芸大でもないのに…難関私大・早稲田はなぜ「文化の中心地」になったのか、「異色の映画」から考える

写真拡大 (全3枚)

「早稲田人」による映画

早稲田大学の企画・製作によって早稲田の地で撮られた、早稲田人の映画が、ここににわかに誕生した。創設者・大隈重信の伝記映画でもなければ、大学史の栄光のアンソロジーでもない。ただただ風変わりな、不条理な、謎に包まれ、過激でありつつ慎ましくもある、唯一無二の映画である。そして、そのありようこそまさに早稲田の映画そのものとしか言いようのない、たとえようもない緊張感をたたえてもいる。こんな異様な映画は、他のどこの大学でも生み出すことは不可能だろう。

夜――ひとけのない真新しい建物の中。ひとりの若い男性が階段の途中で気を失っている。まもなく彼は目を覚まし、あてどなく建物内をさまよいだす。ここはどこだ? 図書館か、文化会館か? 真夜中の誰もいない館内。若い男性の名は瞬介。演ずるのは、かつて子役として活躍し、今や日本を代表する若手俳優のひとりとなった井之脇海だ。瞬介は館内の真ん中にグランドピアノを見つけ、ためしに鍵盤を弾いてみる。

すると、それが何かの号令となったのか、どこからかともなく複数の男女が湧き出して、彼に話しかけてくる。その中には、瞬介の大学時代の演劇仲間だった貴織(木竜麻生)と行人(大友一生)も含まれる。不思議な始まり方をするこの映画のタイトルは、『ピアニストを待ちながら』。

瞬介「いつからいるの?」

貴織「もうずいぶん経つはずだけど、ぜんぜん夜が明けないから…」

行人「なんか時間の感覚もおかしくなってきてさ。しかるべきタイミングが来たと思うことにした」

貴織「芝居やろうって、言い出したの」

行人「あの時、できなかっただろう? どうせ出られないんだったらさ、せっかくここにいるんだし、チャンスじゃね?」

瞬介「いやいやおかしいって。その発想ない」

行人「でも、瞬介が来たってことは、ますますそうってことじゃん」

「旧四号館」が「知の集積地」に

どうやら彼らは揃いも揃ってこの建物に置き去りにされ、なおかつそこからどうしても出られないようである。いつ終わるとも知れない長い夜。何が彼らを自縄自縛に追い込んでいるのか? 彼らは朝を迎えることをほぼ諦めつつ、そしてこの永遠の夜をやり過ごしつつ、なにかの到来を待っている。一番の古株は絵美さん(澁谷麻美)だ。「私も」「出られないんですか?」。するとさらに、出目さん(斉藤陽一郎)と呼ばれる中年男も近づいてきて、瞬介に君はピアニストなのか?と尋ねてくる。

瞬介「気づいたら、ここにいて」

出目さん「ここに待つんだよ」

瞬介「何を?」

出目さん「ピアニスト」

ピアニストを待つ。でもピアニストは本当に来るのだろうか? いや来そうもないね。だいいち、ピアニストがもし来てくれたとして、僕たちはこの建物から脱出することはできるのかな? ――新作日本映画『ピアニストを待ちながら』は、あらゆる謎を抱えこんでいる。アイルランドの作家サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』(1952年発表)の提示した不条理がなんの臆面もなくくり返されている。ここはどこだ?――ここは東京都。ここは都の西北――早稲田大学国際文学館。人呼んで、村上春樹ライブラリー。本部キャンパスの旧4号館の老朽化にともない、隈研吾の設計のもと建て直され、2021年10月にオープンした知の殿堂である。絵美さんや出目さんは、こんな知の集積地に生息する守護霊か地縛霊のようなものなのか。

待ちぼうけを学ぶ場所

同館のオープン記念動画『物語を拓こう、心を語ろう』が大学側の企画・製作により、2021年、開館と同時にリリースされた。早大シネマ研究会出身の映画作家・七里圭(しちり・けい)は大学から依頼されて『物語を拓こう、心を語ろう』を作り、開館オープン記念でお披露目されたが、ことはそれでは終わらない。

真夜中の不条理なドラマ部分を拡張して45分の中編作品『ピアニストを待ちながら』が追加的に製作され、それは2022年秋に早稲田小野講堂で発表された。さらに今回、60分のロングバージョン『ピアニストを待ちながら』に再拡張され、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開される。

