なぜ天皇ではなく麻生太郎が「愛子さま」の将来を決めるのか…皇位継承を決めるほどの地位を築いた"力の源泉"

■麻生太郎の根っこにある「石炭屋」という矜持
「みんな私を上品だと思ってますよね。どう考えたって、石炭屋が上品なわけないでしょう。石炭屋が上品だったら、あんた、石炭屋なんかやれませんから」
2007年、週刊誌『AERA』の取材で麻生太郎がこぼした言葉である。世間は彼を、吉田茂を祖父に持ち、皇室にまで連なる「華麗なる一族」の御曹司として眺める。だが当人は自分の根っこは政治家でも貴公子でもなく、筑豊の地を掘って財を成した「石炭屋」にあると言ったわけだ。
もちろん、政治家としての親しみやすさを打ち出しただけといえばそれまでかもしれない。だが、実際に麻生という政治家の力の源泉を探ろうとすれば、永田町の論理よりも先に、九州の地の底から湧き出した「金」の流れに目を向けなければならない。そしてその流れはいま、皇位の継承という国の成り立ちにかかわる高みにまで伸びようとしている。
■財の出どころの暗さ
麻生家の歴史は、初代・麻生太吉(1857年〜1933年)に始まる。福岡・飯塚を本拠に石炭を掘り、その利を鉄道、銀行、電力へと広げ、一代で多角的なコンツェルンを築き上げた人物だ。三井、三菱、古河、住友といった中央の大財閥が筑豊の鉱脈に押し寄せるなか、地元から身を起こした麻生は、貝島、安川と並んで「筑豊御三家」と呼ばれる地方財閥へとのし上がった。創業から150年を超える一族である。

筑豊の石炭は、近代日本の骨格そのものを支えた。遠賀川の水運で運び出された石炭は官営八幡製鉄所の高炉を支え、そこで生まれた鉄は軍艦となって、日本を帝国主義の時代へと押し出していく。だが、その富を生み出す労働は過酷をきわめた。納屋制度の下での囲い込み、暴力と低賃金、ガス爆発と隣り合わせの坑道――。戦時には朝鮮人の強制労働も担わされた。麻生が「石炭屋が上品なわけがない」と語ったとき、そこには、財の出どころの暗さを知る者の、醒めた自覚がにじんでいる。
もっとも、初代・太吉は単なる山師ではなかった。晩年の太吉は、むしろ資本が一手に集まりすぎることを強く警戒した人物でもある。農村が飢饉にあえいだ昭和初期、彼は巨大資本の私有を「万悪の源」とまで断じ、欧米流の野放図な資本主義には統制が要ると説いた。地の底から財を成した男が、晩年にはその財の暴走を戒める側へ回る。麻生という家に流れる経済感覚は、思いのほか奥が深い。
■実は政治には淡白だった家系
意外なことに、麻生家はもともと政治に前のめりな一族ではなかった。太吉も、御三家を組んだ安川敬一郎も、経済人としての動き方は突出していた。

