『KIMURA vol.0 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田 俊也著、原田 久仁信作画/双葉社

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君はもう『KIMURA』を読んだか!

それってベストセラーになったノンフィクション『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の漫画化作品でしょう。もう読んだし、今頃になって何を言っているの。
だいたいエキレビでも新刊当時にレビューが上がっていたじゃない、だって?

違う!
否、断じて否である。
いや、合ってるんだけど、違う。
『木村政彦はなぜ殺さなかったのか』は作家・増田俊也が高専柔道の流れを汲む七帝柔道出身者として、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられた不世出の天才への師恩に報いるべく著した魂の書だ。プロレスラー・力道山とのワンマッチによって格闘家としての生命を事実上絶たれ、後半生を不遇のまま過ごした。その木村を復権させなければならないという熱い思いから、増田はこの大部の作を書き上げたのである。

『KIMURA』はたしかにその漫画化作品である。しかし、そこにはもう一つ重要な要素が付け加えられている。
劇画魂だ。

作画を担当するのは原田久仁信、オールドファンには実録プロレス漫画『プロレススーパースター列伝』の、また未完に終わった梶原一騎の伝記作品『男の星座』の作者として知られている。『KIMURA』はこの原田の存在がなければありえなかった作品なのである。

『KIMURA』の連載は「週刊大衆」2013年4月15日号から開始され、同年10月に最初の単行本が発売された。異例の2冊同時刊行、しかも第0巻と第1巻という構成である。
これには理由がある。

私は第1回からこの作品を読んでいたが、当初は奇異に感じていた。木村政彦の伝記作品でありながら、ほとんどその木村が出てこないのである。0巻収録分にあたる第12回までの主人公は、他ならない原作者の増田自身である。木村政彦の訃報直後、雑誌に心ない記事が掲載されたことに増田が激怒する場面から連載は始まる。増田は雑誌の編集部に電話をかけ、なぜこのタイミングで掲載したのか、故人を悼む気持ちはないのかとなじるのである(クレーマーだよ、それじゃ)。
木村の命日は1993年4月18日である。その時点ではまったく正史からは消し去られた存在だった。しかし半年後、思いがけないことからKIMURAの名は脚光を浴びることになる。2003年11月21日に開催された第1回UFC大会でホイス・グレイシーが優勝したからである。ホイスはグレイシー柔術が唯一敗北した日本人である木村政彦の名を挙げ、KIMURAの名が一族にとって特別なものであることを明かした。地球の反対側でひそかにその英名は語り継がれてきたのだ。
ここから作者はグレイシー柔術に対抗した一人の日本人に脚光を浴びせ始める。
中井祐樹である。

中井祐樹は北海道大学柔道部の出身で、増田の後輩にあたる。彼は1995年4月20日に日本で行われた「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」のトーナメント戦において決勝に残り、ヒクソン・グレイシーと対戦したことで一挙に有名になった。しかしその闘いには大きな代償を払っていたのである。1回戦で対戦したオランダの格闘家ジェラルド・ゴルドーから目潰しの反則を受け、右目を失明していたからである。右の視力は戻らず、彼は大会後、総合格闘技からの引退を余儀無くされる。

増田・原田のコンビは、この中井の闘いと木村・力道山の闘いとを並び立てて描いていく。2つの闘いが持つ意味とは何なのか。肉体が傷つけられるだけではなく、すべてを失う危険があると承知していながらも闘わずにはおれないのはなぜか。
読者は増田の視点を通じてその答えを知ることになる。第0巻のラストを「週刊大衆」で読んだときに背筋を駆け抜けた震えを私は忘れられない。そこには梶原一騎が描こうとして果たせなかった『男の星座』が映し出されていたのだ。
おお、そうか。これは『男の星座』の正統な続篇となることを意図して描かれた物語なのか。

