拡大する「子どもの体験格差」を解消するのに欠かせない「大人たち」の存在

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習い事や家族旅行は贅沢?子どもたちから何が奪われているのか?

低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」、人気の水泳と音楽で生じる格差、近所のお祭りにすら格差がある……いまの日本社会にはどのような「体験格差」の現実があり、解消するために何ができるのか。

発売たちまち6刷が決まった話題書『体験格差』では、日本初の全国調査からこの社会で連鎖する「もうひとつの貧困」の実態に迫る。

*本記事は今井悠介『体験格差』から抜粋・再編集したものです。

小さな担い手たち

子どもの体験格差に抗い、是正するための5つの提案を見てきた。その提案はすべて「社会」に対して向けられたものだ。

だが重要なことに、最終的に現場で子どもに「体験」を提供するのは一人ひとりのコーチであり、講師であり、指導者である。つまり、大人たちだ。親子や家族という関係性ではない大人たちが、同じ社会で暮らす子どもたちに「体験」を伝える。かれらがいなければ、体験格差を是正しようとする社会的な試みはほとんど意味をなさないだろう。

例えば、ドイツでは日本のNPOに似たフェアアイン(Verein)と呼ばれる主に非営利の組織が60万以上も存在し、子どもたちの「体験」のあり方にも深く関わっている。

フェアアインとは、同じ趣味や目的を持つ市民たち自身が団体をつくり、その活動を行政も助成金や税制といった資金面などからバックアップするような仕組みだ。教育学者の藤井基貴氏によると、こうした政府と市民との関係性は「補完性の原理」に根ざしているという。

サッカーのフェアアイン、釣りのフェアアイン、音楽のフェアアインと、多種多様なフェアアインが存在し、複数のスポーツができるようなフェアアインもある。一人が複数のフェアアインに参加することも少なくないという。なお、ドイツのプロサッカーではハンブルガーSVなど名前に「SV」とついているクラブも少なくないが、これもシュポルト・フェアアイン(スポーツのフェアアイン)を略したものだ。

ドイツの人口は8000万人台で日本より少ないが、60万以上というフェアアインの数は、日本のNPO法人の総数である5万に比べてかなり多い。なお、総務省による経済センサスでは、スポーツや音楽、書道などを含む「教養・技能教授業」の事業所数が7万強となっている(このうち、従業者数一人の事業所が半数以上、一〜四人以下の事業所が8割以上を占める)。

いずれにせよ、ドイツと日本とを比べると、ドイツではより多くの非営利組織が、そして地域の多くの大人たちが、子どもたちの「体験」に関わっていそうだ。

もちろん、日本にもこうした「小さな担い手」と呼べるような人々がいないわけではない。地域で「体験」の機会を提供する小規模な事業者の中には、事業の継続や利益だけを求めるのではなく、社会への貢献や多様な子どもたちのサポートを志向する方々が確かに存在する。

自身が生まれ育った東京都墨田区で10年ほど前から「る・みゅう音楽教室」を運営し、ピアノとオーボエを教えている加古文子さんがその一人だ。

彼女自身、二人の子どもを育ててきたシングルマザーでもある。自らの子どもたちの発達障害や不登校に悩んだ経験、経済的な厳しさゆえに子どもに音楽を習わせるのを断念せざるを得なかった経験などから、「誰もが心地よく通える教室を」との願いを込めて音楽教室を開いたという。そのため、月謝は5000円に抑えている。

うちみたいに暴れちゃう子や小さい子がいても通いやすい教室があればいいなと思ったんですよね。それで、自分で実現してみようかなと。だからうちの教室は、妊婦さんでも赤ちゃんでも、元気のいい子でもおとなしい子でも、どんな子でも心地よく通える場所になればいいなと思って。

そう話す加古さんの教室には、ピアノを弾く部屋とは別に、子どもたちが自由におもちゃで遊んだり、保護者がソファでくつろいだりできる部屋も設けられている。加古さんはここで音楽を教えるにとどまらず、子どもたちから悩みを聞いたり、親たちからの子育ての相談にも乗ったりしているという。

加古さんのような存在は、子どもの福祉や格差解消という視点からは少し見えにくい。どうしても行政やNPO、ボランティアなどに目が行ってしまいがちだ。

しかし、現実には、子どもたちにとって、保護者たちにとって、加古さんのような存在が助けになっている事例と数多く出会ってきた。わかりやすい「支援」の文脈にはつながっていないが、実際は地域の小さな「体験」の場で色々な形で支えられているという人々は数えきれないほどいるはずだ。

非営利のフェアアインに近い社会的なモチベーションで事業に取り組んできた人々はほかにもたくさんいる。例えば、沖縄県那覇市で空手教室「究道館 緑川道場」を営む緑川徹也さんを紹介したい。

緑川さんは本業の映像制作業の傍ら、毎週土曜日に夫婦で空手道場を開き、子どもたちに沖縄空手の指導をしている。月謝は3000円。教室に通う子どもの中には、家庭に複雑な事情を抱えている場合もある。

