辰巳琢郎、大学卒業と同時に朝ドラに出演。きっかけは新聞の小さな記事「なぜか受かる気がしていた」

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高校2年のときにつかこうへいさんの『ストリッパー物語』を見て演劇をはじめ、京都大学在学中に「劇団卒塔婆小町」(現・劇団そとばこまち)の座長となった辰巳琢郎さん。

学生劇団としては初めてアトリエ(稽古場兼劇場)を構え、毎月公演を行うなど、80年代前半の関西学生演劇ブームの立役者として活躍。1984年、大学卒業と同時に連続テレビ小説『ロマンス』(NHK)に出演。

知的な雰囲気と端正なルックスで人気を集め、『連想ゲーム』(NHK)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)などクイズ番組にも多く出演。驚異的な解答率で「芸能界のクイズ王」と称され、“インテリ俳優”の先駆け的存在に。

 

◆学生劇団で初の常設のアトリエを

大学3年生のときに「劇団卒塔婆小町」の座長となった辰巳さん。企画・プロデュース能力を発揮し、学生劇団として初めて自前のアトリエを持つことに。

「学生劇団として自前の稽古場、公演場所、アトリエを持つというのは画期的でした。夢のような話ですよね。東京にお芝居を見に行くたびに自分たちの劇場が欲しいなあって。

たとえば、東京キッドブラザースのシアター365とか、六本木の自由劇場、渋谷ジァンジァンとか…。東大の駒場小劇場とか上智小劇場とか、いいスペースがたくさんありました。京大には西部講堂がありましたが、ボロボロだしまだ学生運動の闘士たちが占拠・運営していて正直怖かった。

そういうアングラ系も含めて、当時は本当に小劇場が元気だった時代で、やっぱり憧れていたわけですよ。それで、とにかく劇団員が手分けして京都中の不動産屋を回って、何十軒も物件を見ました。京都のど真ん中、烏丸御池に34坪のスペースを見つけたときは興奮しましたね」

――アトリエを維持するのも大変だったのでは?

「そのためにどんどん拡大政策。劇団員もすごく増えて、多いときは新入団員を80人もとりました。

入団を希望したけど『劇団そとばこまち』(1979年春あたりから平仮名表記が使われはじめた)は人数が多すぎて頭角を表わせないと他の劇団で活躍した人もいます。代表格は、キムラ緑子さんや演出家の岡村俊一さん。

お金に関してはどんぶり勘定でしたけど、こうすればなんとかなるだろうみたいな感じでした。応援してくれる人もいましたし、時代も良かったんでしょうね。基本は借金でしたけど、歯科医の先輩が『これは返さなくていいから』って、ポーンと寄付してくれたりもしました。

稽古場の改装も全部自分たちでやったんですよ。天井を落としてみんなアスベストとか吸い込んだかもしれません。照明バトン用に鉄パイプを取り付け、壁も天井も真っ黒に塗ったりしてね。手造りの劇場でした。

そのときに集めたお金で照明機材も買ったんですけど、それがまだ現役で今の劇団の連中が使い続けているんです。一部ちょっと壊れたものもあるかもしれないけど、やっぱりそういうアナログのものはいいですね。電球さえ変えれば、40年以上経っても使っていられますから。今のようにコンピューター制御とかになってくるとそうはいかないでしょうね」

――常設の劇場を持っている学生劇団というのは本当に画期的でしたね。

「そうですね。今も昔も学生劇団で自前の劇場、稽古場を持ったところはないんじゃないですかね。持てないと思います。そういう意味で、『劇団そとばこまち』が初めてやったことっていくつかあってね。まず自前のアトリエを持ったのが一つ。

もう一つは企業の協賛をつけて芝居をやるということ。いわゆる冠公演ですね。一番最初は、CABIN85小劇場。今はもう潰れてなくなってしまった広告代理店から、『タバコのCABINの広告予算で、今ブームになっている学生演劇をサポートしたい』という話があったんですよ。

そういう話は、1回目は必ずうちの劇団に来るわけですよ。『劇団そとばこまち』が関西では一番名前が通っていたし、お客さんも入っていたから。

CABIN85小劇場第1回公演は、ミュージカル『オズの魔法使い』。ドロシーやかかし、ブリキ男、臆病なライオンなどオリジナルストーリーの中になぜか『怪物くん』のキャラクターも登場して、僕はドラキュラの役でした。冠公演は大成功で、その後何回も続くことになります」

