世界的にも珍しい…日本に「天皇が命じて作らせた歌集」があることの「スゴさ」

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「和歌」と聞くと、どことなく自分と縁遠い存在だと感じてしまう人もいるかもしれません。

しかし、和歌はミュージカルにおける歌のような存在。何度か読み、うたってみて、和歌を「体に染み込ませ」ていくと、それまで無味乾燥だと感じていた古典文学が、彩り豊かなキラキラとした世界に変わりうる……能楽師の安田登氏はそんなふうに言います。

安田氏の新著『「うた」で読む日本のすごい古典』から、そんな「和歌のマジック」についてご紹介していきます(第四回)。

『“狩猟”も“農耕”も“恋愛”も『歌』がカギだった…科学が明らかにした、人類の存続と『歌』の意外な関係性』より続く

意外と知らない、凄さ

日本は和歌の国である。

……なんて書くと安っぽいキャッチコピーのようにも聞こえますが、そんなことはありません。

だって不思議に思ったことはありませんか。

日本には「勅撰和歌集」という、天皇・上皇の勅命によって編纂された歌集があるのです。天皇・上皇ですよ。国家事業ですよ。歌集ですよ。

こんな国は、なかなかありません。

あ、申し遅れましたが、私は安田登と申しまして能楽師をしております。本書では短歌についてお話をしていきますが、能楽師ですから思いっきり偏っています。そこら辺はどうぞご寛恕のほど、よろしくお願いいたします。

さて、まず「歌のすごさ」についてお話ししたいと思います。

歌の「すごさ」だなんて、読者の皆さまからは「なんて語彙力がないんだ」と笑われてしまうかもしれません。しかし、詩劇である能の中の登場人物も、すぐに「もの凄の」とか「凄じき」なんて言いますし、「不思議やな」などはひとつの演目の中で何度も何度も言ったりします。

本当にすごいときには、もうすごいとしか言いようがないのです。

話を戻しましょう。日本には王(天皇)みずからが命じて作らせた歌集がありますが、ほかの国はどうでしょう。

史書より和歌集

ホメーロスやサッフォー、あるいはウェルギリウスやダンテなどの詩人を生んだギリシャやローマは、「国」という概念が我が国とは少し異なります。そこで、それは次回以降に扱うことにして、お隣の中国を見てみることにしましょう。

中国といえば「正史」、歴史書の国です。

前漢に書かれた司馬遷の『史記』から始まり、『明史』までの24史と呼ばれる歴史書の編纂が、皇帝の命令によって行われました。はなはだ浩瀚、まことに壮大なる国家事業です。しかし、詩集となると、唐代の『文館詞林』と『御覧詩』に至るまで勅撰のものはありません。

これは中国の人たちが詩、すなわち韻文を軽視していたということではありません。中国も詩をとても大切にする国です。

周の時代には経典としての詩集、『詩経』も編まれ、孔子は自分の弟子たちにそれを学ぶことを勧めました。また屈原の『楚辞』などの幻想詩文集もありますし、杜甫や李白などの天才詩人も生みました。それなのに、歴史書の編纂に比べれば、詩の編纂は国家の事業としては、ほとんど顧みられることがなかったのです。

日本にも正史の事業はありました。しかし、『日本書紀』から始まった正史編纂事業は、平安時代、仁和3年(887年)の『日本三代実録』が最後となり、それ以降は天皇・上皇の手を離れて、武士政権による独自の史書に代わってしまいます。

権力の中心が変わったから仕方ないといえばそれまでですが、それでも勅撰和歌集は、武家政権に変わっても天皇・上皇の命によって引き続き行われ、永享11年(1439年)成立の『新続古今和歌集』まで続いたのです。

これってすごいでしょ。

『「樹木の心を動かし、精霊をも成仏させる」…昔の人々が信じた、和歌の持つ『特別な力』について知っていますか?』(10月26日公開)へ続きます。

樹木の心を動かし、精霊を成仏させる…昔の人々が信じた、和歌の持つ「特別な力」を知っていますか?