『北朝鮮の指導体制と後継――金正日から金正恩へ』岩波現代文庫/平井久志

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昨日に引き続き、北朝鮮の支配者であった金正日に関する書籍のレビューをお届けする。
先に結論を書いてしまうが、もし歯ごたえのある本を読んでもかまわないのであれば、必読書は2冊ある。この2つだ。
平井久志『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』2011年4月刊
張ソンミン(誠+王へんに民)『金正日最後の賭け 宣戦布告か和平か』2009年7月刊
この2冊がなぜ必読であるのか。説明する前に金正日関連書で現在入手可能なものを刊行年順にざっと紹介しておこう。これがすべてではないが、特徴的なものを挙げておく。
なお、昨日も触れた主体思想確立の立役者であり後に韓国に亡命した黄ジャンヨプ(長+火へんに華)『金正日への宣戦布告』(1999年刊)、金正日の料理人だった著者が匿名で表した藤本健二『金正日の料理人』(2003年刊)、金正日の長男・正男の母・成恵琳の姉である成ヘラン(薫の下に山+王へんに良)の回想記『北朝鮮はるかなり 金正日官邸で暮らした20年』(2003年刊)などは現在品切中だが、もし新古書店などで手に入れば読むべき価値のある本だ。

2003年刊行
李英國『私は金正日の極私的ボディガードだった』
著者は警護官という任務で金正日の傍に仕えたことがある人物。金正日に関する記述はそれほどなく、彼が身内には驚くほど篤く報いる傾向があるということなどが書かれている。著者は一度亡命に失敗し、政治犯収容所に送られて5年弱を過ごしている。その凄まじい記録のほうに読むべき価値がある。
 ーー「ネズミや蛇を一年に7匹ぐらい食えばその年を越すことができる」というのが管理所の罪人たちの定説になっていた。
 という記述など生易しいほうである。収容所の惨状を知るためには良い資料だろう。

2004年刊行
萩原遼『金正日隠された戦争 金日成の死と大量餓死の謎を解く』
元「赤旗」記者だった著者には多数の北朝鮮関連の著作があり、その1冊だ。「1995年に始まる北朝鮮の飢饉は、北東部に今日中する潜在的な反乱分子の抹殺を狙ったもので、300万人が故意に餓死させられた」「金日成は晩年、金正日の行き過ぎた軍事優先主義によって経済が衰退したことに批判的だった。そのために正日によって殺害された」という2つの主張を萩原は掲げており、多くの資料でそれを裏付けようとしている。真贋はともかく、北朝鮮が51もの階級に区切られた、差別を前提にした社会だという指摘の箇所は読むべき価値がある。

2006年刊行
鈴木琢磨『テポドンを抱いた金正日』
毎日新聞編集委員による著書。鈴木自身もあとがきで書いているように「金正日外伝」というべき内容で、この本にしかないような核心に迫る記述はない。ただし、大韓航空機爆破事件の実行犯である金賢姫と金正日がプロパガンダ映画「社会主義祖国を訪ねた栄秀と栄玉」を通じて接点をもっている可能性があることなど興味深い事実を多く指摘している。

2007年刊行
エリオット・J・シマ『金正日の愛と地獄』
著者は匿名のジャーナリスト。この本も細かい指摘の部分に読むべき点がある。いわゆる「喜び組」の人脈や、北朝鮮へエロメディアの物品が輸入されるときのルート(やはり需要はあるらしい)などがチャート式で詳しく語られており、ゴシップに関心がある読者には向いている。

2008年刊行
重村智計『金正日の正体』
重村も北朝鮮問題の専門家である(現・早稲田大学国際教養学部教授)。影武者問題について正面切って採り上げた本で、2000年以降の金正日は健康上の理由で表舞台に出てきていないのではないか、という仮説を提示している。つまりそれ以降目撃されたのは影武者ということである。今回の死亡報道でも、実際に金正日が亡くなった日はもっと早いのではないかという疑いがある。近い将来に、本書が注目されることがあるかもしれない。

さて、本命の2冊である。
まず、『北朝鮮の指導体制と後継』だが、著者の平井久志は共同通信社編集委員兼論説委員で、本書の前に『なぜ北朝鮮は孤立するのか』の著書がある。本書は前著を補完した内容であり、金一族が権力を自身に集中させていく過程を分析し、労働党と軍部の力関係、開催された党大会における制度改正・人事政策の変遷などに細かく触れた上で、権力掌握の過程を詳細に描き出している。「世襲」の問題について触れた以下の文章は、実にわかりやすいものである。

