JRT四国放送

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1985年、東京・羽田を出発し大阪へ向かっていた日航ジャンボ機123便が、群馬県の御巣鷹山に墜落、520人が犠牲となりました。

県関係では10人が亡くなったあの事故から、8月12日でちょうど40年です。

阿南市在住で妹を亡くした1人の男性に、今回、初めてお話を聞くことができました。

(能仁正顕さん)
「その飛行機に実際に乗っているとは、思っていなかった」

■1985年 日航ジャンボ機123便が墜落

1985年8月12日、定刻より4分遅れで羽田を飛び立った日本航空123便が突如、消息を絶った。

群馬県御巣鷹山で見つかったその機体は、見るも無残なありさまだった。

乗員・乗客524人を乗せた満席のジャンボ機が墜落。

死者520人、生存者わずか4人という、日本の航空機史上最悪の大惨事だった。

■実家に帰省途中…

当時の那賀川町出身で、東京で暮らす能仁千延子さんはこの日、大阪を経由して実家へ帰省する予定だった。

(記者)
「千延子さんは、東京の大学を卒業後、東京のアパレル会社に就職しました」
「社会人となり、初めてのお盆休みを故郷で過ごそうと乗った飛行機で事故にあいました。当時22歳でした」

「こんにちは。きょうは宜しくお願いします」
「宜しくお願いします」

■兄の能仁正顕さん

千延子さんの兄、能仁正顕さん。

生家の道浄寺で住職を務める傍ら、京都の龍谷大学で教授として仏教を教えている。

■日航機墜落事故から40年

(記者)
「40年が経過しましたが?」

(能仁正顕さん)
「そうですね、もう40年経ったのか、というそういう思いと、早かったなという思い両方です」

当時、27歳だった正顕さんは、通っていた京都の大学院から一足先に帰省し、千延子さんの帰りを待っていた。

(能仁正顕さん)
「12日に飛行機で帰ってくるというのは聞いていたが、時間まではっきり聞いてなかったので、事故があったことを聞いたとき、実際に乗っているとは思っていなかった」

消えた123便は、夜になっても見つからなかった。

そして、捜索が難航する中、発表された乗客名簿に、無情にも千延子さんの名前があった。

一夜明け、生存者数名との情報が日本中を駆け巡った。

家族はみな、わずかな可能性に望みをかけた。

「心の中では奇跡が起こることを祈っている、念じている」

■奇跡は起こらず

しかし、奇跡は起きなかった。

4人の生存者の中に千延子さんはいなかった。

まだ22歳、人生の喜びを知る前に、その若い命は、巨大な機体とともに御巣鷹の山へと消えた。

(能仁正顕さん)
「どうしてこんな事故が起こるのかとか、もう少し救助活動が早ければ、もっとたくさんの救われた命もあったと思うが」
「しかし、実際現場は険しいところで簡単に行ける場所ではない。4人助かったということは、飛行機事故の中で珍しいことだと思う」

柔らかな笑顔が今も甦る。

(能仁正顕さん)
「助かった命の中に、出来れば妹も含まれてほしかったですけどね」
「今でいうボーイッシュな妹だった。(40年間1日も)記憶から無くなるということはない」

(記者)
「千延子さんの分まで生きようと思うか?」

( 能仁正顕さん)
「生きられる訳ではないが、無駄にはしないようにしたい」

■10年ぶりの文集集

あの日から40年、遺族会は今年、亡き家族へ向けた手記を集めた文集を10年ぶりに出版した。

( 能仁正顕さん)
「安全というのは、決して人から与えられるものではない。自然に(安全が)あるわけでもない」
「(飛行機の操縦は)人間がやっていることですから、事故は起こるので、事故が起こらないように何ができるのかということを、歴史や過去から知ってほしい」

■自分にできることを模索した40年

多くの命が一瞬にして失われた、日本航空機史上最悪の悲劇。

しかし、当然ながら犠牲となった520人ひとりひとりに日常があり友人があり、かけがえのない家族があった。

その家族を突如として奪われた正顕さんは、自分にできることを懸命に探しながら、この40年を生きてきた。

そんな正顕さんを支えたのは、出会った多くの人々の励ましだったという。

悲劇を二度と繰り返さないために。

思いは未来へと受け継がれてゆく。

日航123便は、東京発・大阪行きだったんですが、この日は8月12日、阿波踊りの初日にあたっていて、東京から徳島への直行便を取れなかった人がこの便に乗っていて、10人もの県関係者が犠牲になったということです。