#2 当時のあらゆる文学潮流に逆らった作品──鴻巣友季子さんと読む、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
鴻巣友季子さんによるマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』読み解き #2
20世紀のロマンス小説として知られる大長編『風と共に去りぬ』。しかし、翻訳家の鴻巣友季子さんによると、原文を精緻に読むと、その本質が「恋愛」ではないことがわかるといいます。
『NHK「100分de名著」ブックス マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ』では、「ヒロインは二人いる」「実はシスターフッド小説である」「養護と扶養という視点で読むと面白い」といった、翻訳を手がけた鴻巣さんだからこそたどり着いた、実に多様な読み方で、当作品を味わっていきます。
2026年7月~9月に開催の「100分de名著」シリーズ・図書カード全員還元キャンペーン対象書籍でもある本書より、「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第2回/全5回)。
第1章──一筋縄ではいかない物語 より
ジャズ・エイジの申し子
『風と共に去りぬ』の登場人物はヒロインのスカーレットをはじめ非常に魅力的です。作者のミッチェルは、読者たちから「この部分はわたしをモデルにしたでしょう?」と何度も言われるのにうんざりして、モデルは一人もいないと断言していたそうです。しかし、小説のテクストをじっくりと読んでいくと、やはりそこには作者自身の人生が深く刻印されていると感じるところがあります。まずはミッチェルの略歴についてお話ししましょう。
マーガレット・ミッチェルは一九〇〇年、アメリカ南部ジョージア州の州都アトランタに生まれました。父ユージン・ミッチェルは弁護士、母メアリー・イザベル(メイベル)は“完璧なレディ”と言われた人で、婦人参政権運動のリーダーを務めるかたわら、つねに慈愛の精神を持ち、一九一七年にアトランタで大火事があったときには率先して人の命を救いました。そして火事の翌年、インフルエンザの流行でも看病に尽力しますが自身も感染し、一九年に亡くなってしまいます。これは、『風と共に去りぬ』において、主人公スカーレットの母エレンが貧乏白人(ホワイト・トラッシュ)を看病して死んでしまう場面に重なります。
マーガレット(愛称ペギー)は幼い頃、両親の留守中にスカートの裾に暖炉の火が燃え移る事故があり、それ以来、半ズボンにシャツを着てキャップをかぶり、近所では男子名の「ジミー」と呼ばれていました。活発な彼女は、男の子たちと一緒に丘に登って戦争ごっこをしたり、野球や乗馬で彼らを負かしたりしていたそうです。
ミッチェルのそんなおてんば気質は、思春期を過ぎて大人になっても変わりませんでした。時は「狂乱の二〇年代(Roaring Twenties)」とも言われる「ジャズ・エイジ」。先行世代とその因習に抗う若者たちが、クラブで乱痴気騒ぎを繰り広げていた時代です。ミッチェルと同世代の南部作家ウィリアム・フォークナーは「酒を飲んでは恥も外聞もなく吐いた」と言いますし、ミッチェルも「名門クラブのテーブルに乗って踊りまくった」り、格式あるホテルで開かれた慈善パーティで男子学生と激しいダンスを披露し、街を騒然とさせたりしていました。ミッチェルは当時の自身のことを、「ジャズ・エイジの申し子であり、ショートカットにミニスカートを穿いた実際家であり、牧師さまに言わせれば、三十になる前に地獄に落ちるか、縛り首になるという小娘」と自嘲気味に手紙に記しています。
そしてミッチェルは、密造酒の売買に手を染めた遊び人べリエン・“レッド”・キナード・アップショーと結婚(彼の名前はレット・バトラーを想起させます)。しかし結婚生活は長く続かず、約三か月で事実上破綻。二五年、長年の友人だったジョン・マーシュと再婚し、ミッチェルは穏やかな生活環境を得て、執筆に向かっていきました。
ミッチェルは一九二二年、地元紙「アトランタ・ジャーナル」に就職し、新聞記事を書き始めます。初めは家庭欄や生活欄の担当になり、物足りない思いをしていたようですが、やがて戦記物の執筆で頭角を現します。講談師さながらの臨場感で、南北戦争の戦士や名将たちの活躍、戦場の現場などを描写したミッチェル。この新聞記者時代に、ものごとに対する洞察眼と、無駄のない文章・文体が培われたと彼女は言っています。
モダニズムに背を向けて
さきほどフォークナーの名前を出しましたが、ミッチェルは、スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイとも同世代です。つまり、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」の作家と完全に同世代なのですが、そう聞くと意外に思う方が多いのではないでしょうか。それは、おそらくミッチェルが大衆文学の作家と捉えられ、純文学的な文学史の系譜に位置づけられることがあまりなかったからだと思います。
ミッチェルは当時のあらゆる文学潮流に逆らって、のちに『風と共に去りぬ』と題される作品を書き始めました。この小説はいかなる政治的メッセージをかかげるものでもなく、純然たるフィクション(物語)だと彼女は述べています。
ここで少し、ミッチェルが小説を書き始めた一九二〇年代の欧米文学界の風景を見渡してみましょう。
この時代に権勢をふるっていたのは「モダニズム」と総称される潮流です。ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストらがその代表で、実験的・個人主義的作風がもてはやされ、その手法の一つとして、作中人物の目と声によってものごとを描写する「内面視点」が大いに導入されました。それまで主流だった、「そのとき彼は○○と言った」というような、全知の語り手が神の視点から物語る文体は、どこか古臭いものと捉えられるようになっていきます。そうではなく、人物の「意識の流れ」を追い、人物の「ボイス」を多声的に響かせるのが、最新のかっこいいスタイルとなっていった。モダニストたちの、旧世代の小説作法から抜け出して新しい文学を創造しようとする気概は苛烈でした。
