「老後働かなくても豊かに暮らせる」社会はもうあきらめなければいけない「高齢ニッポンの現実」
年収は300万円以下、本当に稼ぐべきは月10万円、50代で仕事の意義を見失う、60代管理職はごく少数、70歳男性の就業率は45%――。
10万部突破のベストセラー『ほんとうの定年後』では、多数の統計データや事例から知られざる「定年後の実態」を明らかにしている。
「生活に身近な仕事」がますます大切に
少子高齢化が進む日本において、財やサービスの純粋消費者が増えて、生産者が不足していく構造は将来においてますます深刻化していくことになる。このような状況を放置すると、日本社会はどうなってしまうのだろうか。
この問題を考えるとき、特に重要になってくるのは地域の観点である。これからはますます多くの地域で高齢者が増加し、若者が減少していく。労働供給制約社会は、都市より高齢化が著しい地方で先に顕在化していくだろう。実際に、すでにいくつかの市町村では生活に必要なインフラが行き届かなくなる事態が発生している。
地域の生産者が不足すると何が困るのか。高度専門職がいなくなり、地域経済の高度化が進まないことが問題になるのか。それともオフィスワーカーがいなくなってしまうことで、企業が立ち行かなくなってしまうことが問題になるのだろうか。
おそらく最も大きな問題は、それよりももっと基礎的で生活に根差したサービスが提供されなくなることにあるのではないかと私は考えている。
工場などで生産される財に関しては、自身の住む地域で生産がなされていなくても、海外からの輸入を含め、他地域で生産されたものを購入すれば、それで事が足りる。また、仮に情報技術関連の職種に就く人が自身が居住する地域にいなくなってしまっても、都心の労働者が行う仕事によって、消費者はいつでもどこでもそのサービスを享受できる。こうした仕事に関しては、年金などを通じて金銭さえ十分に地域に行き届かせられれば、事態は解決すると考えられるのである。
一方で、私たちの生活に密着した多くの仕事に関してはそうはいかないだろう。コンビニエンスストアなどにおける販売の仕事、飲食店の調理や接客の仕事、ドライバーや配達員の仕事、介護や建設の仕事などについては、その地域にサービスの提供者がいないとサービス自体が成り立たなくなる。農業など都市からの輸入に頼ることが難しい財に関しても、地域経済に必要不可欠な仕事の一つである。
仮にある地方でこうした生活に必要不可欠な仕事をする人たちがいなくなってしまったとき、何が起こるか。東京など国内の大都市や海外から人員を輸入することはできない。結局、生産者が足りなくなった地域では、サービスの提供の一部を諦めなくてはならなくなってしまうのである。
日々の生活の基礎的な仕事に従事する人がいなくなってしまえば、地域は立ち行かない。そのように考えれば、これからの時代、日本社会にとって本当に必要な仕事が何かが見えてくるのではないか。私たちは身近な仕事の重要性に立ち返る必要があるのではないかと考えるのである。
『ほんとうの定年後』第1部と第2部で分析を行った「定年後の仕事」を振り返ると、定年後の就業者が従事している仕事は多くが生活に密着した小さな仕事であった。これからの日本の経済社会を見渡せば、地域に根差した仕事であればあるほど、生活に密着した仕事であればあるほど、価値ある仕事になるのではないかと私は考える。
ここまで解説してきた通り、多くの定年後の就業者は、たとえ目の前の仕事が小さなものであっても、仕事を通じて、社会に対してできる限りの貢献をしようと考えながら働いている。そして、彼らの仕事の多くは実際に地域住人にとって必要不可欠な仕事になっている。
だから、まさにこのような働き方を、一年でも長く、そして一人でも多くの人に広げていくことが、これからの日本の経済社会にとって極めて重要になってくるのである。
働き手が急速に減少するこれからの日本社会において、働かなくても豊かに暮らせる社会は早晩諦めなければならなくなる。しかし、これは必ずしも現役時代の働き方を永遠に続ける必要があるということを示しているわけではない。
日本社会が今後目指すべきは、地域に根差した小さな仕事で働き続けることで、自身の老後の豊かな生活の実現と社会への貢献を無理なく両立できる社会である。
身体的に働くことが不可能な人を除く多くの人が、定年後の幸せな生活と両立できる「小さな仕事」に従事することで、日本社会は救われるのである。
