留学をしていた彼女を襲ったまさかの出来事とは――(写真:和尚/PIXTA)

「それは、まるで“えのき”のようでした」

出版社勤務の34歳の女性は、食中毒のニュースを聞くとかつて留学先で経験した“つらい”経験を思い出す。そのできごととは――。

交換留学で北欧・オスロへ

女性の名前を横山恵さん(仮名)としよう。

横山さんは、大学在学中の2012年夏から、交換留学のためにノルウェーのオスロに渡ることになった。留学期間は1年間。授業料は返済不要の奨学金でまかなわれ、寮費用・生活費も支給される。勉学に励んだ結果、つかんだチャンスだった。

オスロは静かで美しく、治安のいい街だった。学生寮はキッチン、バス・トイレが共同であるが、一人部屋でプライベート空間は保たれていた。

問題は、ノルウェー物価の高さだった。社会福祉の充実を国策とし、高い消費税が課せられていて、あらゆるものが日本よりはるかに高い。

「当時の消費税は20%。500ミリリットルのコーラが500円しました。ノルウェーに来たからには『サーモン食べなきゃ』と思っていましたが、即、断念しました」と横山さん。

本連載では、「『これくらいの症状ならば大丈夫』と思っていたら、実は大変だった」という病気の体験談を募集しています(プライバシーには配慮いたします)。具体的なお話をお持ちの方は、こちらのフォームにお送りください。

さらに円安が追い打ちをかけた。留学がスタートした2012年8月のノルウェークローネ(NOK:ノック、以下、NOK)は「1NOK、11円台」、これが9月に「1NOK、18円台」になった。

生活費は円が安くなった9月に1年分をまとめて振り込まれた。生活費を1カ月約3万円でやりくりしなければならなくなった。

そんな横山さんを支えたのがパンだ。物価高のノルウェーだが、生活必需品は価格を抑えられており、パンもその1つだった。

楕円形で小麦の外皮や他の穀類の種子、ナッツ類が入ったパンは茶色く、硬く、ずっしりと重い。横山さんは30センチくらいの長さの、1斤10NOK(200円くらい)ほどの一番安いパンを購入して、お腹を満たしていた。

「スライスしたパンに、同じく手頃な値段で買えるチーズをはさんで食べていました。大学のお昼もパンを持参するので、1日3食ほぼ同じものでした」(横山さん)

パンは1週間に2斤を買い、少しずつ食べる。徹底した節約生活だ。留学生の多くは同じような食生活をしていたという。

半年後、その出来事は起こった

さて、半年ほど経ち、生活にも慣れてきたある日、その出来事は起こった。

1限目の授業が始まってすぐ、「キューッ」っとしぼられるような腹痛に襲われたのだ。教室を出て、トイレに駆け込んだ。便座に座ったときには症状は限界MAXで、激しい下痢に襲われたという。

「同時に吐き気も襲ってきて、すぐに吐きました。その後は上からは嘔吐、下からは下痢。もう地獄です。でも、一向によくならない。腹痛もつらく、意識を失いかけました」(横山さん)

吐くものや出すものもなくなっても、症状は続く。それを耐え続け、粘液のようなものも出なくなった頃、症状は落ち着いた。授業はすでに終わっていたから、1時間くらいはトイレにこもっていたことになる。

症状から「食べ物が原因」というのはわかった。しかし、原因がわからない。なぜなら、「その日の朝も、いつもと同じパンを食べただけだったからです」(横山さん)。

ところが、寮に戻ってみると、テーブルの上にあるのは、“横山さんがこれまで見たこともないパンの姿”だった。

パンの表面には、うっすらと白くて雲のようなものが生えていた。近づいてよく見ると、1本1本が糸状になっている。そして、その先が丸く、まるでえのきのよう。――正体はパンに生えたカビだった。

「『原因はこれだ!』と確信し、残りのパンをすぐに捨てました」(横山さん)

