晩餐会前に記念撮影に臨まれる皇后さま(17日午後7時36分、アムステルダムで)=富永健太郎撮影

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 国賓としてオランダを公式訪問中の天皇、皇后両陛下は17日(日本時間18日)、国王夫妻が主催する晩餐(ばんさん)会に出席された。

 青地に金で花模様が描かれたドレスをお召しになった皇后さまの頭上にはティアラが輝いていた。皇后さまがお召しになってきたティアラの歴史を振り返る。(デジタル編集部 栗谷川奈々子)

第三のティアラ

 天皇陛下の即位後、皇后さまが着用されてきたのは、中央に大粒のダイヤモンドがきらめく通称「皇后の第一ティアラ」か、菊の花を象った「第二ティアラ」と呼ばれるものだった。オランダの晩餐会では、このどちらかをお召しになると考えていたが、今回皇后さまがお召しになったのは第三のティアラ。これは、上皇后さまが2005年にノルウェーの王宮晩餐会、07年にスウェーデンのウプサラ城で開かれた晩餐会などでお召しになったのと同じティアラのように見える。

第一ティアラはドイツ製

 ここで、皇室のティアラの歴史を繙(ひもと)いてみたい。「皇后の第一ティアラ」は、皇后さまが正装のローブデコルテに合わせて着用され、天皇陛下の即位に伴う一連の行事や新年祝賀の儀など重要な儀式の際にお召しになっている。

 日本の歴史の中で、皇后がティアラを着用するようになったのは、明治時代、鹿鳴館華やかなりし頃のこと。それまで、いわゆる十二単(じゅうにひとえ)を身にまとっていた皇后が、洋装化を求められ、ティアラは洋服とともに明治宮廷に導入された。

初めての国賓

 皇族の服飾文化に詳しい霞会館記念学習院ミュージアム(東京)の学芸員・長佐古美奈子さんによると、宮廷が西洋化するきっかけになったのは1869年(明治2年)の英国・ビクトリア女王の第二王子の来日だった。明治政府や皇室は初めて外国の王族を国賓として接遇することになり、ベッドやテーブルを香港から買い付け、高級料亭の仕出しでもてなした。長佐古さんは「王子は喜んだが、英国側からは日本がプロトコル(国際儀礼)に通じていないことで苦情が出たようです」と話す。

 そこから宮中の西洋化が加速した。長佐古さんは「西欧に比肩する近代国家になるために見た目を整えること、すなわち洋装化は不可欠だった」という。

 1872年(明治5年)には天皇の洋装礼服が規定され、翌年の御真影の明治天皇は断髪・洋装の姿となる。皇后の洋装化はやや遅れ、1886年(明治19年)から翌年にかけて、宮内大臣を兼ねた時の内閣総理大臣・伊藤博文によって推し進められた。

伊藤博文の改革、外国人は反対

 1886年に伊藤はドイツ・ベルリンの宝石商と裁縫師に宝飾品と大礼服(ドレス)を発注。昭憲皇太后はそれをお召しになり、翌年の新年式に洋装で臨んだ。

 明治期の日独関係を研究している大阪公立大学大学院文学研究科人文学学際研究センター研究員の松居宏枝さんは「伊藤は、明治15年(1882年)からの洋行で目の当たりにしたドイツ宮廷に範をとった」と説明する。モードの先端であったパリやロンドンではなくドイツに発注したのは、官庁・議事堂建築計画や諸法典整備とならぶ「ドイツ化」の一事例と言えるという。

 松居さんによれば、伊藤による「宮中の欧化」は、国内に向けたものというよりも、来日する外国人や欧州社会へのインパクトを狙ったものだった。ところが、在日外国人の中には日本固有の伝統である和装を重んじ、反対する者もいた。その時、伊藤は「わが国の婦人連が日本服で姿を見せると、『人間扱い』にはされないで、まるでおもちゃか飾り人形のように見られるんでね」という言葉を発したそうだ。

どんなティアラだった?

 ドイツで制作されたティアラは一体どんなものだったのか。松居さんの研究によると、ベルリンへ注文された宝飾品の詳細を報じた新聞記事があるという

 明治19年10月16日、ベルリンの『テルトー地域新聞(Teltower Kreisblatt)』によると、日本の皇后のために、宝冠(ティアラ)一つと金剛石のネックレスなどが注文されたと紹介し、ティアラについて「約600個のダイヤモンド、上には九つの特別なダイヤモンド(Solitaire)、中央ダイヤモンドはほぼ21カラットで、それだけで20000マルクの値段である」としている。九つのダイヤは特別な技術でつけられて、簡単に外すことができ、「九つのダイヤモンドの星に換えることが可能である。その星を宝冠に使わない時に、髪飾りやブローチのようなものとしても使うことができる」という。なお、2万マルクは現在の価値に換算すると、およそ1億7920万円と推算される。

