれを言葉することができないが、夢想の中の登場人物である「国王」には可能なのである。猫木のようにきちんとした言葉を持たない者たちを、松波は幾分皮肉りつつも捨てずにすくい取ろうとしているように見える。ちょっと優しく、個人的には好印象だった。作中に挿入される歌もくだらなくてよいです。猫木を描くための文体に否定的な印象を持つ選考委員も出るやもしれず、評価は★★☆。
(杉江松恋)

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