第1巻で初めて物語は、正攻法の伝記漫画の展開になる。原作の第2章「熊本の怪童」で語られたエピソードから幕は上がるのだが、展開はゆったりとしている。原作で増田は、木村に常人離れした怪力が授けられた原因を、幼少期から家業の手伝いをして砂利採りの仕事をしていたからだとしている。川底から砂利をすくい取り、小舟に空けて運んでいくだけの辛い仕事だ。小舟を満タンにしてもらえる額は現在の価値で2000円程度、重労働である上に報われない。この未来のない仕事に就いていた木村少年が柔道に触れ、町道場での稽古を通じて才能を開花していくところまでが第1巻で描かれる。ここまで、なんと第2章の半分にも届かない内容である。

間違いなくこれは大河連載になる。
原作ではすっと通り過ぎただけの人々に顔が与えられ、木村との邂逅の場面が描かれる。酒好きで豪快な性格の道場主・木村又蔵、『宮本武蔵』における沢庵和尚のような役割を担い、獣の子のような木村にそれとなく道を教えようとする僧侶・澤木興道など、脇役に至るまで名優が揃っているのだ。木村はやがて全九州相撲大会準優勝の実績を買われ、旧制鎮西中学に入る。そこで系統立った指導を受け、また同年齢の猛者たちに揉まれることにより、初めて本格的な柔道家への道を歩み始めたのである。

現在連載は第38話まできているが、いまだ木村は鎮西中学にいる。後の師となるもう一人の柔道の鬼・牛島辰熊との出会いはまだ果たしていないが、徳島の天才柔道少年・阿部謙四郎とはついに対面を果たした。阿部は後に1936年5月31日に行われた宮内省皇宮警察部武道大会において木村と対戦し、破っている(判定勝ち)。木村は同大会において、大外刈りの失敗のためにもう一敗しているが、力及ばずに敗れた相手は阿部だけだ。この敗北が、木村を真の怪物へと変貌させることになる。

2人の出会いの場面を、漫画版から抜粋しておこう。

1933年5月、京都武徳殿において開かれた三段審査の大会において、快進撃を続ける木村。その前に師・栗原民雄に伴われた阿部謙四郎が歩を進めていく。
周囲のざわめき。

選手の一人 お…阿部謙四郎だ……。

ざわめきに気付く木村政彦。
ス、と前に出る阿部謙四郎。

阿部 やあ! 君は強いんだな。
木村 ああ!(不敵な笑みを浮かべ)強かよ! あんた誰ね?
阿部 (ニコッと微笑む)そのうち……君と対戦する、そんな気がする。そのときまでもっともっと鍛えておいてくれたまえ!
木村 ウッス!

去っていく阿部。

鎮西中の選手たち お、おい! 今のは阿部謙四郎だぞ!
木村 何者ね。
選手たち 京都武徳殿の天才たい!(後略)

どうです。ぞくぞくしてくるではないですか。この先に待ち受けているライバル・ストーリーを予測させる。
さらに言えば、漫画版には原作版では書ききれなかった寄り道のエピソードなども満載されている。たとえば前回の第37話、木村は旧知の仲である五高(熊本大学の前身)の柔道部員・薬師丸清次郎に誘われ、旧制高校寮内の宴会に混ざっている。そこで酔っぱらった五高生たちとともに「寮雨」に参加するのだ。「寮雨」とは二階の窓を開け放ち、そこから連れ立って放尿をする儀式である。増田はこれが旧制高校の伝統であり、一高出身の芥川龍之介なども喜んで加わっていたと書く。

──寮雨とは夜間寄宿舎の窓より、勝手に小便を垂れ流す事なり。僕は時と場合とに応じ、寮雨位辞するものに非ず。(芥川龍之介「恒藤恭氏」)

こうした脱線もまた週刊連載漫画ならではの味だ。毎回毎回楽しみで仕方なく、私は胸を躍らせながら「週刊大衆」を読んでいる(ちなみに同誌には『1976年のアントニオ猪木』の著者である柳澤健が世界の巨人のアメリカ修業時代を描く『1964年のジャイアント馬場』を連載している。これも楽しみなのである)。むむ、実にたまらんのですよ。
(杉江松恋)