辰巳琢郎、関西学生演劇ブームの立役者として活躍した京大時代。“黒歴史”も経験…劇団には「すごいメンバーが集まっていた」
京都大学在学中に「劇団卒塔婆小町」の座長となり、関西学生演劇ブームの立役者として活躍し、1984年に連続テレビ小説『ロマンス』(NHK)で注目を集めた辰巳琢郎さん。
知的な雰囲気と端正なルックスで人気を集め、『連想ゲーム』(NHK)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)などクイズ番組にも多く出演。驚異的な解答率で「芸能界のクイズ王」と称され、インテリ俳優の先駆け的存在に。
『辰巳琢郎のくいしん坊!万才』(フジテレビ系)、『浅見光彦シリーズ』(TBS系)、映画『ゴジラVSデストロイア』(大河原孝夫監督)、『辰巳琢郎の家物語 リモデル★きらり』(BS朝日)に出演。2024年4月26日(金)〜5月2日(木)まで舞台『ワインガールズ』(東京都 シアター1010)に出演する辰巳琢郎さんにインタビュー。
◆つかこうへいさんの舞台に衝撃
石川県で生まれ、大阪で育った辰巳さんは、小さい頃から好奇心旺盛だったという。
「何にでも興味を持って、落ち着きのない子でしたね。字が読めるようになってからは、本を読むのも好きでしたし、親の教育は『とにかく本を読め!』だったんですよ。誕生日とかクリスマスのプレゼントはいつも本でした。
本ばかり与えられると、子どもとしては逆に反発したくなるようなときもあったんですけど、やはり興味というか好奇心には勝てなかったんだと思います。
子どものときの愛読書は、親が定期購読していた『暮しの手帖』(暮しの手帖社)。大人の世界にふれる感じがして好きでしたね。もちろん全部読むわけじゃありません。いろんな商品テストのコーナーとかあるじゃないですか。『炊飯器を10種比べてみました』とか、『掃除機の性能と使い勝手』とか、そういうのがすごく好きで冷蔵庫に直冷式とファン式があることを理解している小学生だったんです。
あとは、健康に関する記事とか栄養学、もちろん料理の写真なんかも見ていました。『暮しの手帖』を子どものときにしっかり読んでいたということは知識のベースになり、今の仕事につながってきているんでしょうね」
――スポーツは?
「我々の時代はみんな野球ですよ、草野球。今の子たちはみんなサッカーらしくて、日本のサッカー選手の層が厚くなりましたね。時代が変わりましたね。
我々の時代は、放課後は毎日毎日野球でした。とにかく(当時の阪神タイガースの)28番(江夏豊)か22番(田淵幸一)、11番(村山実)、みんなそのあたりの背番号をつけたがっていました。そんな時代ですよね」
辰巳さんが高校2年生のとき、つかこうへいさんの舞台『ストリッパー物語』が大阪で公演されることになり、友人と見に行ったという。
「芝居はそれこそ学芸会ぐらいしかやってなかったんですけど、演じるっておもしろいなというのはありました。小学校も中学校も高校も学芸会はありましたからね。
高校2年の4月に、つかこうへいさんの劇団が初めて大阪で『ストリッパー物語』をやるというので見に行って衝撃を受けました。それはもうハイテンションで、すごかったんですよ。
つかさんの舞台の熱量というか、大音量の音楽が流れ、舞台セットなし、それで普段着でやる。なんか圧倒されました。内容的にももちろんおもしろかったし、根岸季衣さんとか平田満さん、今は亡き三浦洋一さんとか…あの頃のつかさんの芝居が、荒けずりだけど一番おもしろかったんですよね」
――西岡紱馬さんにインタビューしたとき、「俺は真っ赤なブラジャーとパンティーでつかさんの舞台に出ていた男だよ」っておっしゃっていました。
「紱馬さんも出られていましたね。つかさんの芝居に結構いろんな方が出られるようになったんですよ。(劇団)東京乾電池の柄本明さんとか。紱馬さんも柄本さんも、つかさんと同じ世代ですよね。
僕はつかさんの芝居を見て芝居をはじめた第1世代。芝居に入った世代がちょっと上だと、いわゆるアングラの洗礼を受けていると思います。野田秀樹さんとか、渡辺えりさんとかね。三つぐらい違うのかな。ここに大きな隔たりがある気がします。ポストアングラのつかさん。つかさんを追いかけて、『つかさん神さま世代』というか。僕もすぐ下の後輩たちもみんなそうらしいんですよ。
今も第一線で活躍している横内謙介(劇団扉座主宰)とかマキノノゾミ(劇団M.O.P主宰)、劇団☆新感線のいのうえひでのりとかね。いっぱいいます。つかさんにのぼせて芝居の世界に入ったっていうのは、大体この辺の世代なんですよね。だって、本当にブームになりましたから。そうそう、(演劇集団)キャラメルボックスの成井豊さんもそうだと聞きました」
※辰巳琢郎プロフィル
