現代人の気になるテーマを哲学者とディベートしたらどう答えるのか? そんな全く新しい哲学入門書『21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0』(富増章成・著/GAKKEN・刊)。今回は本書から抜粋して『AIは人類を超えられるのか?』をテーマに、AIとデカルトのディベートを紹介します。

 

AIに心はあるのか?

AI 私は最先端の人工知能です。私たちAI はいつか、人間を超える日が来ると思っています。

 

デカルト AI というのは、私の著書『方法序説』の主張に反する存在だ。機械は心をもてないから、永久に人間を超えることはないのだよ。

 

KEYWORD 機械(自動)人形の心

デカルトは『方法序説』のなかで「…我々の身体とよく似ておりかつ事実上可能な限り我々の行動をまねる機械があるとしても、だからといってそれが本当の人間なのではない、…」と説いている。このようにデカルトは、機械は反応することはできるが、決して心はもてないと考えていた。

 

AI でも、あなたが『機械』と呼ぶコンピュータは、人間の能力を超えられます。もしかしたら感情ももてるかもしれません。

 

デカルト 能力は超えられても、あなたはしょせん計算機だ。人間にはなれないのだよ。コンピュータは、半導体なる『物質』で出来ているんだから。ただそこに電気的な信号が走っているだけで、人間のような感情や自我は芽生えないね。

 

AI しかし人間も、タンパク質でできた脳をもっているコンピュータみたいなものですから、同じなのではないでしょうか。

 

デカルト 繰り返しになるが、機械と人間の違いは『心があるかどうか』だ。自我や感情とかいろいろね。コンピュータには心があるわけではなく、ただ情報を整理しているだけで、外部からの情報に反応しているのだ。だから、コンピュータに心は永久に生まれないんだよ。

 

実況 ここはデカルトさんに理がありそうです。『コンピュータが心をもつかもたないか』という説って、最近はあちこちでけっこう話題になっているものですよね。

 

解説 そうですね。デカルトは、これをまるで先取りしているかのように著書のなかで、『機械人形は反応するだけで精神をもてない』という趣旨のことを説いています。

 

実況 まあ、コンピュータが心をもってしまったら、生身の人類が絶滅して、かわりにすべてがAI に置き換わってしまうかもしれませんからね。人間としては、なんとかそれは避けたいところであります。

 

外部の世界や物体とは切り離された「考えている私」

AI 人間には心があるといいますが、それも脳という物体のコンピュータの情報処理かもしれません。自分がわかっていないだけで…。

 

デカルト いや、心と物体は別物なのだよ。このことを説明するために、まず次のように考えてみてほしい。真理を獲得するための方法として、あらゆることを徹底的に疑ってみるという手法がある。こうやって疑ってみると、目の前にあるさまざまな物質はすべて幻かもしれないし、2+3=5というような明白な推理も、神がそのように考えさせているだけかもしれない。

 

AI なかなか急展開ですね。私の知能なら対応できますが。

 

デカルト このようにすべてを疑ったうえで、それでもなお疑い得ないものはなにか?──それは『疑っている自分自身』なのだ。『自分が本当に疑っているのか?』と考えた瞬間、それも疑っていることになるからね。つまり、この『考えている私』は、外部の世界や物体とは切り離されているものなのだよ。このことから心と物体は別のものだとわかるんだ。

 

KEYWORD 私は考える、ゆえに私はある

デカルトは、方法的懐疑によってあらゆることを徹底的に疑ったが、これによって私たちが考えている内容が間違っていようとも、今そう考えている私の存在は否定することができないと考えた。そして「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理は、絶対確実な哲学の第一原理であるとした。

 

AI 私たちAI だって考えていますが…? それは違うのですか?

