2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。

極楽往生と懐妊祈願――道長の金峯山詣

大河ドラマ「光る君へ」35話では、寛弘四年(一〇〇七)の道長の金峯山詣(きんぶせんもうで)が描かれた。金峯山は現奈良県吉野郡の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)を中心とする山々であるが、この頃に弥勒下生(みろくげしょう)の地として信仰の対象となった。道長は長徳四年(九九八)と寛弘八年にも参詣を計画しているが、実際に参詣したのはこの年だけであった。

閏五月十七日から御嶽精進(みたけそうじ)をはじめ、八月二日に出立し、十一日に金峯山寺(山上本堂)に到着した。金峯山寺では、小(子)守三所(こもりさんしょ)などに参詣し、金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)が湧出したという御在所に参っている。そして理趣分(りしゅぶん)・般若心経・金泥法華経・弥勒経・阿弥陀経、倫子の書写した経を経筒(きょうづつ)に入れ、金銅の燈楼を立てて、その下に埋納した(『御堂関白記』)。

道長がこの時、子守三所に詣でている点、また埋納した理趣分が、男女交合が本来は清浄な菩薩の境地であると説く経である点から、この金峯山詣には、自身の極楽往生に加え、彰子の懐妊祈願という意味も含まれていたのであろう(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

私は道長と同じ四十二歳の年の八月、金峯山に登った。その日も雨模様で、急峻な山道や断崖を雨をおして登った道長の執念を、すぐに実感することになったものである。先般、久々に登ってみたが、すでに道長が出家した年齢になってしまっていた。

この経筒は元禄四年(一六九一)に山上ヶ岳から出土した金銅経筒の中から発見され、経巻は金峯山寺(山下の蔵王堂)や金峯神社などに分蔵された。近年、新たに蔵王堂に収蔵されていたものも発見されている。経筒や経巻に書かれた字は道長の自筆であるが、それは『御堂関白記』とは異なり達筆と称すべきものである。

伊周と隆家の道長暗殺計画

『小右記』の写本はこの年は残っていないが、『小記目録(しょうきもくろく)』には八月九日のこととして、「伊周と隆家が、平致頼(むねより)と相語らって、左大臣を殺害しようと欲した間の事」とある。『小右記』の本文には、その詳細が記録されていたはずである。この致頼というのは同族の維衡(これひら)と伊勢国で合戦を行なった者である。

とんでもない情報が都では流れていたのである。また、ドラマとは異なり隆家も伊周に荷担していたとされていたのである。

彰子懐妊

この年の十二月、中宮彰子はついに懐妊した。

「中宮は去年(寛弘四年)から懐妊されている」と云うことだ。「但し、事はなまじっかで定まらないのである。そこで秘せられる」と云うことだ。「他聞に及んではならない」と云うことだ。

という寛弘五年三月十三日の記事(『御産部類記(ごさんぶるいき)』所引『不知記(ふちき)』)からは、うかつに外に漏れて呪詛(じゅそ)でもされては大変だという、道長や一条周辺の配慮がうかがえよう。

行成(ゆきなり)は三月十九日に夢を見た。高僧が多く参入して、彰子懐妊の慶賀を申していた。自ら男女を問うと、答えたことには、「男である」ということであった(『権記』)。敦康親王家別当(家政機関の政所の長官)を務め、一条の信任も厚い行成ではあったが、彰子が皇子を産み、一条と道長の関係が強化されることも宮廷の安定には必要であるとの思いによるものであろう(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

敦康親王の後見を放棄

この頃から、道長が敦康親王を粗略に扱っている記事が目立つ。まだ無事に彰子が出産するかはわからず、皇子か皇女かもわからず、生まれても成長するかどうかわからない段階で、こういう決断のできる道長は、やはりすごい人物である。

敦康親王を母代わりとして育てた彰子や、敦康親王に親しんでいる頼通と、道長との間の意見の相違は、後に表面化することになる。

元日朝拝の復活をめざしたが……

道長が一条天皇に、翌年の元旦に朝拝(ちょうばい、朝賀〈ちょうが〉)を行なうことを奏上する場面が出てきた。本来、元日には天皇・皇后が大極殿(だいごくでん)に出御し、南面して皇太子以下百官の賀を受ける大礼である朝拝が行なわれ、さらに公卿・殿上人が清涼殿(せいりょうでん)に天皇を拝する儀として小朝拝(こちょうばい)が行なわれた。それらが終わった後、豊楽殿(ぶらくでん)で元日節会が行なわれることとなっていたのであるが、徐々に朝拝は行なわれなくなり、小朝拝のみが行なわれた。

