中国政府の舌は何枚あるのか…国際的に大炎上した「遺伝子操作ベビー」を誕生させた研究者への不可解な対応
※本稿は、堤未果『堤未果の「すばらしい新世界」』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
■中国の研究者が生みだした禁断の「遺伝子操作ベビー」
大切なペットと、もう一度人生をともにしたい。
倫理的問題があるものの、個人的心情としては、多くの人が理解できるだろう。
そうなると、次に出てくるのはこの問いだ。
では、人間は?
中国広東省深圳(しんせん)市南方科技大学の、賀建奎(フー・ジェンクイ)副教授にとって、その答えはイエスだった。
〈科学で人を救えるならば、当然やるべきだ〉

賀博士は2016年から、男性のみがHIV感染者の夫婦8組と、この実験に関する同意書を交わしていた。
やり方はこうだ。まず、それぞれの夫婦に体外受精をさせる。そこでできた受精卵の遺伝子を、博士がクリスパーキャス9と呼ばれるゲノム編集技術を使ってHIVウイルスに感染しにくくなるよう改変してから、再び母親の子宮に戻すのだ。
クリスパーキャス9は、2012年に開発された技術で、「分子のハサミ」を使って遺伝子のある部分を削除したり、別のものに置き換えたりできる。
2020年に、開発者の女性2人がノーベル化学賞を受賞した世界的ニュースを、覚えている人も多いだろう。
■遺伝子の改変で起きる重大なリスク
賀博士はこのハサミを使って、HIVウイルスを侵入させるタンパク質をつくるCCR5遺伝子を無効化した。そしてまず「露露(ルル)」と「娜娜(ナナ)」と名づけられた双子の女児を、翌年には同じ手法で、3人目のゲノム編集赤ちゃんを誕生させたのだった。

だが、人類初のこの試みによって、賀博士は賞賛されるどころか、世界規模で大炎上。その結果、今まで積み上げてきた多くの大切なものを失うことになる。
2018年11月28日。
香港大学の国際ヒトゲノム編集サミットの場で博士がこの報告をすると、瞬く間に蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
受精卵の遺伝子を操作して体内に移植することは多くの国で禁じられている。
日本では2019年に研究レベルで規制され、2026年4月に原則禁止法案が閣議決定された。
長期的な影響がわからない上に、一度改変すると次世代まで引き継がれてしまうからだ。
■博士は中国当局によって3年間も収監
専門家としての倫理や責任を問う激しい批判が矢のように飛んでくる中、賀博士は会場から姿を消した。殺到する報道陣の取材を避けたのではない。中国当局が即座に動いたからだ。その後博士は行方不明になったと噂されていたが、実際には逮捕、軟禁され、大学の研究室から追い出され、妻や娘たちと引き離され、自宅から遠く離れた刑務所に、3年間入れられていた。
のちに広東省の調査班が公表したのは、賀博士が自らの「名誉と利益のために」、倫理審査申請書類を捏造し、実験参加者の血液検査に替え玉を使い、中国の倫理道徳と科学研究への信頼に著しく傷をつけ、国の法令に違反したこの一連の行為によって、国内外に極めて悪い影響を与えたというものだった。

メンツを何よりも大事にする中国にとって、賀博士には顔に泥を塗られたも同然だろう。
香港での発表翌日に国営テレビに出演した中国科学技術部の徐南平副部長は、賀博士の行為を激しく批判、研究中止を命じたことを明らかにした。
まるでこの事件を、賀建奎という一人の研究者、〈カネと名誉のために科学を利用した、とんでもない悪人〉の個人的犯罪に矮小化(わいしょうか)して、速やかに幕引きするかのように。
■暴走する中国の遺伝子操作技術
賀博士の件で国際社会から批判を浴びた中国政府は、その後規制を強化、2020年には「違法なヒト受精卵の移植」に対する刑罰を、最高7年の懲役に引きあげた。
だがその一方で、バイオ戦争における最大ライバル国アメリカに負けぬよう、研究開発の手は、決してゆるめることはなかった。
実は中国ではすでに2015年から、国内新興企業「安徽柯頓生物科技有限公司」が医療機関とタッグを組み、クリスパーキャス9を使った遺伝子改変を開始していた。『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙などの海外メディアによると、中国ではわずか3年で86人もの受精卵にゲノム編集実験を行っている。
また、同じ2015年の4月には、広東省広州市にある中山大学の黄軍就(ホアン・ジュンジウ)副教授の研究チームが、ヒトの胚の遺伝子編集を行った論文を発表。
実験は失敗したものの、世界中の科学者たちをギョッとさせ、香港中文大学生命倫理センター所長が〈中国本土の遺伝子列車は速すぎて止められない〉と警鐘を鳴らしていた。

