「ここで一生飼育してやる」ベテラン刑務官に深夜“囁かれた”受刑者がみな“塀の中に戻ってくる”ワケ【刑務所の怪談】
怪談師・怪談作家として全国を歩き、実際に収監を経験した人々や刑務官を取材しながら“塀の中の実話怪談”を蒐集してきた正木信太郎氏。
その正木氏が聞き集めたエピソードをまとめたのが、書籍『刑務所怪談 刑務所で起きた身の毛がよだつ30の怪異』(彩図社)だ。
舞台となる施設や体験者の人物像はプライバシーに配慮してぼかされているが、語られる出来事の根幹は、確かな取材に基づいた事実だという。
第2回で正木氏が書き留めるのは、業界では古株のフリーライター・岩下さんが、馴染みの酒場で語った古い記憶だ。
駆け出しの雑誌記者だった昭和の終わり頃、岩下さんは、十年以上の刑期を終えて娑婆に戻ったばかりの加藤という男を取材した。加藤が語ったのは、暴力でも虐待でもなく、ある刑務官にまつわる体験談だったという。
※この記事は正木信太郎氏の書籍『刑務所怪談』(彩図社)より一部抜粋・構成。
ある時期から、その刑務所に奇妙な癖(くせ)を持つ刑務官が配属された。他の刑務所から異動してきたベテランで、制服のプレスは常に完璧、帽子の角度まで寸分の狂いもない。規律に厳しく、受刑者と馴れ合うことなど決してない。廊下ですれ違えば、誰もが自然と背筋を伸ばした。その刑務官が夜勤の日は、空気が張り詰める。
夜の点呼――閉房点呼の時間、受刑者たちは部屋の中で整列して座り、番号を叫ぶ。
刑務官が人数を確認し、施錠する。
異様なのは、そのあとだった。構内放送のスピーカーから消灯ラッパが流れ、舎房が闇と静寂に包まれてからのことだ。
就寝後の巡回は通常、静かに行われる。刑務官は足音を忍ばせて廊下を歩き、鉄扉についた小さな覗き窓――視察孔から中を確認して回るだけだ。
だが、その刑務官だけは違った。加藤たちのいる雑居房の前で、ピタリと足を止めるのだ。靴音が消えた廊下に、息を殺したような静寂が落ちる。その沈黙が、また異様だった。
視察孔に張り付いたその影は、微動だにしない。視線は部屋全体ではなく、まるで狙撃手のように、雑居房の中に並んで寝ている特定の囚人へ注がれているようだった。
そして、硝子(ガラス)越しに、ボソボソ、ボソボソと、何かを囁き始める。
分厚い鉄扉越しでは、囁き声など届くはずがない。しかも、その囚人の枕元までは数メートルの距離がある。
だが、その声は違った。換気扇の音も消えた真夜中の静寂の中、低く平坦な、感情の読めない声が床を這うように距離を無視して、その囚人の耳元へと滑り込んでいく。加藤には、それがはっきりとわかった。
雨の日も風の日も、その担当の日には必ず、寝床についたその囚人に言葉が注ぎ込まれる。
囁かれている当人に訊くと、決まってキョトンとする。
「え? 何も言われてませんよ。挨拶じゃないですか?」
言われているという自覚すらないようだった。
最初のうちは気味悪がっていた同室の囚人たちも、1週間もすれば気にも留めなくなった。加藤自身、真面目すぎて少しおかしくなった担当刑務官の、妙な習性程度にしか思っていなかった。
刑務所に戻ってきた男たち加藤が収監されて数年が経った頃、空き巣の常習犯である男が3度目の入所をしてきた。刑務作業の休憩時間、工場の片隅で顔を合わせた。
「お前、またか」
呆(あき)れる彼に、男はバツが悪そうに苦笑した。
「へへ、どうも。やっぱりシャバの空気は合わなくて」
「また盗ったのか」
「ええ。なんか、歩いてたら急に……あの家の鍵は開いてるぞって、誰かに耳元で言われたような気がして。気づいたら中に入ってました」
「ビョーキだな。しっかり治せよ」
軽くあしらい、その話を記憶の隅に追いやった。
