【プレイバック’96】かつての支持率83%が…長野県知事選に敗北の田中康夫知事 本誌が見た「涙」

写真拡大 (全3枚)

全国が注目した長野県知事選

10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたびふり返る【プレイバック・フライデー】。今回は10年前の’06年8月12日号『長野県知事選ルポ「脱ダム」だけでなく「メディア選別」でもミソ 田中康夫「180万県民の“NO!”に涙」敗戦のウラ側』を取り上げる。

’00年10月に長野県知事に就任し、ガラス張りの知事室や「脱ダム」宣言、脱記者クラブ宣言など、次々と革新的な政策を打ち出して全国から注目された田中康夫氏(70)。一時は「脱ダム」に反発する議会から不信任案決議をされて失職するも、出直しの県知事選では県民の圧倒的な支持を得て返り咲いた。

しかし、それから4年の月日を経るうちに田中氏の手法への疑問や批判の声が次第に大きくなり、3選目を狙った’06年の県知事選では敗れる結果に。当時の『FRIDAY』の記事では選挙の“ウラ側”に迫った(《》内の記述は過去記事より引用、肩書は当時のもの)。


《「(記者の)皆さんは(落選に対する)私の涙を期待していると思いますが、私は、流しはしません。「心残りはあるか』と言われましても、皆さんのご期待に沿う、いい答えなどはありません」

8月7日、長野県庁内の会見場。6年間に及んだ田中県政のありかたが問われた長野県知事選(8月6日投開票)で落選。3選への夢が破れた田中康夫知事(当時50)は、強気の“ヤッシー節”を披露して、 敗北宣言はいっさいしなかった。しかし、その目にはうっすらとにじむ涙--。本誌は、その一瞬を見逃さなかった》

投票結果は惨憺たるものだった。得票数61万2725票で当選したのは、前衆議院議員の村井仁氏(当時69)。田中氏は53万4229票で、82万票を獲得した’02年の出直し選挙に遠く及ばなかった。地元紙の調べでは、前回、田中氏に投票した有権者の30%が村井氏に投票していたことが判明。1期目の就任直後には87%もの支持率を誇った田中氏の凋落ぶりを如実に示していた。

田中氏の後援者らは「自民・公明の援護を受けた村井陣営の組織力と、マスコミのネガティブキャンペーンに負けた」と口にしていた。しかし、県民からの支持をすっかり失った理由は、それだけではなかったようだ。記事では次のような点を指摘していた。

《今回、何よりも田中氏を追いつめたのは、後援会の分裂だったと指摘する声は多い。6年前に田中氏に出馬要請した後援会幹部6人のうち、残ったのは2人だけ。最有力後援者だった八十二銀行元会長の茅野實氏は、選挙前に「反田中」の意見広告を地元新聞2紙に掲載し、 村井陣営側に回ってしまった。

ある県議は、「この6年で田中流政治手法は限界に達した」と指摘する。大きくミソをつけたのは、パフォーマンスに終わった「脱ダム宣言」と、対マスコミ戦略の2点だというのだ。

「田中氏は、対議会にせよ、対マスコミにせよ、「対立軸(攻撃対象)』を作り上げることで自身の評価を高める戦法を取ってきた。県議会との確執では「苛められる可哀想な田中知事』を演じ続けたが、 さすがに、県民も嫌気がさしたのでは」》

6月には田中県政を検証するニュースを放送した長野朝日放送を議会で『偽造報道』と名指しで批判。地元マスコミの記者も敵味方に選別して対決する姿勢は、自身が絶えず批判され、チェックされる知事という立場を忘れてしまった“裸の王様”にもなぞらえられたのだった。県民からの支持を思いのほか早く失うことになってしまった。

“闘う姿”をアピールした劇場型政治

知事就任当初は、それまでの県政を「密室政治」だと批判し、それを支えてきた議会との対決姿勢を打ち出した田中氏は、無党派層から熱烈な支持を受けた。その象徴ともいえるのが「脱ダム」宣言だった。自然への負荷や巨額の建設費を考えて県のダム設置計画を見直し、工事中のものも含めて8ヵ所を中止させた。突然の建設中止は議会の猛反発を招き、前述のように田中氏の不信任案へと至る。それは、外から見ればゼネコンと癒着し、既得権益に固執する“守旧派”と闘うヒーローのようにも見えたのだ。

大手マスメディア以外にも平等に取材機会を与えるための脱記者クラブ宣言も同様だ。フリージャーナリストや外国メディア、雑誌媒体などからは賞賛された。しかし、新聞やテレビなど従来の記者クラブに属していたメディアとの間に大きな溝を生み、ネガティブキャンペーンを展開されることとなった。

“悪者”にされた人たちだけでなく、それ以外にも田中氏が取った議会や市町村に根回しなく進めるトップダウン手法は、「独善的だ」と議会や自治体、業界団体などの各方面から批判を受けるようになり、支持者を減らしていった。また、この年の7月に県内岡谷市で大規模な土石流災害が起きた。「脱ダム」が災害の原因となったわけではなかったが、“逆風”となったことは間違いないだろう。

前年に『新党日本』を結成していた田中氏は’07年7月の参院選比例区に立候補し、当選する。’09年8月の衆院選に鞍替え立候補し当選。民主党や国民新党などと会派を組んで活動していたが、’12年12月の選挙で落選。’15年に新党日本は解党した。

それでも田中氏の政治への情熱はまだ消えていないようだ。’21年と’25年には横浜市長選挙に立候補し、いずれも落選している。