 ーー筆者は故金日成主席から金正日総書記への権力継承が「世襲」であったとは考えない。金正日総書記が故金日成主席の長男であったから、形式的には世襲であったが、金正日総書記への権力継承は、激しい「権力奪取」の結果の産物であり、封建領主が息子に権力を与えるような権力世襲ではなかった。
 金正日総書記は故金日成主席の実弟の金英柱や、異母弟の金平日と継母の金聖愛との激しい権力闘争を闘った。金正日総書記は、彼らを「横枝」と規定し「横枝を刈らねば幹は育たないという論理で「横枝叩き運動」を展開し、政治的なライバルをつぶしながら後継者の地位を確保した。(中略)
 しかし、その金正日総書記から金正恩への権力継承はまったくの「世襲」である。金正日総書記はなぜそういう道しか選べなかったのであろうか。(後略)

このように事態を整理して初めて、金正恩体制の真の姿、その危うさが見えてくることになるのだ。また本書には原稿の北朝鮮労働党トップの顔写真が多く掲載されており、ニュースを観るときのよい手引きとなることも付け加えておきたい。平井の前掲書とともに一読をお薦めする。

もう一冊、『金正日最後の賭け』の著者である張ソンミン(誠+王へんに民)は韓国国際政治学会取締役などの地位にある高名な政治学者だ。内容は多岐にわたっているが、特に東アジアの情勢に関する分析に注目したい。
張は北朝鮮が核に固執する理由を、将来の仮想敵国として中国を見ているアメリカと、かつての従属国を制御できずに持て余している中国との両方に対するパワーゲームを優位に運ぶためとし、核に代わる切り札を手にしない限り、放棄はありえないと結論づけている。さらに、米中両国が牽制しあっていることの背景には北朝鮮に対抗して日本が核武装化する可能性を警戒する事情があると張は書いている。
小泉政権時に日本人拉致問題を暴露することによって金正日は国交正常化を狙ったが、日本側からの予想以上の反発を受けて頓挫した。それ以降金正日は日本との直接対話を避けて対米工作に乗り出したのだが、まったく蚊帳の外に置かれているように見える日本が、自国民の思わぬところでワイルドカードとして扱われているということを張は指摘している。もちろん核武装は安易に選んではならないみちだが、いたずらに北朝鮮に対するバッシングを行うだけではなく、国際情勢を多角的に睨んで政策決定をする必要があることを本書は示唆してくれているのだ。
また、韓国の太陽政策についての評価も興味深いものがある。前回も書いたが、金大中大統領以降の太陽政策は、金正日政権を延命させるだけの利他的行為であったという批判がある。それに対して張は、南からの物資援助が北に浸透すれば、人民に対して「祖国」の壁の外には豊かな世界が広がっているとの情報を与えることになり、内部から金政権を腐敗させる効果がある点を批判者は見落としていると指摘する。こうした形で、北朝鮮問題を考えるときに大きなヒントとなるであろう着眼点を、いくつもこの本は提供してくれるのである。
金一族についての考察も冴えている。暴虐な独裁者として喧伝される金正日については、通俗的なイメージを覆すような分析が目立つ。父親の金日成はスピーチによって大衆を扇動することを好んだが、自身は一回も公開の場での大衆演説を行ったことがなく、慎重な一面があること(したがって彼をヒトラーに喩えるのは不適切な面がある)、ブッシュが彼を「ピグミー」呼ばわりしたときも言い返すことはなく、他国の首脳に対しては冷静な対応を心がけていること、など従来とは異なる人物像が描き出されているのだ。
長男の金正男についての記述にも注目したい。彼は2001年の日本密入国事件によって父に見限られ、完全に失脚して半亡命状態にあるという見方があるが、張はこれを否定する。正男が日本に入国しようとしていたのは北朝鮮からイラクに輸出したミサイルの代金を回収するためであり、兵器輸出などのビジネスによって外貨を獲得するのが彼の主たる任務であるというのが張の見方だ。亡命どころか、海外エージェントとして金一族を補佐するのが正男の役目だというのである。

こうした指摘には蒙を啓かれたような思いをする読者が多いはずだ。マスメディアの報道の中にも、相手を罵って溜飲を下げるのが目的の感情論や、先方を過小評価して安心を得ようとする楽観論の兆しが見受けられることがある。しっかりと冷静に事態を把握するためには、先入観を捨ててかかる必要があるのだ。そのための参考図書として、今回挙げた2冊の本を特にお薦めする。
次週は、金正日の後継者たる金正恩に関する本をご紹介したい。
(杉江松恋)