「僕は自分のことを、子どもたちをわが子のように見守る"近所のおっちゃん"のような存在だと思っている」と話す緑川さんは、「どんな子であっても分け隔てなく接する」こと、そして「決して距離感を空けすぎず必要なところで手を差し伸べる」ことを大切にしているそうだ。生徒たちの送迎を手伝ったり、LINEで親や子どもからの悩み相談に応じたりもしている。

加古さんはフルタイムでピアノ教室を運営しているが、緑川さんのように別の本業を持ちつつ「体験」の場を副業的に営む人々もいる。かれらのような人たちが、日本中の様々な地域に、きっといるはずだ。読者の中にも、自分が暮らす地域の「加古さん」や「緑川さん」が思い浮かぶという人が多くいるだろう。

自分の暮らす地域で

しかし、重要なことに、「る・みゅう音楽教室」や「緑川道場」のような場はおそらく全国的に減少傾向にある。総務省統計局の調査によると、「教養・技能教授業」の事業所数が軒並み減少していることが推察できる(単純計算で、2001年から2022年にかけて全体でおよそ17%減)。

すべての子どもたちに分け隔てなく「体験」の機会を届けようとする社会にとって、この状況は逆風と言っていいだろう。いわゆる「部活の地域移行」を含めて、これまで学校が担ってきた機能を地域へ受け渡していくような動きもある中では、学校にさらなる役割を期待するのも現実的でない。

だとすれば、私たちにはそれぞれの街で、地域で、子どもたちに豊かな「体験」の場を提供する人々がこれまで以上に必要であり、加古さんや緑川さんのような「小さな担い手」たちを社会として支え、かれらと低所得家庭の子どもたちを結びつける方法を模索する必要がある。

ここで先ほどの5つの提案を再び思い起こしてほしい。そこには「体験」の費用を子どもに対して補助することや、「体験」と子どもをつなぐ支援の拡大などが含まれていた。あるいは、様々な「体験」の場をより安全にするための取り組み、公共施設の活用も含まれていた。これらは地域で「体験」を担おうとする大人たちを直接的、あるいは間接的に支えるだろう。もちろん、ピアノや空手がしたい子どもたちのことも支えるだろう。

例えば、緑川さんが空手教室の月謝を低所得家庭の子ども全員に対してまったくの無料にすることは難しいし、持続可能でもない。しかし、子どもたちが利用できるクーポンなどの仕組みをつくり、その対象に「緑川道場」が含まれていれば、個人ではなく社会として、子どもたちの「体験」を支えることができる。あるいは、別の大人が自分の得意や経験を活かしながら緑川さんのような活動を新たに始めることも容易になるだろう。

そして、地域の様々な教室やクラブにつながるコーディネーターがいれば、その子の気持ちに寄り添いながら、より相性の良い「体験」の場とつなぐことができる。何かを「体験」する中で、子どもにもっとやりたいものが見つかれば、別の「体験」を提案することもできる。

最後に、少しでも具体的なイメージを持ってもらえるように、私たちチャンス・フォー・チルドレンが東京都墨田区の周辺で始めた取り組みを紹介したい。

私たちは、一方では墨田区やその近辺に存在する「体験」の場を一つずつ探し、お話を伺い、理念に共感いただけた場合は協働を提案してきた。地域を歩き回るたびに、新たな「加古さん」や「緑川さん」との出会いがあった。ネット検索では出会えないことも多かった。口コミを頼りに新たなつながりを得る、それこそがローカルの現実ではないかと思う。

もう一方では地域の学校や福祉関係者の方々と連携しながら、低所得家庭の小学生たちにつながり、体験に利用できる奨学金(クーポン)を提供してきた。そして、個々の子どもの希望に沿って、ある子はキャンプや野外活動へ、ある子は絵画教室へ、ある子はスポーツ教室へと参加できるようになった。

こうして、墨田区では私たち自身がコーディネーターの役割を担い、地域にある資源を探し出し、それを必要とする子どもたちへとつなぎ始めたところだ。重要なのは、このように人、お金、情報がめぐる豊かなエコシステムを、それぞれの地域ごとに時間をかけて育てていくことではないだろうか。何もせずに放っておけば、かつてあった環境はゆっくりと、あるいは急速に失われていくかもしれない。だからこそ、できるだけ早めに手を打ち、体験格差に抗える地域づくりを始める必要がある。

私がこれまで日本中の様々な地域で出会ってきた「小さな担い手」の方々には、子どもたちに「体験」の機会を届けたい、楽しさを伝えたい、「体験」を通じて人生の中で大切な何かを手にしてほしい、そんな思いが共通していた。多様な子どもたちの個性や特性が尊重される社会のためにこそ、できるだけ多様な大人が子どもの「体験」に関わり、自分の好きなことや得意なことを伝えていくことが大切だ。

すべての子どもにとって「体験」は必需品であり、贅沢品ではない。だからこそ、体験格差は子ども自身や親、家庭の力へと放置されるべきではなく、社会全体で抗う必要がある。私たちには、それぞれが一人の大人として、自分の暮らす地域の中で、体験格差に小さく抗うこともできる。「体験」を担っていくことができる。そんな社会も、きっとつくれるはずだ。

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