――すべてにおいて先駆けだったのですね。

「もう一つあります。演劇に年号をつけたこと。これも調べてみたら僕たちがやった『熱海殺人事件’79』が最初でした。多分そういうのは、それまでなかった。映画にはあったんですよ。実はあれは、『エアポート’75』(ジャック・スマイト監督)のパクリだったんです。そのあと今度はつか(こうへい)さんがつけるようになって。つかさんにパクられたんですよ、多分ね。『野生時代』に載った小説『飛龍伝’80』って(笑)。

それから、演劇界に年号をつける作品が多くなった気がします。でもとにかく僕の知る限りでは『劇団そとばこまち』の79年が初めてですね。結構走っていましたね、当時は(笑)。だから、結局大学には3年留年して7年間行きました。ほとんど劇団の活動がメインの生活でしたからね」

 

◆新聞を見て朝ドラのオーディションに

京大に現役で入学したものの、勉強よりも演劇にのめりこみ、7年間通うことになった辰巳さん。最後の2年間はアルバイトをして自分で授業料を払っていたという。

「本当はもう1年早く卒業するはずが、ちょっと厳しい先生がいて、必須だったラテン語だけ単位を落としてしまったので、しゃあないなと思って(笑)」

――ご両親は何かおっしゃっていました?

「京大に入学した当初は結構喜んでいたけど、4年以上経って周囲から『いつ卒業するの?』とか『どこに就職?』って聞かれたら、だんだん肩身が狭くなってきたみたいで、いろいろ言われましたけどね。勝手な話です。

それで、最後の2年間ぐらいは自分で学費も払っていました。当時は授業料が安かったですからね。月8000円でした」

――アルバイトは何を?

「普通に家庭教師をやったり塾の先生とか、夏休みは電気屋さんでエアコンの店頭販売。マネキンというやつです。結構売っていましたね。歩合制でエアコンメーカーから給与が出るんですよ。僕は松下住設。量販店に通って毎日最低限の日当はもらえるし、ナショナルのエアコンを1本売ったら1000円とか、扇風機は100円とか、そういう感じでした」

――それで7年間通って卒業の年に朝ドラ『ロマンス』のオーディションに?

「そうです。そのときは役者になろうとはまったく考えてなかったですけどね。当時は『劇団そとばこまち』のプロデューサーとして名前が通っていましたから、いろんな劇場からプロデューサーにならないかというようなオファーがあったんですよ。まわりのみんなも、つみつくろう(当時の芸名)は多分そっちに行くんだろうな、芝居を作るほうに回るんだろうなと思ってたんじゃないでしょうか」

――『ロマンス』のオーディションを受けたのは?

「新聞はよく読んでいましたから、文化面の小さな記事を見つけて。出会いでしょうね。僕たちの時代は、学生でもみんな新聞をとっていましたからね。今の新聞離れは、時代の流れで仕方がないのでしょうけど。

僕にとって大きな新聞の記事はふたつあるんです。最初は高校2年生のときにたまたま見つけた、『東京で若者に人気のつかこうへいさんが大阪公演します』という記事。10行ほどの本当にちっちゃい記事だったんだけど、それを見つけて友だちと見に行って、つかさんに出会った。

次がNHKのオーディション。『おしんの後、朝ドラは方向転換します。次回作は男が主役になります』という記事。

一応、NHKともつながりはありました。当時は学生演劇のリーダーとして知られていて、ラジオ番組とかワイドショーとか、いろんな番組に出たりしていたんですよ。それで連絡してみたら、もう締め切っていたんです。でもその方がかけあってくださりオーディションを受けられることになりました。どこに出会いがあるかわからないですね」

――受かったと聞いたときはいかがでした?

「2次試験ぐらいから、なぜかずっと受かる気がしていました。最初の書類審査で1回面接をして、それから何人かに絞られて3次試験、4次試験と進んでいくんですけどね。京都から東京に通って、先に卒業してTBSに就職していた後輩のアパートに泊めてもらいました。それで結局主役は榎木(孝明)さんに決まりました。

彼は僕より2歳半年上なんです。先輩として腐れ縁って言うと何か変ですけど、すごく縁が深いんだろうなと思いますね。いろんなところで出会ったりしますし、同じ浅見光彦役を違う局でやっていたり、本当に不思議なご縁です」

――いきなり朝ドラだとリハーサルはあるし、撮影も通常のドラマとはまた違って大変だったのでは?