■「5カ年計画」にもゲノム編集を組み込む
止められないどころか、中国政府は「科学技術力向上」を国家戦略に、研究開発と特許取得に巨額の予算を投入、1位アメリカの予算の8割まで追い上げる規模で世界2位に君臨し、3位の日本とは3倍もの差をつけている。
翌2016年に打ち出した「第13次5カ年計画」にも「ゲノム編集」がしっかりと組み込まれ、規制どころか文字通り、国をあげてイケイケどんどんの勢いだ。
この予算は年々拡大し、政府発表では2024年は3兆6300億元(約79兆円)と前年比で8.9%増、特許申請件数の方は180万件で、なんと世界全体(370万件)の半数を占めている。
2022年に、3年の刑務所暮らしを終えて出所し、早速科学界へ復帰すべく、精力的に動き始めた賀博士は、その後どうなったのか?
初めこそ『人間の遺伝子編集は慎重にする』と気をつけて発言していたが、ある時、若きベンチャー起業家と恋に落ちた。
動物の胚をゲノム編集した〈暗闇で光るペット〉シリーズ企画で話題を呼び、〈世界で最もお騒がせな科学者〉の異名を持つ、カナダ系中国人キャシー・タイだ。彼女と出会ってから、賀博士は元の野心を取り戻したかのように、SNSに次々と投稿し始めた。
■バイオ研究をめぐる中国とアメリカのバチバチ
1330万人が閲覧した投稿は、自分の研究を潰した科学界や党への恨み節だ。
「倫理が、科学の進歩とイノベーションを妨害している」
だがこのめくるめくロマンスは、2人に思わぬ隙を生み出した。
「私は、賀博士がアメリカで市場を開拓する準備を手伝っているの」と、不用意にSNSで発信したタイは、後でその代償を払わされることになる。
On this day last month, I married the most controversial scientist in the world. Now, we may never see each other again. While I’m concerned about my marriage, I am more concerned about what this means for humanity and the future of science. pic.twitter.com/msTKnZUrHO
- Cathy Tie (@CathyTie) May 18, 2025
米国との熾烈な科学技術開発競争の真っただ中にいる、中国政府の逆鱗に触れたのだ。賀博士は中国からの出国許可が下りず、タイは中国に入国できなくなった。
若い企業家やハッカー、野心家の研究者たちは、この問題をめぐる中国政府の立ち位置を、まだまだ甘く見すぎているのだ。
自国に対する国際的信頼を損ねた賀博士に課された300万元の罰金と3年の刑期の裏には、ライバル大国アメリカがいる。
アメリカの大学で生物物理学博士号を取得し、卒業後も遺伝子研究を続けていた賀博士は、早い時期から当局にマークされていた。
バイオ医療の貴重な人材をアメリカに奪われたくなければ、就職する前に、手を打たねばならないからだ。
中国政府は、賀博士が遺伝子研究を終えるタイミングで、海外の高度イノベーション人材を中国に呼ぶ「孔雀計画」の一人にスピード認定、本土に呼び戻すなり、28歳という異例の若さで、副教授に就任させた。
■「倫理」はテクノロジーの暴走を止められるのか
時計の針を2018年まで巻き戻し、賀博士が「ゲノム編集赤ちゃん」について発表した時の中国政府の動きを見ると、点と点がつながるだろう。

あの国際ヒトゲノム編集サミット報告の2日前、中国共産党が発行する『人民日報』には、こんな大見出しと、賀博士の功績を褒(ほ)め称(たた)える記事が派手に掲載されていた。
〈世界で初めての、ゲノム編集によるHIV耐性乳児が中国で誕生〉
賀博士の功績によって、中国のゲノム編集技術を使った疾病予防分野は、ついに歴史的領域に到達したのだ。
グローバル化されたこの世界で、〈倫理〉がテクノロジーの進化を止めるのは難しい。西洋の価値観や学界の倫理に縛られない国々や企業や投資家たちが国境を越えてドル箱になる研究者たちを取り込むからだ。
イギリスやフランスやドイツでは、遺伝子を編集した精子や卵子や受精卵での妊娠・出産は、法律できっちり禁じられているが、米国では、受精卵の遺伝子編集研究への「公的資金」は禁止でも、企業による投資は、経済活動の自由と見なされる。
2025年5月20日。
賀博士がゲノム編集赤ちゃんの件で、世界中から集中砲火を浴びていた時、博士を堂々と支持した唯一の生物物理学者、バイオハッカーのジョシー・ザイナー博士はXにこう書き込んだ。
〈私はいつだって人間の遺伝子を編集したいし、科学者の本音はみんなそう。そうでないという科学者がいたら、彼らは嘘をついている〉
「生老病死」――釈迦はこの4つを、人間が逃れられない苦しみと呼んだが今「生」を設計できるようになった私たちは、次の苦しみにも手を出そうとしている。
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堤 未果(つつみ・みか)
国際ジャーナリスト
東京生まれ。NY市立大学大学院国際関係論学科修士号取得。国連、アムネスティ・インターナショナルNY支局員、米国野村証券を経て現職。日米を行き来し、各種メディアで発言、執筆・講演活動を続ける。『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』で日本ジャーナリスト会議黒田清新人賞、『貧困大国アメリカ』(3部作、岩波新書)で日本エッセイストクラブ賞、新書大賞受賞。多数の著書は海外でも翻訳されている。近著に『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)がある。
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(国際ジャーナリスト 堤 未果)
