「自分のありようが白日のもとにさらされた」…アルツハイマー病に侵された夫が初めて妻に明かした「心の内」

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「漢字が書けなくなる」、「数分前の約束も学生時代の思い出も忘れる」...アルツハイマー病とその症状は、今や誰にでも起こりうることであり、決して他人事と断じることはできない。それでも、まさか「脳外科医が若くしてアルツハイマー病に侵される」という皮肉が許されるのだろうか。

だが、そんな過酷な「運命」に見舞われながらも、悩み、向き合い、望みを見つけたのが東大教授・若井晋とその妻・克子だ。失意のなか東大を辞し、沖縄移住などを経て立ち直るまでを記した『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子著)より、二人の旅路を抜粋してお届けしよう。

『東大教授、若年性アルツハイマーになる』連載第26回

『アルツハイマー病で東大を辞職…失意の元教授が自らの病を受け入れた「奇跡の瞬間」』より続く

新たな生きがいは

やがて、病を公表するきっかけが、意外なところから訪れました。

「来年(2008年)夏に、北海道の浦河町で日本キリスト者医科連盟(JCMA)の総会にあわせて、エクスチェンジ・プログラム(交流活動)が行われるんです。日本側の国際交流委員長のポストが空席なので、ぜひ若井先生にお願いしたいと思って」

と、貴美子さんから申し出があったのです。実務はすべて事務局で引き受けるとのことでした。晋は即座に引き受けました。

「来年」と聞いて、私は病気の進行が気にかかりましたが、晋の嬉しそうな顔を見ると不安は飛び去り、むしろ貴美子さんが〈何か生きがいを〉と考えてくれたことへの感謝が勝りました。

アルツハイマー病について寄稿する

委員長としての初仕事は、雑誌への寄稿でした。JCMAの機関誌『医学と福音』に巻頭言を寄せてほしい、との依頼があったのです。新しい国際交流委員長として、挨拶文を原稿用紙2枚程度でお願いしたい、とのこと。

晋はこのころ、すでに読むのも書くのも難しくなっていたので、ふたりで文案を考えることにします。私は思い切って、こんな提案をしました。

「やっぱり、晋さんがアルツハイマー病であることを、まずみんなに了解してもらわないといけないと思うんだけど……。委員長になったあとでわかるのは、フェアではないよね」

私の脳裏には、クリスティーンの講演で堂々と手を挙げていた晋の姿が浮かんでいました。あれだけの人の前で手を挙げたのだから、もしかしたら晋は、みんなに知ってほしいと思っているのかもしれない――そう感じていたのです。晋は同意してくれました。

「そうだね。僕もそれを考えていたんだ。みんなに知ってもらったうえで、引き受けないとね」

こんなやりとりで公表が決まり、私が晋に聞き取りをしながら、草稿を書き進めます。

「最初に何を書こうか」

「やはり、初めに僕の病気のことかなあ」

「じゃあ、今から逆算すると、ちょうど2年前に診断を受けたから、そのことから書き始めようか」

「そうだねえ」

「大学を辞める前は、本当に大変だったよね」

「あの時はもう、どん底だったなあ……」

「何でもできると思っていたことが…」

晋は、あまり思い出したくない、という様子でした。そこで、沖縄に移り住んだこと、北海道に滞在し、友人との再会によって委員長を引き受けたことなどを書くことにします。

そして晋が、

「これまで私は、たえず後ろを振り向くことなく走ってきた」

と、まとめるように語りだし、続けて、

「……しかし、アルツハイマー病と診断されて……」

――言葉が続きません。私はただ、耳を澄ませて待ちました。ややあって、晋が語りを再開します。

「……これまでのように、何でもできると思っていたことが、できなくなり……」

「えっ、本当にそう思っていたの?」

「思っていたよ」

何でもできる――まったくもって大胆な表現です。でもそれが、彼にとっては偽らざる本音だったのでしょう。だからこそ、「なぜこんな病気に」という問いから抜け出せなかったのかもしれません。

私はふと、数日前にふたりで読んだ、「ラビ・ベン・エズラ」という詩の一節を思い出していました。19世紀のイギリスの詩人、ロバート・ブラウニングの作品で、知人から届いたノートのなかにたまたま書き込まれていたのです。その詩を末尾に引用するかたちで、巻頭言ができあがりました。「国際交流委員長に就任して」と題したその文書の前半では、就任にいたるまでの過程が記されていますが、後半には晋の胸の内が率直に表現された、次のような言葉が並びました。

〈これまで私は、たえず後ろを振り向くことなく走ってきた。しかし、アルツハイマー病と診断されて、これまでのように何でもできると思っていたことができなくなり、自分のありようが白日のもとにさらされた。そして、これまでの信仰が、根源的に問われることになった。〉

〈「老いゆけよ、我と共に! 最善はこれからだ。人生の最後、そのために最初も造られたのだ。我らの時は聖手の中にあり。神言い給う。全てを私が計画した。青年はただその半ばを示すのみ。神に委ねよ。全てを見よ。しかして恐れるな!」と。(ラビ・ベン・エズラより)〉

詩のタイトルになったラビ・ベン・エズラは、中世の聖書学者の名で、ブラウニングはその思想を紹介する詩をつづったのです。

「なぜ、こんな病にかかったか」そう過去を振り返って問いかけても、答えはない。だが、恐れることなく神にゆだねれば、先に進むことができる――そんなメッセージは、鮮烈でした。

だからノートが届いた日、さっそくこの詩を晋に読み聞かせたのです。

「神様が届けてくれたノートだね」

晋もそう言って喜んでいました。

いよいよ公表のとき

それから7ヵ月後。

晋と私は、北海道浦河町で開催された、エクスチェンジ・プログラムの開会式の場にいました。国際交流委員長として、会の冒頭、英語のスピーチを頼まれていたのです。米国に留学経験のある次女が、通訳として同行してくれました。韓国、台湾、日本から集まった、およそ100名の参加者の前で壇上に立った晋。

教授時代の彼は発音が上手で、英文で発行される学会誌の編集委員を務めていたこともありました。きっと自ら英語で話すつもりでいたはずです。

しかし、少ししゃべったところで言葉に詰まってしまいました。すかさず次女が話を引き取り、口頭で先の巻頭言を翻訳し、あわせて父の現状を説明して開会の挨拶に代えます。聴衆からは温かい拍手が送られましたが、次女によれば、

「パパの目に涙があったよ」

悔し涙か、それとも〈やり切った〉という達成感の涙だったのか(私は後者と信じていますが)。しかし、あらためて振り返ると、これまで社会的には圧倒的強者だった彼が、自分の弱さを公表し、支えられつつ役割を全うできたのは意味のあることでした。

ブラウニングの詩ではありませんが、確かに、「最善はこれから」だったのです。

『アルツハイマー病の夫と付き添う妻の「閉塞した毎日」を打ち破った「思わぬ転機」とは』へ続く

アルツハイマー病の夫と付き添う妻の「閉塞した毎日」を打ち破った「思わぬ転機」とは