こうしたうねうねとした拡張、周辺のエネルギーを薄気味悪く呑みこんで持続していくリミックスに次ぐリミックスは、七里圭の作家性であるとともに、早稲田大学という存在の不定形なスケールを物語る。

同大学の政経学部出身の音楽評論家、ラジオパーソナリティのスージー鈴木は、『ピアニストを待ちながら』に寄せたオピニオンコメントの中で次のように記している。

「早稲田大学国際文学館は、昔の4号館。半世紀以上前、怒れる若者たちが、何かを待っていた。40年ほど前、怒り方すら知らない私が、何かを待っていた。そして今、瞬介たちが、何かを待っている――。そう。時代は変われど、あの場所で若者は、待ちぼうけを学ぶのだ。」

早稲田旧4号館の「伝説」

『ピアニストを待ちながら』の舞台となる早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)は、建て替え前には4号館があった。村上春樹原作の映画『ノルウェイの森』(2010/トラン・アン・ユン監督)は早大構内でロケーション撮影され、学生によるデモで騒然となる構内を主人公ワタナベ(松山ケンイチ)がデモ学生と隔絶しながら練り歩く。

原作者・村上春樹の自伝性色濃いワタナベのすぐ傍にはたしかに4号館が写り込んでいた。4号館は小型の地味な校舎で、政経学部の正規棟である3号館の補助的な役割も果たしていた。かく言う筆者も同大学の政経学部出身で、4号館は東門のすぐのところにあり、東門から校外に出て、大隈通りの韓国料理屋でビビンパでも食べて構内に戻る時の通り道でしかないような、とても印象の薄い校舎だった。

しかし政経学部の「芸術論」の授業がこの4号館でおこなわれ、洋画家・薮野健先生による講義を熱心に聴講しようとする政経学部生で毎週満員だった(学部生以外のもぐりもいたことだろう)。この授業で筆者はフランス映画『世界のすべての記憶』(1956/アラン・レネ監督)を見た。単なるビデオ再生ではなく、ちゃんと16mmフィルムを教室背後にしつらえられた映写室から映写しての授業だったということがすばらしい。

『世界のすべての記憶』は、知の集積地としての図書館についてのドキュメンタリーである。4号館における『世界のすべての記憶』についての映画的記憶と、今日における早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)を写した『ピアニストを待ちながら』のイメージは、互いにそれと知らずに霊的に繋がっているのではないか。この、「それと知らずに繋がる」という事態もまた、きわめて早稲田的なものである。

この旧4号館の隣にある早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(通称エンパク)では2014年にサミュエル・ベケット展《ドアはわからないくらいに開いている》が開催されている。ベケット作『ゴドーを待ちながら』の変奏としての『ピアニストを待ちながら』の男女は、旧4号館からいっこうに外に出られないという状況下に沈潜した。真新しい国際文学館の自動ドアはつねに開閉し、いつでも出入り自由の開放性を謳歌している。にもかかわらず、瞬介たち登場人物たちはまんじりと館内に閉じ込められて、ピアニストの到着を待っている。

では、なぜ?

奇妙で、謎めいた、不条理な真夜中の饗宴として、ひそやかな栄光を謳歌する。ほかの何にも似ていないこの映画のスリリングさは、異常を通り越して爽快ですらある。早稲田は、首都圏のほかの名門大学とは一線を画し、単なるエリート養成校の枠には収まらない。

かといって東京藝術大学のように公式のアーティスト養成機関というわけでもないのに、次から次への風変わりな才能を輩出している。ネット記事で最近よく見かけるたぐいの、「親が子どもを入学させたい大学ランキング」で最上位になろうと、そんな胡散くさいランキングをよそに、早稲田は親をまったく安心させない不穏な知の環境として、これからも栄光の歴史を刻むだろう。そのことを、『ピアニストを待ちながら』は雄弁に、かつ予知的に物語っている。

映画『ピアニストを待ちながら』 10/12(土)より公開

https://keishichiri.com/pianist/

ーーーー

筆者記事をもっと読む:国内外から絶賛…「女優・芦田愛菜」の言葉が、万人の心をつかむ理由

国内外から絶賛…「女優・芦田愛菜」の言葉が、万人の心をつかむ理由