「榎木さんが主役で僕は2番手でしたから、そこまでビチビチじゃなかったです。何もかもが物珍しくて、深く考えずにやっていたんでしょうね。

年齢も年齢ですし、東京に出てきて新しい現場、社会に入って。新入社員って、就職するってこんな感じなのかなと思っていました。社員食堂もあるし、ちょっと高かったけど、中目黒にマンションを借りて一人暮らしをはじめました」

――大学の卒業式には?

「東京で撮影だったから出られなかったんですよね。それで、2、3カ月後に大阪に戻ったときに、大学に卒業証書をもらいに行きました。それはよく覚えています。

でもそれが残念で、翌年かその次の年、卒業式に遊びに行って劇団の後輩たちにアトリエにたくさんあった白いタキシードを着せて目立たせるという演出もしたんです。それが今の仮装卒業式の走りかもしれません」

 

◆朝ドラ撮影後、劇団に戻るつもりだった

『ロマンス』で全国デビューした辰巳さんは、知的な雰囲気と端正なルックスで人気を集め、“インテリ俳優”の先駆け的存在に。

「『ロマンス』に出た後も劇団に戻るつもりではいましたけど、少しずつ仕事が入るようになって。大映テレビさんから『少女に何が起ったか』(TBS系)のお話をいただいて、しばらくはピアノの練習をしたりしていましたね。キョンキョン(小泉今日子)の相手役というすごく良い役でした。

でもそれほど売れっこになったわけじゃなく、そろそろ関西に戻ろうかなと考えていた頃でしょうか。1988年に『連想ゲーム』(NHK)が決まって、ちょっと風向きが変わってきた」

――解答率が高くてすごかったですよね。“インテリ俳優”の先駆け的存在に。

「そういう形で一応注目されたので、ありがたかったです。当時は結構珍しいほうだったんでしょうね(笑)。ドラマ以外では初レギュラーだったのですが、子どもの頃から見ていた番組というか、大好きな番組だったのですごくうれしかったですね」

1991年、辰巳さんは『もう誰も愛さない』(フジテレビ系)に出演。このドラマは愛に飢えた若い男女(吉田栄作・田中美奈子)が金と愛欲の果てに犯罪を重ねていく様を描いたもの。辰巳さんは、ヒロインの愛人で一見物腰やわらかな紳士だが冷酷で嫉妬深い不動産企業の青年社長・米倉俊樹役。

――地上げ屋として成り上がり、金と暴力で女を服従させる男の役というのは、それまでのイメージとまったく違いましたね。

「そうですね。あれはおもしろかったですよ。おもしろかったというか、同じような役を演じるのは、実はあまりおもしろくないんですよ。何か決まったようなキャラクター、色がついてしまったら、なかなかそれを壊しにくい。

そういう意味でおもしろかった。もともと飽きっぽいほうなので、いろんなことをしたいなというのがあるんですね。だから、これもアリかな…みたいな感じでした」

――社長からチンピラ同然の生活に転落しますが、実は彼女のことを深く愛していて彼女のために命を落とすことに。放送をご覧になって、ご自身ではいかがでした?

「僕は何か恥ずかしくて、あまり自分が出演した番組を見ないんですよ(笑)。撮影した後に1回プレイバックして、自分のシーンをチェックはするんですが…もともと学生時代以来、あまりテレビを見ない生活なんです。テレビ業界にいながらテレビをあまり見ないのはプロとして失格だったなと最近は反省していますが…」

同年、『辰巳琢郎のくいしん坊!万才』(フジテレビ系)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)の放送もスタート。1994年には、『浅見光彦シリーズ』(TBS系)も始まり、全13作に主演。

次回は撮影エピソード、2024年4月26日(金)に幕を開ける舞台『ワインガールズ』、ワインのプロデュース、近畿大学文芸学部客員教授としての活動も紹介。(津島令子)

ヘアメイク:釣谷ゆうき