山形放送

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木曜特集は「戦争の語り部たち」です。きょうは中国残留孤児の戦後と支え続けてきた「いきいき広場」についてお伝えします。

JR山形駅近くの会議室。県内に住む中国残留孤児と家族が集う「いきいき広場」です。日本の敗戦で81年前に中国の大地に置き去りにされた子どもたち。県内には7月現在で18人の孤児らが暮らしています。

宋さん 呉さん「丸くなってる唐辛子はおいしくない」「ほら立派でしょ」「これを作ってるのも中国人?」「みんな中国人が作っている」

交わされる言葉は中国語。日本語が自由に話せない孤児と家族のために引きこもり防止などを目的として18年前から開かれてきました。

笹原さん「今も毎日飲む習慣が残っていますか・・・」

まとめ役は二世の笹原堅さん。開設時から親世代を支え続けてきました。
10年以上前、2015年の「いきいき広場」の新年会です。亡くなった人、県外の家族のもとに身を寄せた人・・・参加者はこの時の半数以下になりました。
この空間が孤児たちにとって最も心を許し安らげる大切な居場所です。
81年前の夏、日本の支配下にあった満州にソ連軍が侵攻。大混乱となります。満州には27万人の開拓団が日本から国策として送り込まれていました。開拓団の逃避行と難民生活は凄惨を極めました。そして、多くの子どもたちが大陸に置き去りにされました。笹原堅さんの母キヌコさんもその一人、12歳でした。

キヌコさん「終戦の日から戦争が始まった。 大人の戦争は終わったけど、子どもの戦争はそれから始まった」

「いきいき広場」は笹原堅さんが会長を務める「県中国帰国者を支援する会」が月に2回、県と山形市の支援を受けて開いています。

鈴木芳子さん「すき焼きです。帰国者は自宅で作れないので。結構暑い日が続いたので元気で乗り越えるように」

協力員は笹原さんのほかに、同じく二世の鈴木芳子さん、結婚を機に中国からやってきた荒井紅さん。3人が昼食を準備し、孤児たちは近況を話し合ったりトランプに興じたりします。
藍野清さん、敗戦の1か月前に生まれました。蜂谷喜禄さん、身重の母が身を寄せた中国人の養父の家で敗戦の翌年生まれました。石川寛さん、5歳で大陸に1人っきりになりました。槙秋男さんは敗戦時2歳でした。大沼冨美子さんの父親はシベリアに抑留され命を落としました。
佐藤秀子さんと奥山桂子さんは同じく4年前に孤児の夫を亡くしました。

「いきいき広場」は2008年にスタートしました。当時の参加者は40人以上。孤児の多くが学校に行けませんでした。日本語は話せず中国語も読み書きはできません。
参加者はその後さらに減って十数人。広場の真ん中にいた笹原堅さんの母キヌコさんも3年前に亡くなりました。いまの課題は健康と介護です。
蜂谷喜禄さん、一緒に来た妻は13年前に亡くなりました。子どもたち4人が日本に。孫は7人、ひ孫は2人です。週6回デイサービス、訪問看護のサービスも受けています。
鈴木芳子さんが山形市の支援相談員として支えます。

鈴木芳子さん「喜禄さんみたいに楽しく行っている孤児は少なくて、 体験しても言葉が通じなくてやめた人がいます。 言葉の壁が大きくて一歩踏み出すのに勇気が必要」

笹原堅さんは「県中国帰国者センター」の支援相談員として、週2回、帰国者の相談に応じています。この日は奥山桂子さんを訪ねました。奥山さんは夫で孤児の真さんと30年以上前に永住帰国。真さんは塗装店で桂子さんは縫製工場で10年以上働きました。真さんは4年前に亡くなりました。

奥山桂子さん「祖父はたった1人の孫娘が日本に連れていかれることを恐れ同意しなかった」「この人とならやっていけると思った」「父は娘の将来を思い同意してくれた」「私は未だに夫のことを懐かしく思っています」
笹原堅さん「残留孤児の一世が亡くなられ二世三世も時間とともに忘れられてしまう」「歴史は誰でももみ消すことはできない」「何もなかったようには決してしてほしくないそれが正直な心情です」

いきいき広場、この日のごちそうはすき焼き。食べやすいように柔らかく煮込みました。
いきいき広場は、これからも孤児と家族が安らげる居場所です。