九つのダイヤモンドの星

 このティアラを着用しているとみられる昭憲皇太后の御真影を見ると、星形の飾りをつけた状態とつけていない状態の2パターンがあり、ベルリンの新聞記事にあるように、取り外し可能であることがわかる。

 ティアラの歴史に詳しい文化学園大学大学院教授の高木陽子さんによると、ティアラを分解してネックレスやブローチ、ハットピンなどとして使用できる多目的なデザインは、欧米に例があるという。昭憲皇太后のドレスのデコルテを縁取っている星形のブローチは、ティアラから取り外された星かもしれない。

 ティアラは歴代の皇后に受け継がれ、貞明皇后は丸い大粒ダイヤモンドの状態、香淳皇后は星形の飾りをつけた状態と丸いダイヤの状態の御真影が残っているが、近年は星形の飾りは見られなくなっている。霞会館記念学習院ミュージアムの学芸員・長佐古美奈子さんは「戦後は一番格の高いドレスである大礼服を着なくなったので、ティアラもそれに合わせたのではないか」と推測する。

 また、1975年(昭和50年)10月に米国・ワシントンで催された晩餐会に出席した香淳皇后の写真を見ると、星形のものも丸い大粒ダイヤもついていないように見える。この丸いダイヤも取り外しができるのかもしれない。

第二ティアラはミキモト製?

 2024年(令和6年)に英国・ロンドンのバッキンガム宮殿で開かれたチャールズ国王夫妻主催の晩餐会で皇后さまは、菊の花を象った「皇后の第二ティアラ」と呼ばれるものを着用されていた。これは真珠で知られるジュエラー「ミキモト」(東京都中央区)が制作したようだ。

 関連会社ミキモト装身具(東京都江東区)のホームページやミキモトの社史「御木本真珠発明100年史」には、1917年(大正6年)に「皇室公式用御冠調製」「皇后陛下(貞明皇后)の第二公式用ティアラ製作のご用命を拝受」との記載がある。ミキモトに問い合わせると「ホームページや書籍に掲載されていることは事実でございます」との回答があったが、この「第二公式用ティアラ」が通称「第二ティアラ」なのかどうか、詳細はわからなかった。

 社史によれば、ミキモトはその後も親王の婚儀などのタイミングで妃殿下方のティアラや胸飾などを幾度も制作し、近年では秋篠宮家の次女佳子さまが成年を迎えられた際にもティアラの制作を請け負っている。

他にもティアラが…?

 今回のオランダ訪問で皇后様が身につけられた第三のティアラは、秩父宮妃勢津子さまのものではないかという説もあるが、確認できていない。ミキモトの社史によれば、勢津子さまは1928年(昭和3年)のご婚儀の際と、英国の戴冠式ご出席に合わせて1936年(昭和11年)にティアラを制作されているようだ。

 皇后さまはこの他にもティアラを受け継がれている可能性がある。高松宮妃喜久子さまが遺(のこ)されたティアラだ。2005年(平成17年)10月18日付の読売新聞では、前年に亡くなられた喜久子さまが生前「皇太子妃雅子さまと秋篠宮妃紀子さまに使ってほしい」と話されていたティアラ2点が宮内庁に寄贈されたことを報じている。

ティアラの起源は

 文化学園大学大学院教授の高木陽子さんによると、ティアラの起源は古く、紀元前にさかのぼる。古代ギリシャ人は運動競技の勝者に月桂冠(げっけいかん)を贈り、古代ローマ皇帝は月桂樹のティアラを戦争の勝利の象徴として戴(いただ)いた。キリスト教世界となってから廃れたが、皇帝ナポレオン1世が宮廷の女性たちに国家行事でティアラを着用するよう命じ、古代ローマ皇帝末裔(まつえい)のイメージを演出。トレンドセッターであった宮廷から広がり、ティアラは高貴な階級の象徴として女性の頭を飾るようになった。

 高木さんは「ティアラは最も格式の高い行事で着用される特別なジュエリー」とし、「日本初のティアラには、帝国主義の時代に、植民地を求めて東アジアに進出する西洋列強と、いわば平和的な方法で対等な関係を築こうとする歴史が秘められていた」と話す。

 ティアラの形にもトレンドがあるという。「時代に合わせて自然主義やアール・ヌーヴォーなど流行の芸術様式を取り入れ、鋳(い)溶かして同じ宝石で作り直すということがよくあります」。また、欧米ではティアラにも格があり、格式の高い行事には使わないカジュアルなデザインのものもあるそうだ。

歴史の重みと輝き

 明治時代に伊藤博文をはじめとする日本政府と宮廷が国の威信をかけて作ったティアラは、歴代の皇后によって大切に受け継がれてきた。今日まで輝きつづけるダイヤモンドの宝冠に歴史の重みを感じながら、また拝見できる機会を楽しみに待ちたい。