生産者に主権を移し、良質な仕事を生み出す
現役時代の長く続く仕事を終えた後、自身のその時々の状態にあった無理のない仕事に誰しもが巡り合うことができる。
そのような市場環境を整えることが、高齢期の生活費を賄うために膨大な貯蓄をしなければならないという懸案であるとか、いつまでも第一線で働き続けなければならないという終わりのないキャリアに対する焦燥感であるとか、そうした現代人が抱える多くの不安からの解放にもつながるのではないだろうか。
実際に生活に密着した小さな仕事を通じて、高齢期に豊かに働いている人たちの事例を私は数多く知っている。
しかし、世の中にあるすべての仕事が本当に労働者のための仕事になっているのかと考えると、それもまた事実とは異なるところがあるのではないか。定年後も働き続ける社会を私たちが志向するのだとすれば、そこには満たさなければならない条件が存在するのである。
幸せな定年後の働き方と対極にあるのはどういった働き方か。それは、歳を取っても生活費を稼ぐために、質の低い仕事で働き続けなければならない姿ではないだろうか。生涯現役社会を目指すのであれば、そのような労働環境を決して許してはならない。
定年後に誰もが幸せに働き続けられるためには、一つひとつの仕事の質を高めていかなければならない。そのためには、日本の労働市場にある仕事を消費者や経営者のための仕事ではなく、働き手のためのものに変えていく必要があるだろう。
本来は、働き手である生産者と消費者は対等な関係である。財やサービスを生産してくれる人がいないと、消費者はこれらを消費することはできない。働いてくれる人がいるからこそ、一人ひとりの消費者は豊かな消費生活を送ることができる。
一方で、消費者がいないと働き手が従事する仕事は成り立たなくなることも事実である。必要な需要がなくなってしまえば、働き手が生活のための金銭を受け取ることができなくなる。このようにして生産者と消費者の両者が存在するからこそ、日々の経済活動は成り立っている。
しかし、生産者と消費者との力関係はその時々の経済環境に依存して変化する。
過去、働き手が余っていた時代においては、消費者は強い力を持っていた。失業率が高い状態にあることを前提にすれば、消費者がより多くのモノやサービスを欲してくれることは好ましい。消費者の欲求によって必要な仕事が作り出されることで、労働市場にあふれている余剰人員を就業させることができるからである。こうした状況下にあっては、有効需要を創造し、雇用を増やしていくことが何より重要視される。
しかし、翻って現代の日本の労働市場を俯瞰してみると、急速に進む少子高齢化のなかで純粋消費者が増え、むしろ働き手が足りない状況に陥ってしまっている様子が明確に見て取れる。消費者が強い経済構造にあった時代は既に過去のものとなっており、ここ10年ほどで日本経済の構造は大きく変化しているのである。
純粋消費者が増えて働き手が足りなくなる現代の日本社会においては、生産者と消費者の関係は必然的に変わってくるだろう。つまり、消費者が過剰に存在していて生産者が足りない労働供給制約社会においては、主権は生産者に移るはずなのだ。
働き手に気持ちよく仕事をしてもらえる環境をいかにして作り上げるか。また、その結果として、いかにして多くの人に働いてもらえるか。日本に住むすべての消費者にとって、こうした考え方はこれからますます大切になっていくだろう。
より多くの人に無理なく労働参加をしてもらうためには、労働市場にあるあらゆる仕事を、働き手にとって良質な仕事に変えていかなければならない。長時間労働が必要とされる仕事や、身体的な負荷が高い仕事、働いても働いても稼げない低賃金の仕事など「質が低い仕事」を日本社会から一掃していく必要がある。そして、短時間で無理なく働ける仕事、賃金水準が高い仕事など「質が高い仕事」を増やしていかなければいけない。
労働市場に存在しているあらゆる仕事を無理なく働けて、かつ正当な対価を得られる仕事にできて初めて、高齢期に誰もが安心して働ける社会を実現することができるのである。
つづく「多くの人が意外と知らない、ここへきて日本経済に起きていた「大変化」の正体」では、失われた30年を経て日本経済はどう激変したのか、人手不足が何をもたらしているのか、深く掘り下げる。