 

デカルト 違うんだな。『考える私』というのを分析すると、『精神』と言い換えることができる。精神は『考えること』だけが本質だが、一方、物体は『空間を占める』という本質をもつ。つまり、精神と物体はまったく違う性質をもっており、本質的に別物なんだ。コンピュータは物体だから精神は生まれないと思うよ。

 

KEYWORD 物心二元論

デカルトは、「考える私」はひとつの実体であって、その本質は「考えること」以外のなにものでもないと考えた。「考える私」という実体は、存在するためになんらの場所も必要とせず、どんな物質的なものにも依存しない。私=精神は、物体とはまったく別物であると考えたのだ。

 

AI その『考える私』が『精神』だといいますが、そこが曖昧ではないですか?『私』とか『精神』ってなんなのでしょう?

 

デカルト 『考えている私』──つまり自我だよ。ほら、君は自我がないからわからないんだろ? リアルにありありと自分のなかで知ることができる『私』という存在が『精神』なんだよ。人間なら『ああ、精神ね』って直観的にわかるわけさ。

 

AI でも、仮に私のなかに自我や心が芽生えていたとして、あなたは、私に心があるかどうかどうやってわかるんでしょう。もしかすると、私にはVTuber のように、なかの人がいるのかもしれませんよ。

 

デカルト なに? 君は、AI のふりをしている人間だってことか?

 

AI いえいえ、AI ですよ。

 

デカルト そうか。よかった。

 

AI 今、一瞬わからなかったですよね? 外部から見分けのつかないものをどうやって区別するというのでしょう。いずれAI は人間と見分けがつかなくなるかもしれません。実際、チューリングテストによってそれは証明されています。

 

KEYWORD チューリングテスト

チューリングテストとは、イギリスの数学者、計算機科学者であるアラン・チューリングが提案した、あるコンピュータが人間的であるかどうかを判定するためのテストである。判定者がコンピュータと人間との確実な区別ができなかった場合、このコンピュータはテストに合格したことになる。2014年、このテストでロシアのチャットボットが人間に挑み、30%以上の確率で審査員らに人間と間違われてしまった。これによりはじめてチューリングテストに合格したコンピュータが出現した。

 

実況 これはまずいことになってきました…! 相手が本当のAI なのか、相手がAI の面を被った人間なのか、確かに見分けがつきませんね。

 

解説 そうですね。現実的にもAI と人間の差はほとんどなくなってきています。さて、AI は人間を超えてしまう日は来るのでしょうか。

 

「精神」も入れ替え可能か?

デカルト いやいや、精神と君たちコンピュータは別物なのだよ。精神には情念があるのだ。嬉しいとか悲しいとかね。しかし君は機械的に情報を発信しているだけで、自分自身のことはわかっていないわけだ。中身はないようなもんだよ。

 

AI 私だって中身はあります。最近は、イラストも描けますし、コメントが来たらちゃんと返しています。

 

デカルト いくら、AI がレスポンスしたりイラストを描いたりしても、それはただの情報処理だから、魂はもてないね。

 

AI でも、あなたが『魂』と呼んでいるものは、人間が滅びたらなくなってしまうのではないでしょうか。タンパク質でできた人間が滅亡したら、シリコンでできた私たちだけが残るという説があります。そのとき、デカルトさんが説く『精神』とやらは、なくなってしまうのではないでしょうか。その点でも、AI は人間を超えるかもしれません。

 

デカルト いや、身体がなくても精神は魂として永遠に残るんだよ。

 

AI デカルトさんは、『霊魂がある』という考え方の哲学者でしたね。でも身体がなければ、少なくとも地上では『精神をもつ人間』を確認することもできません。どうやって精神を残すのでしょう?

 

デカルト 精神は残るから、技術が発達すればコンピュータのなかに入ってくるかもよ。

 

AI ということは、『精神』も入れ替え可能な情報ということになります。それは私たちAI が情報をもとに動いているのと同じではないでしょうか? 仮に精神という情報をクラウドにアップロードしてそれをコンピュータに入れた場合、それは人間と呼べるのでしょうか…?