1年の多くを東京や大阪で過ごし、政官界の要人や中央財閥と渡り合い、遠賀川の改修や石炭輸送のコスト改善を働きかけて回る。だが、その奔走はどこまでも事業を伸ばし、地元に利を落とすためのもので、政治の表舞台へ自ら踏み込むことには、むしろ及び腰だった。
それでも業界や郷里から推されて議席に就き、国家の権力と関わりながら、本業を太らせ、ついでに地元を潤していく。安川が後の九州工業大学や安川電機の母体を築き、麻生がセメントから教育・医療事業などいまの麻生グループへと手を広げたのも、その流れのなかにある。彼らはまず産業人であり、政治家であることは、その次にすぎなかった。
■運命を変えた弟の遭難
太郎自身も、はじめから政治を志した男ではない。
麻生家には、太郎の弟・次郎がいた。周囲の証言によれば、勉強ができて目立っていたのはむしろ弟のほうで、衆院議員だった父・太賀吉の跡を継いで政治家になるのは次郎だろうと誰もが見ていたという。
長兄の太郎は超然と構え、弟の出来のよさに対しても「いやぁ、あいつはよくできるんだ」と、屈託なく笑っていたらしい。家業を継いで実業家として愉快にやっていく――太郎が思い描いていたのは、案外そんな人生だったのかもしれない。
ところが、その次郎が早世する。大学のヨット競技の最中、三浦半島の沖でしけに巻き込まれ、海に消えたのだ。弟の死が、太郎の運命を決定づけた。気楽な跡取りで終わるはずだった長兄が、いつしか家を、やがては政治の重みまでを、一身に背負わされる。麻生太郎の数奇は、この一点から静かに始まったといってよい。
■吉田茂ゆずりのべらんめえ
若き日の太郎は、いかにも貴公子然としていた。上流階級のスポーツであったクレー射撃に熱中し、運転手付きのロールスロイスで練習場へ乗りつける。当時も今も、そんな射手は彼ただ一人だったと旧友は語る。福岡の実家の敷地には自前の射撃場があり、屋敷には白い手袋をはめた執事が「ぼっちゃま、お帰りなさいませ」と出迎えた。1976年には、クレー射撃の選手としてモントリオール五輪に出場している。
だが、その当人の口から飛び出すのは、母・和子ゆずりのべらんめえ調だった。吉田茂の三女である和子は、紋付き姿でジープを乗り回したという豪傑で、太郎の歯に衣着せぬ物言いは、この母から受け継いだものらしい。だが、その荒っぽい外面は、近づいた者の前ではあっさり溶ける。人懐こく、気さくで、相手の懐へすっと入ってくる。永田町で「半径2メートルの男」と評されるゆえんだ。華麗な血筋、伝法な口跡、そして間近で効く愛嬌。この入り組んだ落差こそが、麻生太郎という人物の地金である。
ところが、32歳で麻生セメントの代表取締役に就いた太郎を待っていたのは、華やかさとは無縁の修羅場だった。石炭から石油へのエネルギー転換のなか、炭鉱は次々と灯を消していく。3000人を超える「ヤマの男」たちを職場から去らせる非情を、彼は若くして引き受けた。
経営の現実を、彼は理屈ではなく、現場の血で覚えたのである。麻生はやがて戦後最長の財務大臣として長く国の財布を握り、数字に厳しく、放漫な財政を嫌った。その手堅さは、永田町仕込みではない。閉山の現場で刻まれたものだったのだろう。
■華麗なる一族を生んだ装置
麻生家の財は、やがて壮大な「閨閥」の中心に据えられていく。母方の祖父は吉田茂。妹の信子は三笠宮寛仁親王に嫁ぎ、一族は皇室にまで連なった。政・財・官、そして「名誉」の象徴たる皇族までを重層的に結ぶ、日本屈指の閨閥である。
その縁戚の網は歴代の宰相にとどまらず、日本を代表する企業の創業家から、はては昭和天皇にまで届いた。そして、この壮麗な網を底で支えていたのは、ほかでもない筑豊の石炭が生んだ財である。政の権力と財界の富とを幾重にも縫い合わせる結び目に、麻生家の金が確かに座っていた。
こうした閨閥には、かつて別の顔があったとしばしば指摘される。家柄を問わず、試験を勝ち抜いた俊英を婿に取り込む――閨閥は、いわば実力者を体制の内側へ吸い上げる装置でもあり、地方の貧しい秀才にも、名家へ婿入りして栄達する道は開かれていた。
その典型が、ほかならぬ麻生の祖父・吉田茂である。土佐の自由民権家の家に五男として生まれた吉田は、横浜の貿易商の養子から身を起こし、東京帝大を出て外交官の道へ進んだ。そして、明治の元勲・大久保利通の血を引く牧野伸顕の娘を妻に迎えることで、名門の中枢へと食い込み、宰相にまで上りつめる。絵に描いたような立志伝である。その吉田が、自らの娘を筑豊の炭鉱財閥・麻生家へ嫁がせた。麻生太郎の母、和子だ。

■一政治家が皇室に口を出す
ところが見合いが廃れ、外から優れた人材を迎える回路が細るにつれ、閨閥に残ったのは、わが子に家を継がせるだけの仕組みだった。閨閥は、立身出世の舞台から、ただの世襲の器へと変わっていった。
閨閥が世襲の器に変じたその先で、かつて「名誉」の象徴にすぎなかった皇室との縁もまた、別の意味を帯びはじめたのが令和の今だ。
皇族数の確保をめぐる皇室典範の改正で、麻生は「皇室にもっとも近い政治家」として、継承ルールづくりの中心に座った。実妹・信子妃を介した皇室との縁戚が、こんどは制度そのものを動かす足場になっているのである。
彼は旧宮家の男系男子を養子として皇籍に復帰させる案に強くこだわり、世論で高まる「愛子天皇」待望論とは一線を画してきた。野党は養子案を「事実上の世襲貴族をつくるものだ」と批判するが、閨閥を体現してきた当人が、新たな世襲の身分を設計する側に回っているという構図は、いかにも示唆的だ。皇室まで自らの差配のうちに収めようとしているのではと見る向きもある。
もっとも、その手の伸ばし方を、批判だけで片付けるわけにもいかない。背景には現実の継承危機がある。現行法では若い世代で皇位を継ぎうるのは悠仁さまだけであり、皇族数の先細りが公務の維持すら危うくしているのは事実だ。

■地の底から始まり、「天」に近づいた
麻生の側にも、養子案を推す複数の党の期待を背負い、男系の継承を守るのだという明確な論理がある。皇室典範の改正そのものも、いまなお国会で進行中である。それでもなお、一炭鉱から起こった一家の当主が、これほどの力を握るに至ったという事実は動かない。
麻生太郎はこの国で力がどこから生まれるのかを象徴する存在である。彼を彼たらしめているのは、世間が見たがる吉田茂ゆずりの上品な血ではない。炭鉱を閉じ、人を切り、それでも財を守り抜いてきた「石炭屋の矜持」にこそ、彼の力の源泉がある。そして、地の底から始まった財は、いま「天」にもっとも近い場所にまで届こうとしている。
「どう考えたって、石炭屋が上品なわけないでしょう」
その一言は、おそらくは彼なりの、ささやかな矜持の表明だったのだろう。少なくとも当時は。
参考文献
吉田司「(現代の肖像)外務大臣 麻生太郎 今こそ首相と決別し「石炭屋の流儀」見せよ」『AERA』2007年7月16日号
河野敬一「近代筑豊地域の形成と地方財閥の動向」『日本地理学会発表要旨集 2014』日本地理学会
毎日新聞「特集ワイド:麻生太郎新幹事長って? ワンマンの血筋、頭下げられる?」2007年8月28日夕刊
週刊朝日「日本の大閨閥 戦後の首相32人のうち、17人がこの“閨閥”から出ている」2010年9月10日号
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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)
