「島流しだ!」と嫌がっていたのに…アルツハイマー病になった東大教授が、沖縄で見つけた「新しい居場所」

写真拡大 (全4枚)

「漢字が書けなくなる」、「数分前の約束も学生時代の思い出も忘れる」...アルツハイマー病とその症状は、今や誰にでも起こりうることであり、決して他人事と断じることはできない。それでも、まさか「脳外科医が若くしてアルツハイマー病に侵される」という皮肉が許されるのだろうか。

だが、そんな過酷な「運命」に見舞われながらも、悩み、向き合い、望みを見つけたのが東大教授・若井晋とその妻・克子だ。失意のなか東大を辞し、沖縄移住などを経て立ち直るまでを記した『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子著)より、二人の旅路を抜粋してお届けしよう。

『東大教授、若年性アルツハイマーになる』連載第22回

『「病もまた、神様から与えられたもの」…アルツハイマー病となった夫を何も聞かずに受け入れてくれた女性の“壮絶な過去”』より続く

「もう絶対に沖縄へは行かない」

夏。

出会いに恵まれた私たちでしたが、新しい土地の気候にはなかなか慣れることができませんでした。盛夏ともなると、さすがに沖縄の暑さは身にこたえるのです。晋と私は、20日間ほど栃木に里帰りすることに決めました。

グループホームに入居した晋の母に会う目的もありました。退職後、休む間もなく沖縄へ移住したので、長年暮らした栃木の家には、東京から送った荷物がまだそのままになっており、意外に「やること」が多かったのを覚えています。

段ボールに入った荷物を開け、部屋を掃除。晋は書斎の本を整理。そんなことをして、あと数日で沖縄へ戻るという時期に晋が、

「もう絶対に沖縄へは行かない」

挙げ句、出発する日の朝、ついに「捕囚だ」「島流しだ」と怒り出してしまいます。飛行機の時間が迫っていました。困った私は思わず、

「じゃあ、栃木に帰ってきてもいいから。むこうに荷物もあるし、とにかく上田先生に『やっぱり栃木に帰ります』って、挨拶に行こうよ」

するとようやく「行くよ」と重い腰があがりました。望んでした引っ越しでしたが、栃木の家は思いのほか居心地がよく、里心がついたのでしょうか。

いいことが待っていた

ところが、いざ沖縄に戻ってみると、いいことが待っていました。

「若井先生、白衣を着て一緒にラウンドしませんか?」

という申し出を上田先生からいただいたのです。

ラウンドとは院内回診のことですが、そう尋ねられて「医者が趣味」と豪語していた晋の心が動かないはずありません。栃木へ引き揚げるという話はどこへやら、さっそく上田先生について、180床ほどある入院病棟を歩くことになりました。

野毛病院の患者は、ほとんどがお年寄りです。患者「様」と呼ぶ病院も増えていたころですが、野毛病院では「おじい」「おばあ」と気さくに呼びかけるのがふつうでした。

晋は最初、上田先生や看護師さんの説明を聞きながら一緒に歩いていたのですが、慣れてからはひとりで回診するようになりました。病棟はそれなりの広さがあります。迷ったりしないだろうか―そんな心配もありましたが、いざ始めてみると自分で白衣に着替え、うまく回れているようでした。

「一緒にラウンドに行ってみる?」

と誘われたので、ついていったことがあります。

患者と接する喜び

「具合はどうですか」

晋はそう声をかけながら、ゆっくり回診していました。話しかけてくる患者さんに、晋はただ「うん、うん」とうなずき、ときに「よかったですね」などと応じています。ただそれだけでしたが、おばあたちからは「ハンサム先生」と呼ばれて人気だったと、あとで病院の職員さんが教えてくれました。

現役の脳外科医だったころ、晋は「ムンテラの若井」と呼ばれていたそうです。ムンテラとは、ドイツ語の「Mund」と「Therapie」に由来する医療の隠語で、「言葉による治療」の意味だとか。患者さんの話をよく聞き、時間をかけて診療するのが晋のスタイルで、そこからこんな呼び名がついたようです。そういえば「医者の基本は声かけだよ」と晋が話していたこともありました。

医師は晋の天職でした。そして彼は、何より患者さんと接するのが好きだったのです。野毛病院では、診察や手術をしたわけではありません。ただ何となく白衣を着て、患者さんと話すだけでしたが、それが本人の癒やしにもつながったのでしょう。

「居場所ができてうれしいよ」

そう目を細めて、今日もいそいそと病院に出かけていくのでした。

『交通事故と入院を乗り越え…アルツハイマー病の東大教授が参列した、波乱まみれの「感動的な」結婚式』へ続く

交通事故と入院を乗り越え…アルツハイマー病の東大教授が参列した、波乱まみれの「感動的な」結婚式