寛弘四年十二月十三日、道長は元日朝拝のことを定めた(『御堂関白記』)。かつて道隆(みちたか)が正暦四年(九九三)に四七年ぶりに朝賀を復興したことに倣った再復活を、道長が目指したのである。しかし、摂政の道隆と異なり道長は北面しなければならないし、彰子懐妊によってそれどころではなくなってしまった。寛弘五年の元日は小朝拝と節会のみが行なわれて、結局は朝賀が復活することはなく、小朝拝のみが中世まで行なわれた(倉本一宏『一条天皇』)。

『新楽府』の講義

36話では、寛弘五年の夏頃から、紫式部が彰子に白居易の『楽府(がふ)』(『新楽府(しんがふ)』)の進講(しんこう)を始めたことが描かれる。もともと、彰子は紫式部に『白氏文集(はくしもんじゅう)』を読ませていたのであるが、その第三・四巻の『新楽府』を秘かに読み始めたのである(『紫式部日記』)。

時勢を批判し、人民の声を朝廷に伝えようとしたという『新楽府』は、胎内の皇子への帝王学かとされている。はじめは人目を避けて行なっていたのであったが、やがて道長や一条の知るところとなり、道長は漢籍を能書に書かせて奉献させた。

弟・惟規の泥酔

「御懐妊五箇月」となった彰子は、四月十三日に内裏から道長の土御門第に退出した。女房の局は寝殿(しんでん)から東対(ひがしのたい)に通じる北渡殿(きたのわたどの)に設けられ、紫式部の局はその中程に与えられた。二十三日からは安産祈願の法華三十講(ほっけさんじっこう)が始まった。

七月十七日には、一条の書状が土御門第の彰子に届けられたが、勅使は弟の惟規(のぶのり)であった。公卿に酒を勧められて、「酔ったことは泥のようであった」という状態になり、禄を下賜されても、手に懸けて座に坐ったまま小拝するというていたらくであった(『御産部類記』所収『不知記』)。紫式部もこの有様を見ていたのであろうか。

二十日には彰子のための修善法会(しゅぜんほうえ)がはじまるが、この頃から、現存『紫式部日記』がはじまる。

出産を記録する――『紫式部日記』

敦成(あつひら)親王の出産に際しては、『小右記』『権記』『御堂関白記』に加えて、『外記(げき)』(外記日記〈げきにっき〉)や『御産部類記』所収の三種の『不知記』(記主〈きしゅ〉のわからない古記録)など多くの貴族の日記が現在まで残されているように、宮廷を挙げて記録熱が高まっていた。

その際に、道長は女性の手による仮名の日記も必要であると考えたのであろう。男性貴族が日記を記録しても、所詮は男性の視点からしか記録できないし、何より男性貴族が立ち入ることのできない場における見聞は記録することができない。

それに対して彰子付きの女房だと、出産の現場まで立ち入ることができるし、女性ならではの視点で、しかも仮名によって細かなニュアンスまで記録することができる。

紫式部がその記主として選ばれたのは、それまでの文歴から見て当然であるが、紫式部に料紙(りょうし)を与え、記録を命じた主体として道長を想定するのも、これまた自然なことであろう。道長は、自己の家の盛儀を仮名で詳細に記録させ、これを近い将来の姸子(けんし)や威子(いし)、はては後の世代の摂関家后妃(せっかんけこうひ)にとっての先例として残しておきたかったのであろう。

なお、『紫式部日記』は当初から独立した作品として記されたものではない可能性もある。御産記(ごさんき)だけは清書して道長に提出されたであろうが、その他は御産記の草稿も含めて紫式部の許に残され、数々の変遷を経て現在のかたちで残されているのかもしれない。現状は記録的部分、随想的部分、消息文的部分からなるが、このうちの記録的部分が、彰子の皇子出産とその後の儀式を詳細に記録したものである(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

敦成親王誕生と敦康の立場

九月九日の夜半、彰子に産気が起こった。十日が明けると、道長の招集に応じた諸卿が続々と駆けつけた。彰子は土御門第寝殿の東母屋(ひがしのもや)に白木の御帳(みちょう)を立てた産所に移ったが、この日は、産気は微々たるもので邪気(じゃき、物怪〈もののけ〉)が出現するばかりで、一向に御産はなかった。