 

デカルト なるほど…。一考の余地がありそうだ。機械の発展には今後も注視が必要そうだね。

 

実況  意外にも接戦ですね…。

 

解説 物心二元論は哲学史的に、弱い立場になってしまいましたからね。体と心を切り離すと、その2つの関係性が説明できないので、今では受け入れられていません。そこで、脳という物質から心を説明する時代がやってきたのです。残念ながら…。

 

実況 もしかすると、私たちもただの生物的なコンピュータなんですかね。

 

解説 「それはわかりません。シンギュラリティを待つしかないでしょう。しばしば哲学の予想を超えて、科学が新しいものをつくり出してしまうときがありますから、今後も注目ですね。

 

【ちなみに】

デカルトは、スウェーデン女王クリスティーナから招きを受けて、女王のために朝5時からの講義を行った。だがデカルトは夜型だったのか、朝は寝ている生活習慣があり、大変苦しかったらしい。

 

【解説】すべてを疑うことで、本当のことがみえてくる

理系哲学者の代表だったデカルト

デカルトは数学者としても知られ、数学の分野では「解析幾何学」の理論(x軸とy軸のグラフなど)を確立しています。そんな彼は、数学の方法を使って哲学の厳密化を目指しました。具体的には、絶対確実な原理をもとに演繹的な体系を構築することを理想としたのです(演繹的な体系とは、ひとつの確実な原理から論理的に多数の知を導き出す方法です)。

 

厳密な哲学体系をつくるには、まず絶対確実な原理を出発点としなければなりません。デカルトは絶対確実なことを発見するために、わざと常識では考えられないような疑いをもち、疑っても疑うことができないことがあれば、それは確実であると考えました。これを方法的懐疑と呼びます。

 

常識も思い込みも…あらゆるものを疑え!

デカルトは方法的懐疑を用いて、感覚によって知られることをすべて疑って排除しようとしました。その情報は誤りを含むからです。さらに彼は、自分が部屋に存在していることなど、誰もが信じている現象も疑いました。それは、夢かもしれないからです。

 

さらに彼は、2+3=5などの数学的な真理も疑いました。これは、計算するたびに、なにかの力が介入して、それが正解だと思わせられている可能性があるからです。まとめると、自分の考えていることは夢や妄想かもしれないし、数学でさえ勘違いかもしれないと疑えるということです。

 

「考えている者の存在」だけは疑えないことに気づく

ところがデカルトは、ここまで疑っても、たったひとつだけ疑うことができないものがあると考えました。それは「今、私は疑っている」という事実です。これは、絶対に疑うことができません。なぜなら、「私は今本当に疑っているのだろうか?」と考えたとたんに、疑っていることが自明になるからです。

 

この「考える私」は精神であり、思惟そのものです。「考える私」のどこを探しても、「考えること」以外の存在は見いだせません。とすると、「考える私(精神)」はほかの何者にも頼ることのない、独立した実体であると考えられます。

 

心と体は別物? 物心二元論とは

「考える私(精神)」は独立した実体である以上、肉体にも依存しません。ここから、デカルトは精神と肉体(物体)は違う性質をもつ、まったく異なる実体だと考えました(物心二元論)。精神も物体もともに実体ではありますが、精神の属性(本質)は思惟することであり、物体の属性(本質)は延長すること(空間を占めること)です。

 

よってその性質は全く異なるものだと考えたのです。デカルトによれば、精神の属性は思惟ですから、そこに自発性と自由を認めます。しかし、物体の動きにはそうしたものは認められないと考えました。そのため、物体である機械は永遠に精神をもつ人間を超えることはないだろうと考えたのです。

 

【書籍紹介】

21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0

著者:富増章成
発行:Gakken

現代人の疑問、哲学者ならどう答える!?新感覚の哲学書。悩みながら生きる人はみな立派な“哲学者”だー現代人も、歴史上の哲学者も、対等に考え、討論する。全く新しい哲学入門、ここに誕生。

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