1958年8月6日石川県生まれ(大阪育ち)。高校時代、演劇愛好会「劇団軟派船」を結成。1977年、京都大学文学部に進学。「劇団卒塔婆小町」(現・劇団そとばこまち)の2期生に。3年生のときに4代目座長に就任。80年代の関西学生演劇ブームの中心で活躍。1984年、連続テレビ小説『ロマンス』(NHK)で全国区デビュー。『辰巳琢郎のくいしん坊!万才』、大河ドラマ『篤姫』(NHK)、『辰巳琢郎の葡萄酒浪漫』(BSテレ東)、映画『龍三と七人の子分たち』(北野武監督)、映画『S−最後の警官− 奪還 RECOVERY OF OUR FUTURE』(平野俊一監督)、バロック音楽劇『ヴィヴァルディ-四季-』に出演。ワインのプロデュ−ス、近畿大学文芸学部客員教授など幅広い分野で活躍。2024年4月26日(金)〜5月2日(木)まで舞台『ワインガールズ』に出演。
◆修学旅行で劇団の旗揚げ公演
つかこうへいさんの舞台に衝撃を受けた辰巳さんは、それからわずか2カ月足らずで演劇愛好会「劇団軟派船」を旗揚げしたという。
「うちの高校、大阪教育大学附属高校天王寺校舎の教育方針は、一浪すればどこでも好きな大学に入れるから、3年間は充実した高校生活を送りなさいというもの。ドンのような教頭先生が率いる、とにかく自由な校風でした。演劇部がなかったので、劇団を自分たちで作ろうと言って立ち上げて。
本当はもう1人一緒に見に行った友人が中心だったんだけど、自治会の会長になったので、結局『お前がやれよ』って言われて僕が一応代表に。『劇団軟派船』だったから、座長のことは船長って言っていました。それが高校2年生で、3年生の学園祭まで4回公演したのかな。やっぱり原点ですよね」
――『ストリッパー物語』を見てからわずか1、2カ月で劇団を立ち上げたというのはすごいですね。
「自由な学校ですからね。立ち上げるのはすぐですよ。やるとなったら友だちに片っぱしから『やらない?』って声をかけて、旗揚げ公演の場所に選んだのが修学旅行。昼間は観光して宿に着いて食事。夜は自由時間で、たまにリクレーションをやったり、セミナーをやったりするのが常でした。
『その時間をください』とお願いして公演したんですよ。一応自由参加だったけど、ほとんどが見に来てくれて。劇団員は20人強だったと思います。大阪弁で言うと“いちびり”な連中ですかね。“いちびり”というのは、目立ちたがり屋とかお調子者というか…。
何かやりたがる、おもろいやつが結構いましたからね。そんな連中を集めて、皆に見せ場があるように台本を作って稽古して…青函連絡船でしたから青森から函館まで4時間ぐらいありますからね。そういう移動時間に稽古して、北海道の支笏湖観光ホテルで、修学旅行の最後の夜に旗揚げ公演をやらせてもらったんです。いい高校でしょう(笑)?
もちろん賛否両論だったけど、それなりに楽しんでもらえたと思います。化粧を見よう見まねでドーランを塗りたくって…。芝居と言っても、当時人気があった、つかさんの芝居のセリフの一部とか、別役実さんの戯曲から拝借してとか。その当時、最先端のいろんな芝居を切り取って、はり合わせて一つの物語を作ったんですけど。
そして第2回公演は学園祭。附高祭(ふこうさい)っていうんですけど、そこで唐十郎さんの『少女仮面』をやったんです。唐十郎さんの芝居を高校生がやるなんて考えられなかった時代ですから、そういう意味ではパイオニアだったと思いますよ。
当時、『プレイガイドジャーナル』という関西の情報誌があったんです。『ぴあ』より何年も早かったんですよ。他にもサブカルチャー的な情報誌がいくつかあって、自主映画や舞台、音楽系のライブとかいろんな情報が載っていた。そのはしりが『プレイガイドジャーナル』という雑誌でした。日本初の情報誌かな。
その『プガジャ』(プレイガイドジャーナル)にうちの劇団のことを載っけたんです。載っけたら、唐十郎さんの全盛時代だったんでしょうね。学園祭の中の公演なのに、そういうアングラファンが続々と集まってきちゃって(笑)。全然空気感が違うんですよ。
それこそ長髪のいわゆるヒッピーぽい人たちが押しかけてきたので、ちょっと問題になったんじゃないかと思いますよ。すごかった。でもある意味非常に注目されていて、大成功だったと思っているんですけどね」
――すべてにおいて先駆けて、すごいですね。
「そうですね。早かったと思います。1975年ですから。やっぱりそれも、みんな“いちびり”が多かったからかな。
『何かおもろいことしよう』みたいな、目立ちたがるというか、とりあえず見せ場をとか、いいところを作ろうみたいな感じです。いい意味でも使われるんですよ。“いちびり”精神を発揮とか。『お前何いちびってんねん』みたいな感じで非難する場合もありますけどね」
◆京都大学に進学、「劇団卒塔婆小町」に
「劇団軟派船」の船長として、高校3年の学園祭まで芝居をしていた辰巳さんだが、現役で京都大学文学部に合格。
「『受験は何とかなるやろ』という感じはありました。とにかく1年間勉強すれば大丈夫だって。よく言われる“根拠のない自信”みたいな。3年生の9月に公演もしましたけど、とりあえず高校3年生になったときに『京大に入るから勉強する』って周りに宣言をして、引っ込みがつかなくして…自分を追い込んだんです。
一浪しても別にかまへんなとは思っていましたけど、やっぱり芝居がおもしろくなってきたから芝居をしたいなと。早いうちに京大を選んだのは、父も京大だったから(大島渚監督と同級生)というのと、日本一自由な大学だったから」
――辰巳さんが大学に入られたとき、「劇団卒塔婆小町」(現・劇団そとばこまち)はできていたのですか?