この日、道長は土御門第を訪れた顕光と公季には面談したが、その後に伊周が参入しても会おうとはしなかった。実資は、「何か理由が有るのであろうか」と記している(『小右記』)。これまでの一条後宮の推移を考えると、道長が定子の兄である伊周を怖れるのも当然であった。

『紫式部日記』では、「修験僧(しゅげんそう)は中宮さまにおつきしている物怪どもを憑坐(よりまし、物怪を寄りつかせるための小童や女房)に駆り移し、調伏(ちょうぶく)しようとこのうえなく大声で祈りたてている」とか、「御物怪が移った憑坐の人々を、めいめい一双のお屏風でぐるりと引き囲み、その口もとにはそれぞれ几帳(きちょう)を立てて、修験者(しゅげんざ)が一人一人を受け持ち、声高に祈祷(きとう)をあげている」と、修験祈祷の有様が描かれている。

翌十一日の暁、彰子は寝殿の北廂(きたびさし)に移り、紫式部は隣の間に控えた。道長も祈祷に加わり、「万事に声高くお指図」していた。女房たちは皆、泣きくらしていた。

そして午剋(午前十一時から午後一時)、「御物怪がくやしがってわめきたてる声などの何と恐ろしいことよ」(『紫式部日記』)という状況のなか、形式的に剃髪(ていはつ)を行なった白装束の彰子は、「平安(たいらか)に」皇子敦成を出産した。後の後一条(ごいちじょう)天皇である。「御物怪」とあることは、身分の高い者の怨霊であるが、誰もがその名に気づいていたが(憑坐が名のったであろうし)、誰も記録していない。

道長は諸卿に、「たまたま仏神(ぶつしん)の冥助(みょうじょ)によって平安に遂げた」と語るなど、喜悦(きえつ)の心はたとえようもなく、その様子は言い表わせないほどであった(『小右記』)。

ただ、行成の『権記』には、「午剋、中宮は男皇子(おとこみこ)を誕んだ。仏法(ぶっぽう)の霊験(れいげん)である」としか記されていないし、かつての敦康の誕生時とは異なり、諸史料に一条自身の喜びの言葉は残っていない。ともあれ、これで敦康は、道長にとって邪魔な存在となった。同様、伊周をはじめとする中関白家の没落も決定的となった。そればかりか、外孫を早く立太子させたいという道長の願望によって、やがて一条との関係も微妙なものとなる。

紫式部はその感激を、「ご安産でいらっしゃるうれしさが比類もないのに、そのうえ皇子さまでさえいらっしゃった喜びといったら、どうして並ひととおりのものであろうか」と記録している(『紫式部日記』)。

その後、内裏からの御佩刀(みはかし)奉献、御臍(ほぞ)の緒(お)、御乳付(ちつけ)、御湯殿(おゆどの)、読書(どくしょ)の儀と続く。紫式部は「こうした場所はますますきまりが悪く、恥ずかしいような気持ちがするので、昼間はほとんど御前に顔も出さず、ゆったりとした気分で、東の対屋のそばの部屋から御前に参上する女房たちを眺めている」と言いながらも、装束や儀式を詳細に記録するのであった。

紫式部と道長の対照的な心持ち――土御門第行幸

九月二十五日、参内した道長に対し、一条は皇子の内裏参入の日を問うた。「十一月十七日」と答えた道長に対し、一条は、「参入する日は遠い。私が行幸しよう」と語り、土御門第行幸が行なわれることとなった(『御堂関白記』)。

土御門第行幸は、十月十六日に行なわれた。道長とともに彰子の前に進んだ一条について、道長の『御堂関白記』では、「天皇は若宮を見奉りなされた。余(道長)も抱き奉った。上(一条天皇)もまた、抱き奉りなされた」と、敦成を抱いた。ここで道長が一条の動作に謙譲語を付しているのは興味深いところであるが、『紫式部日記』でも、「殿(道長)が若宮をお抱き奉りなされて主上(しゅじょう)の御前にお連れ奉りなされる。主上が若宮をお抱きとり奉りなされるとき、少々お泣きになるお声が、とてもかわいい」と、なぜかほぼ同文に表現されている。まさか二人で文章を付き合わせたのであろうか。

