ネイリストさんが施術中、「私生活の話をたくさんしてきて戸惑った」…その問題を真剣に考えてみる

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自分の言ったことがうまく伝わらない、何回言ってもわかってもらえない……言葉を使ったコミュニケーションというのは難しいものです。

人と人とが言葉のやりとりをするとき、そこではいったいなにが起きているのか? 日常的なやりとりを題材に、コミュニケーションについて真剣かつ軽やかに考えるエッセイ『言葉の道具箱』が話題になっています。

著者は、大阪大学講師で、「言語哲学」という分野を研究している三木那由他さんです。

たとえば同書では、三木さんがネイルサロンにいったときに抱いた戸惑いが紹介されています。そのお店のネイリストは、施術中、自分が中華料理屋が好きであるという話を(三木さんにとっては)ずいぶんと長く繰り広げたそうです。なぜ三木さんはそれに戸惑ってしまったのか。

同書より引用します(読みやすさのために一部編集しています)。

〈会話とは共有された目的に導かれた合理的な営みであると論じたのは、哲学者ポール・グライスだ。会話は無目的になされるものではなく、何らかの目的に沿ってなされる、とグライスは考えた。

目的は「マンション内のトラブルに関して住民間で意見を調整する」といった明確なものである場合もあれば、「とりあえず会話が途切れないようにして時間を潰す」といった曖昧なものである場合もある。だがともあれ、会話に参加するひとはその会話の目的を受け入れているので、そのひとの発言はすべてその目的に沿った一手であるはずであり、周囲からもそのように理解される。

グライスは会話のこうした性格から、発言が持つ言外の含み(専門用語では「推意」と呼ぶ)を説明できると考えた。

「マンション内のトラブルに関して住民間で意見を調整する」という目的が共有されている場で、「そういえば最近、外を散歩していると猫をよく見かけますね」などと言ったなら、トラブルに関する話とは別に世間話を始めたというよりは、猫に関するその話もまた何らかのトラブルに関わっているのだろうと周囲の人々は理解するはずだ。なぜなら、目的に沿う発言である以上は、少なくともそれは関係のない発言ではないはずだという発話解釈の枠組みが共有されているためである。〉

〈発言は、そこに含まれる情報の量においても目的に適したものとなっていることが求められる、とグライスは考えた。

殺人事件の犯人を探ろうと探偵と刑事が会話をしている場面を考えてみよう。関係者のひとりがもっとも有力な容疑者とされている。そこで探偵が「確かにそのひとは怪しいね。ひとりだけアリバイがなく、ほかのひとはみな鉄壁のアリバイがある。動機だってひとりだけ持っているし、このひとであれば被害者が警戒もせずに自宅に招き入れたのもわかる。徹頭徹尾、あらゆる証拠がこのひとが犯人だと言っているね」などといちいち指摘していったとしたら、刑事の側は「何か言いたいことがあるのか? まさか犯人はほかにいるとでも?」などと応じるだろう。会話の目的に照らして過剰な情報量を持った発話は、それゆえに言外に何かをほのめかすのである。

では、私とネイリストさんの会話はどうだっただろう? 私たちは、そこまで明確ではない、「会話を続けて時間を埋める」といったくらいの緩やかな目的のもとでしゃべっていた。その目的に照らすと、発言をするたびにプライベートな時間の過ごし方を開示していくネイリストさんの発言は、情報量が過剰に思える。けれど、それによって言外のほのめかしをしていたのだろうか? そうではないだろう。ネイリストさんは、ただ単に言ったままの内容を私に伝えていただけだったはずだ。

ここに、私から見たネイリストさんの「他者」としての感触が生まれたのだと思う。私が会話の目的に従って発言をするなら、それほどまでにプライベートを開示するのは情報量において過剰であり、だから私ならそのあたりはぼやかした発言にする。

でも、ネイリストさんはそうではなかったのだ。ネイリストさんにとってはきっと、それだけプライベートを開示する発言が、それでも「会話の目的に照らして多すぎも少なすぎもしない情報量の発言をする」という規範に反するものではなかったのだろう。私とネイリストさんは会話の目的については共有していたはずだが、「会話の目的に照らして多すぎも少なすぎもしない情報量の発言をする」という規範への従い方が違っていたのだ。〉

コミュニケーションにおいてどんなすれ違いが起きるのか。本書を手元に、自分のコミュニケーションを振り返ってみると、見えてくるものがあるかもしれません。

さらに【つづき】「「この食べ物、好き」と言わず「この食べ物、おいしい」と言うとき、私たちが「じつは狙っていること」」でも、コミュニケーションについて三木さんが考察します。

「この食べ物、好き」と言わず「この食べ物、おいしい」と言うとき、私たちが「じつは狙っていること」