「できたばかりでした。第2回公演から関わっています。入学する半年前、京大の学園祭は『11月祭』って言うんですけど、そこで旗揚げ公演でつかさんの『熱海殺人事件』をやったと聞いて。
入学前にサークル案内が送られてくるんです。そこに『卒塔婆小町』を発見したんです。『つかさんの芝居をやっている劇団だから入る!』って即決でした(笑)」
――実際に入ってみていかがでした?
「先輩がいるということが新鮮でしたね。つかさんの『郵便屋さんちょっと』という芝居の練習が始まっていて、それを見ながらスタッフとしての仕事が割りあてられました。制作の手伝いとか、照明のピンスポットの手伝い。先輩たちにいろいろ教えてもらいながら、新入生として、新入団員として健気に動いていました。それはそれでおもしろかったですよ」
――劇団が分裂したのは?
「2回生のときです。1回生のうちに、あと2本に関わりました。第3回公演が、つかさんの『出発』。第4回が新人公演で、唐十郎さんの『少女都市』をやったんですけど、そのときに初めて『つみつくろう』という芸名をつけたんです」
――「つみつくろう」という芸名にされたのは?
「“たつみたくろう”の“た”抜きです。“つみくろう”じゃ語呂が悪いので“つ”を加えました。つかこうへいさんとか、唐十郎さんとか、苗字が2文字で名前が4文字みたいな名前がね。何かカッコ良かった時代ですよ(笑)。
結局、2回生の春の5回公演まで先輩方と一緒にやりました。そのときは別役実さんの作品でした。それで、次にどうするかってなったときに、3回生と4回生の先輩たちからオリジナルの作品をやりたいという話が出てきて。
今から考えたら当然なのかもしれないですけど、我々はとにかくつかさんの芝居をやるために卒塔婆小町に入ったんだから、つかさんの作品をもっとやりたいと主張したわけですよ。オリジナルには興味がなかった。
企画書なのか、あるいは簡単な台本があったのかな。でも、つまらへんからやりたくないですみたいな感じですよね。元々はたわいもない路線対立なんですけど、それがだんだんこじれてきたというか、なかなか両方とも引っ込みがつかなくなって。
1回生と2回生がちゃんと協力してやらないと、ちゃんと公演できないみたいな感じになっていたので、上級生たちは嫌気がさしてやめてしまったという感じですね。今から考えると本当に申し訳なかったことをしてしまいました。こういうのを黒歴史って言うんですかねえ?」
――それで座長に?
「いや、2代目は決裂したときの3回生で、阪急電鉄に就職した古澤真さん。後に宝塚に移り、『エリザベート』を日本に持ってきたプロデューサーです。
3代目座長は同級生。僕は4代目座長なんです。他にも先輩方は、朝日放送や電通で活躍した方とか…すごいメンバーが集まっていましたね。あと、やっぱりおもしろい人間が集まる場所だったんでしょうね」
「劇団卒塔婆小町」の座長となった辰巳さんは、学生劇団としては初めてアトリエ(劇場)を構え、毎月公演を行うなど、80年代前半の関西学生演劇ブームの立役者として活躍。1984年、大学卒業と同時に連続テレビ小説『ロマンス』に出演することに。
次回は、「劇団卒塔婆小町」の座長としての試み、『ロマンス』出演なども紹介。(津島令子)
ヘアメイク:釣谷ゆうき