自我とは結局なんなのか…「表層」と「深み」という視点で見えてくる世界があった!
あなたはまだ本当の〈時間〉を知らないー。仕事に家庭、学校…時間に追われ、せわしなく生きるすべての人へ。ぐいぐい読めて、世界が変わる!
注目の新刊『はじめてのベルクソン』では、現代を生きる私たちが時間とどう向き合うべきなのかが語られる。
(本記事は平井靖史『はじめてのベルクソン』の一部を抜粋・編集しています)
「表層」と「深み」
ベルクソンは、私たちの自我を、表層と深みという二つの傾向のあいだに拡がるものとして捉えています。
表層には、バラバラに近い状態の意識的事象が漂っています。日々の習慣的な反応、知能が手際よく処理する判断、社会的な役割に応じた振る舞い。「こう言われたら、こう返す」「この状況では、こう対処する」。本章冒頭で見たように、習慣と知能──この二つが、日常のテンプレートを回す主役でした。表層の意識は、この二つが支配する領域です。さまざまな出来事をタイプ分けし、それぞれあらかじめ決まったパターンに応じて処理する。ここでは、意識の諸事象は互いにそれほど溶け合っていないので、一つを取り出しても、他にあまり影響しない。切り分けて扱うことが、ある程度は可能です。だからこそ、テンプレートとして使いやすい。日常はこの表層の領域でかなりの部分が回っています。
たとえば、「今日やるべきことは三つある──メールの返信、報告書の修正、取引先への電話」。こう頭のなかで整理するとき、三つの課題はそれぞれほぼ独立した項目として並んでいます。一つ片づけても、残りの二つにはさほど影響しない。あるいは、電車のなかでスマートフォンの通知を次々にさばいていくとき、一件ごとの反応はほとんど互いに干渉しない。こうした場面では、意識のなかのアイテムは量的多様体に近い姿をしています。
ただし、ここで注意しなければならないのは、表層の意識が「量的多様体そのもの」だというわけではない、ということです。表層も含めて、自我の全体は質的多様体なのです。相互浸透──互いに染み込み合うこと──そのものに、深さの度合いがある。表層では、その浸透がごく浅い。だから、各アイテムが独立に並んでいるかのように扱えてしまう。量的多様体に「近似できる」という性質があるだけであって、本当に切り離されているわけではありません。先ほどの「三つのやるべきこと」にしても、報告書の修正のことが頭の片隅にあるから、メールの返信のトーンにわずかな影響が出ていたりする。表層でさえ、完全な独立はない。ただ、その影響が小さいので、実用上は無視しても回る。
ひとつの自我にある「層」
しかし、深みに向かうにつれて、様相は変わります。意識の奥に向かうほど、諸事象の浸透の度合いが増していく。ベルクソンは「稠密な集塊」という表現を使っています。ここでは、一つの感情を取り出そうとすると、周囲のすべてが一緒に動いてしまう。「幸福」という概念を本気で掴もうとすれば、喜びや安心や絆、家族、将来への期待、これまでの記憶──ありとあらゆる価値観や感情が連動して動き出してしまう。「幸福」を差し替えようと思えば、自分の生のほとんどすべてを組み替えなければならない。「この感情はどれくらいの大きさか」と問うこと自体が、意味をなさなくなる。質的多様体の世界です。
ベルクソンは繰り返し、表層と深みが截然とした二層構造をなしているわけではなく、これが「同じ一つの自我」であることを強調しています。そこに、ここからが表面だという境界線があるわけではありません。表面的だからまったく浸透がないというわけでもない。どんなに表層的に見える反応にも、極めて低い度合いではあれ、人格全体の色合いがうっすらと映し出されている。
ただし、この連続的な層のなかに、局所的な偏りや解離は生じます。私たちの心はどこまでも綺麗に辻褄が合っているとは限りません。ベルクソンが例として挙げるのは、権威主義的教育が叩き込んだ感情や観念の総体です。これらは互いに強く浸透し、一体化して抵抗力を持っている。しかし魂の全体に完全に溶け込むことはなく、自我のなかに局所的な群生地帯のようなものを形成します。第一章で触れた「閉じた社会」の同質化の圧力は、個人の自我の中にもこうしたかたちで歪みをもたらしうるのです。
