大勢の部下を死なせて「おとり」作戦を成功させたのに、謎の「反転」ですべてを無にした中将が戦後に語った「真実」

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今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第6回)

第5回<「たった10機の体当り機」で…大戦果を挙げた特攻隊員が、「特攻に指名され、敵艦にぶつかるまで」の一部始終>より続く

敷島隊突入成功の第一報

昭和19年12月25日12時20分頃、セブ島の東方からあわただしく飛行場に滑り込んできた零戦があった。セブ基地指揮官の二〇一空飛行長・中島正少佐は、

〈私はその飛行機を見た瞬間、何となく鮮血に彩られている様な感じがして、思わずハツとした。〉

と、『神風特別攻撃隊』に記している。着陸した零戦は、第二〇三海軍航空隊戦闘第三〇三飛行隊の西澤廣義飛曹長、本田慎吾上飛曹、馬場良治飛長の敷島隊直掩機3機であった。西澤は零戦から降りると、緊張した面持ちで駆け足で指揮所にやってきた。指揮所に居合わせた士官たちも思わず総立ちになり、ドヤドヤと西澤の周囲を取り囲んだ。西澤がもたらしたのは、敷島隊突入成功の第一報だった。

第一航空艦隊の神風特別攻撃隊出撃記録によると、西澤は、

〈中型空母一(二機命中)撃沈、中型空母一(一機命中)火災停止撃破、巡洋艦一(一機命中)轟沈、F6F二機撃墜〉

と報告している。

じっさいの戦果は護衛空母1隻が沈没、3隻が損傷で、護衛空母を中型空母と誤認、また巡洋艦轟沈という事実はなかったが、襲いくるグラマンF6Fと空戦を繰り広げたにしては、日本海軍有数の歴戦の搭乗員だけあって比較的正確な報告だと言える。

中島は、この報告をただちにマニラの第一航空艦隊司令部に打電した。

――だが、そのときにはすでに、レイテ湾に突入するはずの栗田艦隊は突入を断念し、反転した後だった。栗田健男中将は、空母4隻を主力とする小澤艦隊が、敵機動部隊を北方に釣り上げながらその攻撃を一手に引き受け、囮(おとり)の役割をみごとに果たしていることも、特攻隊による体当り攻撃が戦果を挙げたことも知らなかった。

栗田艦隊の反転

栗田艦隊の反転は「謎の反転」とされ、戦後もさまざまな論議や憶測を呼んでいる。

当時、レイテ湾には戦艦4隻を主力とする米艦隊がいて、もし栗田中将が予定どおり突入すれば、敵機の空襲に加えてこれら戦艦群との砲撃戦となり、壊滅したかもしれない。「だから反転は正しかった」とする、栗田中将の判断を擁護する意見もあれば、「要は臆病風に吹かれた」とか、「反転ではない、逃げたのだ」と断ずる厳しい意見もある。どの捉え方にも一理あるだろう。

だが、一つだけ確かなのは、この反転によって、特攻隊をはじめとする基地航空部隊の多大な努力、小澤艦隊の空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の喪失など、栗田艦隊のレイテ湾突入のために積み重ねてきた膨大な犠牲が水泡に帰したということである。あとに残ったのは、作戦が失敗に終わり、日本海軍が今後、米海軍に艦隊決戦を挑むだけの戦力を失ったという惨めな事実だけだった。

栗田艦隊のレイテ湾突入取りやめは、基地の航空隊や司令部に、大きな失望感を抱かせた。マバラカット基地で敷島隊の出撃を見送った六五三空飛行長・進藤三郎少佐(1911-2000)は、

「体じゅうの力が抜けたような気がした。『全滅を覚悟の最後の決戦』と聞かされ、そのために大勢の部下を死なせたのに、敵を目前にしながらこの期におよんで逃げ出すとは、何が『決戦』かと、心底腹が立った」

と私に語っているし、一航艦副官門司親徳主計大尉(1917-2008)も、

「やり場のない、いらいらした気にさせられた。基地航空隊ならずとも、作戦に参加した将兵はみんなそう感じたんじゃないでしょうか」

と回想している。

米ジャーナリスト、栗田にインタビュー

ダグラス・マッカーサー大将のレイテ島上陸のスクープ写真を撮った米「ライフ」誌の写真家、カール・マイダンスは、戦後、昭和21年夏に「フォーチュン」誌の依頼で、栗田健男元中将にインタビューをしている。

