揉め事は「行動」と「人格」に分けて考えると解決しやすい。誹謗中傷に苦しんだ漫画家の気づき

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10人に1人はSNSで誹謗中傷を受けたことがある。これは、15〜59歳の男女3000人を対象にしたアンケート調査(「ベンナビIT」が2024年6月に実施)の数字だ。誹謗中傷は「悪口や根拠のない嘘などを言って、他人を傷つけたりする行為」(警察庁のHPより)のこと。誹謗中傷まで行かないものの、人を必要以上に責めてしまった経験は、誰しも一度はあるのではないだろうか。

なぜ私たちは必要上に人を責めてしまうのか――。ネットで誹謗中傷を受けた経験のある漫画家でエッセイストの田房永子さんが、その根にあるものに向き合い、ひとつの解決法を提案するのが、漫画『喫茶 行動と人格』だ。

揉め事が起きたとき、責められている側の「行動」と「人格」を分けて考えると建設的に話が進む。そんなメッセージを、さまざまな人間模様が繰り広げられる喫茶店を舞台に描く本作。田房さんは何をきっかけに、「行動」と「人格」を分ける、という考えに至ったのか。

※以下、田房さんによる寄稿。

人は反射的に「誰が悪いか」を判定する

何かよくない問題が起きた時、人は反射的に「誰が悪いか?」を判定しようとするものだと思います。

例えば、私が作ったこの架空のニュースを読んでみてください。最初にパッと浮かぶ考えは何でしょう?

15日午前10時半前、北海道のスキー場で、スノーボードをしていた神奈川県在住で外国籍の30代男性が、『立ち入り禁止エリア』を滑っていたところ、雪崩に巻き込まれ雪に体が埋まり動けなくなりました。

男性は持っていた携帯電話で自ら110番通報し、約20分後に警察から連絡を受けたスキー場のパトロール隊が現地に到着しました。

男性が動けなくなっている場所は救助が困難な地帯だったため、通常より救助人員が増員され、防災ヘリで救助されました。

男性は家族と離れ、1人で滑っていたということです。

なお、男性にケガはありませんでした。

このニュースが実際にあったら、半日くらいはXでトレンド入りしそうです。

「ルールを守らない人間」という明らかな「悪者」が、「公的救助という税金が使われるもので助けてもらった」というところが容赦なく叩かれるポイントです。そこに男性の国籍や、家族の有無があると、読んでいる側の想像が豊かに広がります。

誹謗中傷は「人間性の否定」が定番

ネット上の大衆がこういったニュースへつけるコメントの傾向としては、「常識がなさすぎる。普通の人はこんなことしない」と人間性を否定するものが定番です。そのために彼の国籍に触れたり、家族を持っている立場を非難したりもします。さらに、「もしこの時間に本当に防災ヘリを必要としている人がいたらどうするんだ。このルールを守らないクズのためにその人が命を落とすことになった」と仮定の話で、いかに男性が人に迷惑をかけたか、を大きく説明することもネット上でよく見る光景です。

こういった形で、不倫などの不祥事を起こした芸能人も、大衆が持つ好印象に反する行動をとる公的人物も、とにもかくにも盛大に叩かれます。叩いているほうは叩いているつもりはなく、正義感に基づく正当な意見を言っているだけという認識です。しかし叩かれる側からしたら誹謗中傷以外の何物でもなく、それをきっかけに自殺してしまう事例もニュースになっています。

「悪者」と認識された側から見た光景

私も、自分の作品を公に発表する仕事をしているため、ネット上で叩かれた経験があります。ネットの一部の人たちから「悪者」と認識されてしまった時の、「悪者」側から見た大衆の凶暴性は想像を絶するものがあります。

「田房はこんなにひどいことをしている!」とみず知らずの人が私に背を向けて、向こう側に大声で言う感じです。みんな、誰もこっちを見ずに、目も合わせずに「この田房というやつはひどい人間だ」と私を吊し上げます。

私の場合は、自分のやらかしを描いた漫画をその人たちに発見されただけなので不祥事を起こしたわけでもないのですが、まるで犯罪者かのような物言いで糾弾されます。そういったときの己の中から湧いてきた正義感の炎の中で夢中になっている人たちには、「この悪者(田房)に対して自分は何か誤解しているかもしれない」という再考の余地は一切ありません

特徴的なのは、「悪者」本人に質問をしないことです。

攻撃的で高圧的で誘導尋問的な決めつけを送信してきたり、まるでその人が目で見た「田房の真実」かのような言い方で事実無根なデタラメな妄想を私本人に投げつけてきます。

彼らの苛烈な怒りがあまりにもすごく炎のように思えるので、炎上中の渦中の人というのは何もする術がないのです。その炎を見ていると、まるで世界中の全人類が自分に対してそのような印象を持ち怒り狂っているような気がしてきて、ひたすら恐ろしく、これから先は生きていても誤解を解くことは不可能だ、という錯覚に陥ります

これは炎上、誹謗中傷の攻撃をくらった人の多くが語っている感覚です。だからとにかく、ネットから離れて黙って静まるのを待つしかないのですが、それすらも「ダンマリか」「逃げたな」と言われる始末です。

