挿絵/小指

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―[すこしドラマになってくれ〜いつだってアウェイな東京の歩き方]―

ただ東京で生まれたというだけで何かを期待されるか、どこかを軽蔑されてきた気がする――。そんな小説家カツセマサヒコが“アウェイな東京”に馴染むべくさまざまな店を訪ねては狼狽える冒険エッセイ。今回の舞台は、市ケ谷の老舗とんかつ屋「うちの」。かつて大企業を途中で辞めた著者は、その本社がある街を歩くたび、自分が歩めなかったもう一つの人生を思う。願いは今日も「すこしドラマになってくれ」
◆近寄れない街のこと【市ケ谷駅・とんかつ うちの】vol.50

 学生時代の友人と食事に行くたび、「お前が物書きとして飯を食っているなんて」という話になる。「アイツのほうがよっぽど」とか「だれだれさんのほうが小説書きそうだったのに」とか、つまり「お前よりも文学に精通していた仲間はいたのに、なぜお前が?」と疑問が呈される。

 私も心の底からウンウン頷き、グラスを傾ける。学生時代の私は本当に小説を読まなかったし、就活シーズンになれば「大企業で働いてこそステータス!」と声高に叫んで自己啓発本を読み漁っていたから「なんでお前が物書きに?」と当時の友人が疑問を抱くのも当然のことである。

 大学卒業後、グループ全体で4万人近くが在籍する上場企業に入社した。当時の私は「ニンゲン大好き!」って感じの無邪気な22歳で、大勢の人と働けることに本気で感動していた。資本主義の歯車に自らなりたがっていた。ビジネスシーンで用いられるカタカナ語の全てが大好きで、日々「アジェンダ」と言いたくてうずうずしていた。

 しかし、それらはあくまでも「大企業の企画・営業職として働く自分」を想像していたからだ。実際に採用されたのは総務部で、つまり、話が違った。私の最初の仕事は企画書作りや訪問営業ではなく、従業員の作業着のサイズを1000人分調べることだった。

 私はそこで学びを得た。自分は細かな作業や事務仕事が壊滅的に苦手な人間であること。いくつもの上司の承認を得なければ先に進まない大企業の歩みの遅さがあまりに窮屈に感じること。そもそも他人との協働やそのための引き継ぎ業務などが嫌いなこと。どれを取っても、大企業に向いている人間ではなかった。

 5年後、在籍6人の小さな編集プロダクションに転職し、それからさらに3年たつ頃には独立して、一人になっていた。ライターとして働くうちにエッセイや小説の依頼が届くようになり、いつの間にか小説の収入が一番大きくなったので、小説家を名乗るようになった。

 そこに、文学への畏敬の念はあっても、憧れはなかった。

 大企業の社員として活躍できていればこの逃避ルートは存在しないわけで、私はいまだにその企業のオフィスがある市ケ谷駅周辺を歩くと、呼吸が浅くなる。途中で投げ出すように退職したことへの罪悪感もあるが、「もしも企画や営業職として働いていたらどうなったのか」という、もう一つの人生を想像してしまう。市ケ谷駅周辺のサラリーマンを見るたび、自分が歩めなかった人生が眩しく輝く。

 思うように活躍できなかったとしても、得意先から会社に戻る途中でうまい定食屋を見つけて、そこで力を蓄えてオフィスに戻ったりしたのだろう。当時はそういう姿にも憧れていた。総務部だった私は、5年間ずっと社員食堂に幽閉されていたからだ。

 市ケ谷駅から2分ほどのところに「うちの」という名前の古いとんかつ屋がある。100年以上の歴史を持つ精肉店が始めたその老舗に、最近、足を運ぶ機会があった。

 古くも清潔感がある店内では、ベテランの店員さんたちが静かな連携を見せている。協働が苦手だった私の目に、その阿吽(あうん)の呼吸が眩しく映る。

 多くの元同僚たちも、きっとここに通っているのだと想像した。もしかすると、隣に座ったスーツ姿の男性こそ、そうなのかもしれなかった。

 自ら絶ってしまったもう一つの人生を思いながら、限定50食のランチロース定食を食べた。隣の男性も同じものを食べていて、よくわからないが、ぐっと込み上げてくるものがあった。美味しかった。

 今だって幸せだ。でも、自分が馴染めなかった世界は、いつまでも眩しく輝くのだ。

<文/カツセマサヒコ 挿絵/小指>

※週刊SPA!2026年8月4日号より

―[すこしドラマになってくれ〜いつだってアウェイな東京の歩き方]―

【カツセマサヒコ】
1986年、東京都生まれ。小説家。『明け方の若者たち』(幻冬舎)でデビュー。そのほか著書に『夜行秘密』(双葉社)、『ブルーマリッジ』(新潮社)、『わたしたちは、海』(光文社)などがある。好きなチェーン店は「味の民芸」「てんや」「珈琲館」