季節は12月。ノルウェーのこの時期は1日中ほとんど陽が差さない。暗い部屋で食事をとっていたため、カビに気づかなかった可能性が高いと横山さんは考えた。

パンはプラスチックのパンケースに入れた状態で、部屋に置かれていた。ノルウェーの冬は平均気温がマイナス5℃程度と寒いが、屋内は暑いくらいに暖房が効いているうえ、湿度が高い。これがカビ増殖の温床になっていたのではないかという。

横山さんの体調は幸い、2〜3日で軽快した。食中毒の直後は、パンを見るのも嫌だったが、ほかに安い食材がないため、あきらめて数日後には食べ始めたという。

「ただし、それ以後、パンは冷蔵庫で保管するようになりました」(横山さん)

医師に診てもらおうとは思わなかったのか。ノルウェーは家庭医制度といって、病気やけがなどで診療が必要な場合、原則として指定されている「かかりつけ医」を受診する。専門的な治療が必要な場合は、かかりつけ医から専門病院を紹介してもらうシステムだ。

横山さんにも指定されていた家庭医がいたが、行かなかった。

ノルウェー医療機関が少なく、家庭医が近くにいるわけではないのです。現地の友人たちも、『よほどのことがない限り病院にはいかない』と言っていたので……」

医療機関に気軽にかかることのできる日本が、いかに恵まれているかを強く実感したという。

総合診療かかりつけ医・菊池医師の見解

総合診療かかりつけ医できくち総合診療クリニック院長の菊池大和医師に、横山さんの症状について聞いたところ、「食中毒であることは、ほぼ確定ですね。ただ、原因はカビではなく、“黄色ブドウ球菌”だと思われます」と言う。

黄色ブドウ球菌というと、先日も、うなぎ弁当を食べた160人あまりが体調不良を訴えた集団食中毒事件が記憶に新しい。

カビ食中毒の原因になることはあるが、パンに付いたものを1回食べたくらいで発症することは極めて少ないそうだ。

かたや黄色ブドウ球菌による食中毒は日常的に起こりやすい。

黄色ブドウ球菌は人間の皮膚や、鼻や口の中や髪の毛などにいる常在菌だ。通常は悪さをしないが、何らかのきっかけで増殖すると、その過程でエンテロトキシンという毒素を発生し、それが食べ物を介して体の中に入ることで、食中毒を引き起こす。

典型的なルートとして、調理者の手に付着していた黄色ブドウ球菌が食材に付き、時間の経過とともに菌が繁殖。食材を食べた人に下痢や嘔吐が起こるというものがある。

「黄色ブドウ球菌による食中毒では、原因となる食べ物をとった後、早ければ30分、平均的には2〜3時間で症状が出ます。横山さんの場合、購入したパンに黄色ブドウ球菌がついていた可能性が高いです。その菌が湿度の高い部屋の環境により、増えたのでしょう」

と菊池医師。湿度が65%以上の場所では、細菌が増殖しやすいことがわかっているそうだ。

なお、食中毒と思われる症状があった場合、原因となる食材を体の外に出すことが何よりの対処法。このため、下痢止めは服用しないほうがよく、横山さんの対応は結果的に最良だった。


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また、横山さんは結果的に行かなかったが、医療機関を受診したほうがいいこともある。「1日10回以上の下痢」「吐き気がひどく水分が取れない」などの場合だ。

食中毒で一番怖いのは脱水です。とくに高齢者は脱水により命に危険が及ぶことがありますので、受診をおすすめします」(菊池医師)

黄色ブドウ球菌による食中毒対策

湿度の高い夏は食中毒が起こりやすい。家庭内でも発生しやすいという。菊池医師の話をもとに、食中毒の予防策をまとめた。


夏はバーベキューなど、人が集まって食事をする機会も多い。上記に気をつけながら、イベントを楽しんでほしい。

(菊池 大和 : きくち総合診療クリニック)
(狩生 聖子 : 医療ライター)