そうしたなかで、ミッチェルはどうしたのか。エドウィン・グランベリーという評者への手紙(一九三六年七月八日付)に、彼女はこう書いています。
わたしの作品を、第一に、一個の小説であり物語であると評していただきありがとうございます。ジョイス風でも、プルースト風でも、ウルフ風でもない、ということですね。貴殿は、拙作がどんな本であるかを的確に総括なさったばかりか、本の背後にどんな精神があるか、鋭く見抜いていらっしゃいます。わたしは“意識の流れ文学”はどうも読めません。もともと脳神経学者か精神医学者を目指して勉強を始めましたので、人間の心の川の澱(よど)や密林でなにが起きているか実際よく知っておりますし、たっぷり見てまいりました。だからこそ、小説中には書く気になれないのです。
『風と共に去りぬ』の一気呵成に読ませる文体は、アマチュア作家の若書きだと思われてしまいがちですが、この手紙からは、ミッチェルが自覚的にモダニズムに背を向け、高度な文体戦略を持ってこの作品を書き上げたことがうかがえます。実際、彼女はリライト魔だったようで、七十回ほど書きなおしたパートもあると言われているのです。それほど文章自体の精度を高めることに力を注いでいたということでしょう。
新たなアメリカ南部像の創出
さらにミッチェルは、同世代のロスト・ジェネレーション作家のように書くつもりもありませんでした。一度、当時流行りだったジャズ・エイジ小説(短編)を書き始めたことはあるのですが、酒とパーティに明け暮れるジャズ小説の世界が自分の一人目の夫を思い出させたこともあり、この手の小説はフィッツジェラルドに任せておけばいいと考えるに至り、ジャズ・エイジにも背を向けることになります。
結局、ミッチェルは南部のプランテーションを舞台にした小説を書くことにします。しかし、伝統的な南部小説──南部を称揚するために書かれた、貴族然とした白人富裕層が恋をしたり、英雄的な活躍をしたりする一方で、マグノリアの花が揺れ、そこに気のいい黒人奴隷が出てきてバンジョーを弾いたりする物語──を書くつもりは、彼女にはまったくありませんでした。
彼女が舞台に選んだのは、「ディープ・サウス」と呼ばれるジョージア州北部にあたる内陸の土地でした。南部の中でも早くから入植が進み、文化が洗練されていた沿岸部とは違って、開発されてまもない、素朴で垢抜けない農園の暮らしをあえて選び、「新しい南部像」を創出しようと決意したのです。
「新しい南部像」を描くにあたってミッチェルが活用した資料の一つは、南北戦争後に盛んに出版された、南部婦人の手記や体験記でした。そこには生活の細部が詳らかにされており、なかには小説仕立てのものもありました。その生々しい描写が、ミッチェルにさまざまな着想を与えたように思います。
もう一つのインスピレーションの源は、意外なことに、同世代の作家たちが必死で手を切ろうとしていたイギリス十九世紀のヴィクトリア朝文学だったのです。ミッチェルは幼い頃から、母メイベルにイギリスの名作を読むよう、うるさく言われていました。一作読むごとにおこづかいがもらえ、読まないと室内履き(スリッパ)で叩かれたといいます。このときの読書体験を創作に活かしたのです。
ミッチェルの小説執筆の背景として、もう一つ、この厳しい母親との関係にも触れておきましょう。メイベルはしつけにうるさく、要求の多い親でした。娘が野球や乗馬で男の子たちを負かすのを喜んだり、新しい時代の強いサバイバーになってほしいと自ら銃の撃ち方をみっちり仕込んだりする一方、幼い頃から娘をお作法教室やバレエレッスンに通わせ、上品な「南部の貴婦人(サザン・ベル)」となるべく、小さなレディとして振る舞うことを強いました。つまり、男性的な面と女性的な面の両方を娘に求めたのです。さらにカトリックの篤い信仰を求め、奉仕の精神と他愛の心を説いた。ミッチェルはやはり、この立派な母親の存在に重圧を感じていたと思います。そして「男であれ。しかして女であれ」と同時に二つの像を求められて分裂し、ジレンマを抱えた。若いころフラッパー娘になったのも、こうしたことへの反動があったからでしょう。
実は、このジレンマは母自身も直面したものだと考えられます。聡明なメイベルは父親の自慢で、学問について父と対等に議論しながらも、良妻賢母になることを強いられました。この矛盾とジレンマはマーガレットに持ち越され、さらにはマーガレットの創造上の“子ども”であるスカーレット・オハラに引き継がれることになります。
『風と共に去りぬ』には、母エレンに対するスカーレットの反発と和解、依存と自立の過程が描かれているとも言えます。それは、ミッチェルが母メイベルに抱いた複雑な感情を映していると言えるでしょう。テクストの深層部分に作者の人生が深く刻印されている一例ではないかと思います。
鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ)
1963年東京都生まれ。翻訳家、文芸評論家。英米圏の同時代作家の紹介と並んで古典名作の新訳にも力を注ぐ。主な訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(新潮文庫)、マーガレット・アトウッド『昏き眼の暗殺者』『誓願』『老いぼれを燃やせ』、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』『わたしたちの担うもの』(文藝春秋)他多数、主な著書に『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』『文学は予言する』(新潮選書)、『翻訳ってなんだろう?』(ちくまプリマ―新書)、『翻訳問答』シリーズ(左右社)、日本ペンクラブ女性作家委員、獄中作家・人権委員。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ 世紀の大ベストセラーの誤解をとく』より抜粋
■本書におけるマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』引用の日本語訳は著者訳(新潮文庫)によります。
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2019年1月に放送された「マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章、読書案内などを収載したものです。