それから数か月後、今度は薬物事犯の男が戻ってきた。一年も経たずに舞い戻ってきた口だった。
「お前もか」
「いやあ、参りましたよ」
虚ろな目が、虚空(こくう)を向いていた。
「我慢してたんです。でも、夜寝ようとすると、頭の中で声がするんすよ。極上のネタがあるって。そしたらもう、体が勝手に売人のとこに向かってて」
彼の動きが止まった。こいつもだ。
胸の中に澱(おり)のような違和感が溜まっていく。戻ってきた奴らと、戻ってこない奴ら。その違いは何だ。
言葉が毒液のように注ぎ込まれ…戻ってきた窃盗犯。戻ってきた薬物中毒者。あいつらに共通していたことは何だ。……あいつらは、囁かれていた。
出所するまでの間、あの刑務官が毎晩のように視察孔から囁きかけていた相手。それがあいつらだった。逆に、囁かれていなかった奴らは、今のところひとりも戻ってきていない。
ある夜、彼は狸(たぬき)寝入りを決め込み、神経を研ぎ澄ませた。今夜はあの刑務官の夜勤だ。
同室には、明日満期出所を迎える性犯罪の前科がある男が寝ている。その布団は、すぐ隣だ。息を整え、目を閉じる。全身の感覚を耳に集めた。
――コツ、コツ、コツ。
靴音が近づいてくる。心臓が、一つ大きく跳ねた。部屋の前で止まる。視察孔の蓋が、音もなくスライドする気配がした。息を殺す。
「……そこには、誰もいないぞ」
聞こえた。脳の皺(しわ)に直接染み込んでくるような、湿った低い声。
「……暗がりだ。誰も見ていない。お前の好きにできる」
隣の男が、布団の中で「うう……」と小さく寝言を漏らした。覚醒しないギリギリの浅い眠りの中に、言葉だけが毒液のように注ぎ込まれていく。
布団の中で、震えが止まらなくなった。
翌朝、隣の男は出所手続きのための部屋(釈前房)へ移され、その後出所していった。
「出所する頃には、立派な本物に」やがて、加藤自身の出所の日が来た。刑務作業場からの帰り、廊下の片隅であの刑務官とすれ違った。
「担当さん」
呼び止めると、刑務官はゆっくりと足を止めた。
「あんた、あいつらに毎晩何を吹き込んでるんだ。点呼のあとだ。あいつらが戻ってくるように、嫌がらせをしてるんだろう」
刑務官の眉がピクリと動いた。沈黙が落ちる。やがて口の端を吊り上げ、ニタリと笑った。
「……嫌がらせ、か。ふふ」
もったいぶった仕草で制帽の位置を直すと、口を開いた。
「人聞きが悪いな。私はね、彼らを完成させてやっているんだよ」
「完成?」
「そうとも。素材としては優秀だが、仕上げが雑だ。だから私が毎晩、少しずつ手を入れてやる。盆栽の枝を針金で矯(た)めるようにな。入所したその日から、意識の下に一滴ずつインクを垂らすように言葉を染み込ませる。出所する頃には、立派な本物に仕上がる」
「あんた、狂ってるぞ。更生させるのが仕事だろう」
「更生?」
口の端だけが、皮肉げに歪む。
「ゴミを洗って宝石になるとでも? ゴミはゴミとして、美しく機能的に、ゴミ箱に収まるのが一番幸せなんだよ」
一歩近づき、彼の耳元に顔を寄せた。あの夜の囁きと同じ、湿った声だった。
「だから私が、責任を持ってここへ帰れるようにしてやっている。一生、死ぬまで、この檻の中で管理し、飼育してやる。それが彼らにとっての救済であり、私の…… 愉悦なのだよ」
離れると、刑務官はそれだけ言い、踵(きびす)を返した。
「君はつまらん素材だったな。歪みが足りない」
コツ、コツと靴音だけを廊下に残して、その背中は角を曲がった。崇高な使命を果たしている聖職者のように、堂々としていたという。
「……とまあ、そんな話さ」
岩下さんはグラスに残った氷をカランと鳴らした。
「最近、凶悪な再犯のニュースを見るたびに、ふと思うんだよ。あの犯人の耳元でも、誰かが毎晩、何かを囁いていたんじゃないかってね」