とにかく大衆の意に反する「行動」をすると、「人格」込みで叩かれまくるというのがインターネットの常です。

あるリアリティーショーから得た気づき

そんなふうに、自分の漫画がちょくちょく炎上する日常に思い悩んでいた私ですが、コロナ禍に動画配信サイトである恋愛リアリティーショーを観るようになったことで、思考の変化が起こりました。

私が夢中になったのは、「マッチングの神様(原題:Marriage At First Sight Australia)」。わざと揉めさせるような企画が盛り込まれており、その修羅場を楽しむ下世話な内容ではあるのですが、そこに衝撃的な光景を見ました。

同番組ではリレーションシップに詳しい専門家たちが出演者をモニタリングしているのですが、出演者の誰かがよくないことをやらかしたり揉め事が起きたとき、第三者として間に入って話をします。

第三者としての専門家は「誰が悪いか」という判定はせず、よくない行動をしたと責められている側の人に、「正直」に「真実」を話すように質問します。そうすることで、「どうしてそういう行動をしたのか」というよくない行動をした人の「事情」を探り出すのです。

当事者同士だと頭に血が上って冷静に話し合えないのは、それは「お前が悪い」「そっちだって悪い」と「悪者」を相手になすりつける会話になるからです。

そういう時、第三者が「やらかした行動」だけに注目し、「その人の人格」は横においていったん話を聞くことで、やらかした人を必要以上に追いつめない、ということが可能になります。追いつめないのは何のためかというと、真実を知って前に進むためです。

事情を知ることで、責めている側の人や周りで聞いている人たちが持つ印象が変わることがあります。現場の緊張感がほぐれ、素直な謝罪の言葉が出てきたりもします。

また、だいたいの人はその謝罪を「謝ってくれてありがとう」と言って受け取ります。許す許さないは関係なく、謝罪だけはとりあえず受け取ります、という例もよくあります。

謝罪すること以上に、正直に真実を話すことを重要視するので、正直に話さなかったり、話し合いの場に来なかったりすると、そこでやっと「よくない人だわ」と人格について言及されたりします。

揉め事の事例集とも言えるリアリティーショーの中で、それも多くの若者が観る番組の中で、第三者が行動と人格を分けて当事者に話を聞く、という建設的な方法が示されているのはとてもよいなと思いました。

最近話題になった日本のリアリティーショー「ボーイフレンド」でも、専門家やタレントではありませんが、出演者である当事者同士がお互いに人格を責めすぎずに対処するシーンが多く見られました。こうしたコミュニケーションの参考になるような番組がもっと増えたらいいなと思います。

「納得できない」気持ちの解消が解決の近道

揉め事が起きたとき、人が怒ったり混乱したりしてしまうのは、「納得できない」からです。人が人を批判するときは、言い換えると「私は納得できない!」と言ってることがほとんどです。

ネット上の炎上や誹謗中傷の多くは不特定多数VS個人なので難しいですが、個人間で起きた揉め事は、まず「どうしてこんなことが起きたのか?」という納得できない気持ちを解消するのが、解決のためには手っ取り早いわけです。

「行動」と「人格」を分けて考えると、関わっている人たちが納得しやすく、問題の解決も早く進みます。

今の日本のネット上では、誰かの失言や失態などの「行動」を見つけたら、速攻でその人の「人格」と結びつけて、「行動」の理由を「人格」で片付ける、というのが一般的です。こここで言う「人格」は、その人の性別、年齢、職業、生い立ち、生まれた国、能力、などです。本人が事情を話す場があったとしても、その事情はあまり重視されず、「〇〇だからそんな言い訳するんだ」と、人格と結びつけてかき消されていくのをよく見ます。

よくない行動のさわりの部分と、その簡単なプロフィール以外はほとんど何も知らない、会ったこともない他人に対しての大衆の強い憎しみは「納得できない」という固形のまま溶けず消化されずインターネット上に漂い、何の解決もせず、ただ「クズが起こした不祥事」として記憶されて終わるのです。

「悪者」が「真実」を語れる空気が大切

漫画『喫茶 行動と人格』を描き始めたのは、何か問題が起きたときに「行動」と「人格」に分ける考え方、話し合い方ができるようになったらいいな、という思いからでした。

それは誰か1人ができていても仕方ない。「悪者」とされる人が「正直」に「真実」を話すことは意味があり、それを聞くことも価値のあることなんだ、という感覚を大衆レベルで持っているとことが大切だと思っています。

最初は、「田房講師の『行動と人格』講座」という塾を舞台にした解説的な漫画を考えていました。でも「人間関係で揉めている人たち」をどういう風に登場させるのかが難しかったので、不特定多数のお客さんが気ままに訪れることができ、その会話が聞こえてきて関係性がなんとなく分かる場所、ということで喫茶店を舞台にしました。

また、揉め事をそばで聞いている常連の人たちは、さまざまなお客さんの問題に寄り添えるよう、それぞれが複雑な過去を抱えているという設定にしました。

自分が揉め事の当事者だったら、あるいは近くで話を聞いている側だったら――それぞれの立場に立って考えながら読んでもらえたらうれしいです。

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