マイダンスは回想録のなかで、次のように述べている。(『マッカーサーの日本 カール・マイダンス写真集1945−1951』カール・マイダンス、シェリー・スミス・マイダンス共著 講談社刊)

〈レイテ海戦の山場で、彼がなぜ退却したのか、それを取材するためである。この海戦こそ戦争全体の明暗を分け、日本帝国海軍の終焉を決定的にしたのである。

このインタビューに、私は気乗りがしなかった。人の傷口に塩をすりこむように思えたからだ。提督は小さな家の畳に病身を横たえていた。それを見て私の気分は一層滅入った。かつての邸宅は空襲で焼失し、その裏に建てられた粗末な仮住宅だった。耳の痛みがひどいようで、ぬれタオルを頭の下に当てていた。

私の質問に従って通訳がよい方の耳に向かって叫ぶ。

「あなたは、レイテ湾の上陸地点にいたキンケード提督のちっぽけな艦隊を叩きつぶすことができたのに、なぜむざむざ退却したのか、お話いただけますか?」

栗田提督はしばらく思い出にふけり、そして静かに語り始めた。

「私はキンケード提督のハルゼー提督宛ての緊急電を傍受していました。私は、我が艦隊が間違いなく二つの艦隊にはさみ撃ちにあうことを確信したのです」

私は言った。

「ハルゼーが日本側のおとり作戦にはまり、彼の機動部隊を北にまわしてしまったのを、あなたはご存知なかったのですか?

キンケードは少ない護衛空母と空っぽの補給艦で、栗田艦隊に立ち向かえたと思いますか?」(中略)

「私は、まったく知りませんでした」、栗田提督は言った。「我々は制空権を失い、自分の目と耳しか判断のよりどころがなかったのです」(中略)

「知らなかったのですか?」私はしつこく聞いた。「あなたが退却した時、キンケード艦隊は士気・装備とも弱体にあえぎ、ハルゼー艦隊は全速で航行しても二時間の遠きにいたことを、ご存知なかったのですか?」(中略)

「知りませんでした」提督は言い、少し頭を上げ、すぐにまたもとにもどした。「あなたから聞くまで、いまのいままで知りませんでした。退却が、いまとなっては悔やまれます」〉

輸送機でマバラカットに帰る

10月25日のセブ基地に話を戻す。西澤飛曹長が中島少佐に敷島隊の戦果を報告した時点では、中島は栗田艦隊がレイテ湾の敵を前に「逃げた」ことを知らない。この日、セブ基地から発進させた特攻機の戦果報告はまだ入ってこないが、中島とすれば、引き続きセブから特攻隊を送り出したい。そこで中島は、西澤以下3名の敷島隊直掩隊員に、飛行機をここで二〇一空に引き渡し、輸送機でマバラカットに帰るよう命じた。

軍令部参謀の源田実中佐が戦地の事情を無視して推し進めた「空地分離」と呼ばれる制度で、この頃、飛行機隊は、たとえ他部隊であっても着陸した基地の指揮官の命令に従うことになっている。戦闘機乗りが戦闘機を取り上げられ、輸送機で帰らされるとはおもしろくなかったに違いないが、西澤も従わざるを得なかった。

夜10時過ぎになって、中島が夜食を食べに作戦室から階下の食堂に下りてみると、従兵が夜食はないという。聞けば、ふだん見慣れない飛曹長がやってきて、「飛行長の夜食を出せ」と言って、中島の夜食を持っていってしまったという。そんなことができる搭乗員は海軍に一人しかいない。

「あの西澤のやつだな、俺の夜食を分捕ったのは」

中島は苦笑しながら、恐縮する従兵に、

「心配せんでいい」

と声をかけて作戦室に戻った。かつてラバウルの台南海軍航空隊で苦楽をともにした中島と西澤とは、そんな間柄だった。中島は特攻を積極的に推進したことで多く元部下や遺族の恨みを買い、メディアの取材に応じることはほとんどなかったが、亡くなる前年の平成7年秋、私の電話インタビューに対し、