その後、敦成に親王宣旨(しんのうせんじ)が下り、行幸叙位(じょい)が行なわれ、管弦(かんげん)の遊びに移った。それは後世、「寛弘の佳例(かれい)」と賞讃された、摂関期を代表する盛儀であったが、このような盛儀のなか、紫式部は行幸の準備の際にも、「ただもう一途に、常々心がけてきた出家遁世(しゅっけとんせい)の気持ちに、ひきつけられるほうばかりが強くて、憂鬱(ゆううつ)で、思うにまかせずに、嘆かわしいことばかりが多くなるのが、実に苦しい」と記し、池の水鳥の苦しさをわが身になぞらえて思ったり、一条の御輿を寝殿に担ぎ上げる駕輿丁(かよちょう)を見て、ひとり慨嘆するのであった(『紫式部日記』)。

それは、「ああ、これまでの行幸(みゆき)を、どうして名誉あることと思ったのでしょう。今日のような光栄なこともありましたのにね」と酔い泣きする道長とは、あまりに対照的な心持ちである。

それはさておき、かつて定子をひたすら求めた一条の姿とは異なり、この行幸における一条と彰子との交流は、諸史料に見えない。二人の后に対する思いの違いが出てきているのであろう。「主上が中宮さまの御帳台にお入りになって間もないうちに、『夜がたいそう更けました。御輿を寄せます』と人々が声高にいうので、主上は御帳台からお出ましになられた」という一条還御(かんぎょ)の記述で、この行幸の記事を終えている(『紫式部日記』)。

五十日の儀

十一月一日、敦成五十日(いか)の儀が行なわれた。『紫式部日記』には、信じられないような公卿連中の乱痴気(らんちき)騒ぎが描かれている。しかし、彼らは単純に新皇子誕生を祝う気持ちにはなれなかったはずである。特に女や姉を一条の後宮(こうきゅう)に入れていた顕光や公季、隆家の心中は、察するに余りある。

彼らの心中を斟酌(しんしゃく)することもなく、彰子に向かって、「宮の御父として私は不相応でないし、私の娘として宮もお恥ずかしくなくいらっしゃる」とか、「この親があるからこそ子供も立派になったのじゃ」、はては「母上(倫子〈りんし〉)もまた幸福だと思って笑っておいでのようだ。きっとよい夫を持ったことだと思っているのだろうな」などという戯(ざ)れ言(ごと)を吐く(『紫式部日記』)道長というのも、いつもながら大したものである。

また、ここで紫式部が実資に対して、「右大将(うだいしょう)にちょっとした言葉なども話しかけてみたところ、ひどく当世風に気どっている人よりも、一段とご立派でいらっしゃるようであった」という評価をしているのは(『紫式部日記』)、後年の両者の関係を考えると、興味深い。

なお、この場面で公任(きんとう)が「若紫」という語を発していることから、この年には確実に『源氏物語』の一部が執筆されていたことがわかる。

伊周必死のパフォーマンス

残念ながらドラマでは描かれないが、十二月二十日、彰子御在所において敦成の百日(ももか)の儀が行なわれた。盃酌が頻りに巡り、酩酊に及んだ頃、能書の行成が、公卿たちの詠んだ歌の序題を書こうとしていた時、伊周が行成から筆を取り上げ、自作の序題を書いた。その行為だけでも、公卿層の非難を浴びたのであるが(『御堂関白記』『小右記』)、さらに問題なのは、その内容である。

『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』に収められているこの序の中では、敦成を「第二皇子」と呼称し、「隆周(りゅうしゅう)の昭王(しょうおう)・穆王(ぼくおう)は、暦数(れきすう)が長かった。我が君(一条)も又、暦数が長い。本朝の延暦(えんりゃく、桓武〈かんむ〉天皇)と延喜(えんぎ、醍醐〈だいご〉天皇)は、胤子(いんし)が多い。我が君も又、胤子が多い。康なるかな帝道(ていどう)は。誰が歓娯(かんご)しない者があろうか」という「私語」がつづいている。

一条には敦成の他にも皇子女が多く存在することをアピールしたうえ、「隆周」というのは、道隆・伊周父子を意識したものであろうし、「康なるかな帝道」のうちの「康」は、敦康の名に通じるものである。これは敦成の誕生を祝う宴において、定子所生の皇子女、特に第一皇子である敦康の存在を皆に再確認させようとした、伊周の必死のパフォーマンスだったのであろう(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

「風流ぶって近づきにくい…」紫式部と女房たちの関係は? 時代考証が解説