「もうみんな忘れた。特攻のことも、空戦のことも。記憶にあるのは西澤のことだけです」

と答えている。

西澤飛曹長、戦死

西澤は、翌26日、列機の本田上飛曹、馬場飛長とともに、輸送機に便乗し、マバラカットに向かった。ところがその輸送機は、ミンドロ島カラパン上空で敵戦闘機グラマンF6F 2機の襲撃を受け、撃墜される。空中では無敵を誇った歴戦の零戦搭乗員も、輸送機の便乗者ではなすすべがなかった。輸送機搭乗員、便乗者の全員が戦死した。

西澤の戦功はのちに全軍に布告された(機密聯合艦隊告示〈布〉第一七二号・昭和二十年八月十五日)。布告文によると、西澤は通算して〈協同戦果四百二十九機撃墜四十九機撃破、うち単独三十六機撃墜二機撃破の稀に見る赫々たる武勲を挙げ〉たという。日本最高の「撃墜王」と言われる西澤の撃墜機数については、さまざまな戦記でいろんなことが言われているが、ここで公に認められているのは「単独で撃墜36機、撃破2機。協同戦果(部隊戦果)撃墜429機、49機撃破」である。ただし当時の米軍記録と見比べると、これらの数字、特に部隊戦果は明らかに過大だと思われる。

伊藤國雄一等整備兵

このとき、輸送機に便乗して戦死した将兵のなかに、二〇一空司令・山本栄大佐の従兵だった伊藤國雄一等整備兵(一整)がいた。

これまで戦史で省みられたことは全くなく、戦地では最下級の少年兵(当時の海軍では二等兵は基礎訓練のみ。一等兵になって初めて実戦部隊に出る)だが、山本大佐は伊藤一整をことのほかかわいがっていたらしく、その死を悼む溢れんばかりの気持ちを日記に記している。これを読むと、「無名戦士」など一人もいないことが実感できる。以下、山本大佐日記より引用。

〈一整伊藤國雄君を偲ぶ

君は純真温順そのものだった。去る七月十七日司令としてダバオに着任以来、司令従兵として公私共まことに気持ちよく誠心誠意やってくれた。

約二ヵ月、自分のような短気者でさえ一度だって叱ったことがなかった。どの士官だって伊藤を叱った人は居るまい。飛行長に負けまいと思ってドミノの手入れを頼んだ時なんか終日磨いてくれた。ずいぶん大工の手伝いもさせた。家庭の話を聞いたこともあった。洗濯もよくやってくれた。身体も流してくれた。我が子のように可愛かった。

十月十日飛行隊の進出とともに自分も一、二日の予定でマバラカットに進出した。これが最後の別れとは露知らなかった。十九日自分は怪我をした。伊藤に世話してほしいと思った。十月二十六日、伊藤一整は自分(注:山本)の荷物を全部持って輸送機に便乗、西澤飛曹長等と一緒にセブを出発した。ミンドロ島プエルトガレラ付近で不幸G戦二機と遭遇、恨みを呑んで熱火に包まれ撃墜されたのだった。

伊藤!

残念だったね!

全航程の過半は来ていたのだ。(敷島隊戦果確認の直掩隊小隊長西澤飛曹長も同乗していて戦死した)〉

航空部隊の特攻は続く

栗田艦隊が逃げ、フィリピン決戦(比島沖海戦)に日本海軍が大敗を喫した後も、「特攻」は、押し寄せる敵艦船に対し、戦果を挙げ得るほとんど唯一の攻撃手段として続けられた。しまいにはフィリピンにいた搭乗員だけでは足りず、第一航空艦隊の要請で内地の航空部隊に大々的な特攻志願者募集が行われている。(「特攻隊員」に選ばれた者と選ばれなかった者を分けた残酷な基準)

フィリピンが敵手に落ちれば、次は沖縄が狙われるのは目に見えている。そうはさせじと航空部隊は必死の戦いを繰り広げていた。昭和19年に戦没した海軍の飛行機搭乗員は、各戦域をあわせて9858名。昭和18年の3581名の2.75倍に上っていた。(続く)

「たった10機の体当り機」で…大戦果を挙げた特攻隊員が、「特攻に指名され、敵艦にぶつかるまで」の一部始終