江川卓がセンバツでまさかの敗退 勝った広島商の達川光男はプロ入り後に知った事実に驚愕した
前編:「打倒・江川卓」広島商の監督はハナから打つことをあきらめたはこちら>>
広島商の機動力に屈した江川卓(写真右)と亀岡偉民の作新バッテリー photo by Sankei Visual
センバツ出場がかかった前年の中国大会から、広島商のショートを除く内野手はすべて1年生だった。まずファーストの町田昌照は、江川卓と対決した様子を克明に語ってくれた。
「監督の指示で『インコースにかぶされ。真ん中から外を狙え!』と。5回までは三振してもいいから球数を投げさせろと言っていました。とにかく『逃げるな』の一点張りで、『江川の球が当たったら死ぬかもしれねぇ。その時はちゃんと線香あげてやるから』なんて言っていましたね(笑)。
追い込まれるまでは待てという指示なので、ジッとしていると球筋がよく見えるんです。1球目、ふつうのピッチャーだとショートバウンドになる軌道が、ググッと伸びてきてストライクです。そして2球目は頭のほうに来たんです。『やばい、当たった。死ぬ』と思ったら、すごいブレーキでストンと落ちてストライク。これを今から打つのかよと思いました」
サードの浜中清次は、江川についてまったく別角度で話してくれた。
「ピッチャーより、バッター江川さんに驚きました。たしか6回表ワンアウトで、江川さんが打った打球は真正面の強烈なゴロ。打球の速さにびっくりして、グラブにかすりもせずトンネルです。後にも先にもグラブにかすらずトンネルしたのは、あの1回だけです」
セカンドの川本幸生の江川評はこうだ。
「想像以上に速かったですね。ワンバウンドだと思ったボールが低めに決まる。相手にリズムをつくらせない。キューバの160キロのピッチャーを見たことがありますが、江川さんほどではなかったです」
ちなみに川本は1985〜89年、2006〜07年と2度、広島商の監督を務めた人物である。1988年夏の甲子園で全国制覇を果たしたが、準々決勝で津久見高(大分)と対戦し、大会屈指の好投手・川崎憲次郎(元ヤクルトなど)を打ち崩すために選手に言った言葉がある。
「あの江川と対戦した時も5回までに100球以上を投げさせた。川崎は江川ほどではないから、5回までに100球以上投げさせられる」
この夏、広島商は大会記録となる26犠打をマークしている。川本が現役時代に叩き込まれたバントの重要性を、あらためて証明する結果となった。
【140イニングぶりの失点】一方の江川だが、広島商戦は首をかしげる場面が多かった。初回に2三振を奪ったが、いずれもフルカウントからである。2回は4番から三者連続四球。得意のストレートが浮き、ことごとくボール判定。明らかに調子がおかしい江川は、これまで経験したことのない8四球を記録した。
その一方で、4回に大会通算55個目の三振を奪い、43年ぶりにセンバツ記録を更新。結局、この試合で11個の三振を奪い、大会通算奪三振記録を60とした。今でもこの記録は破られていない。
0対0で迎えた5回表、作新が広島商のサウスポー・佃正樹をとらえ1点を先制。スタンドが大いに沸く。だがその裏、広島商にもチャンスが訪れる。一死二塁で、佃がライト前にタイムリーを放ち同点。江川の連続無失点記録は139イニングで止まった。
5回終了後、広島商の部長・畠山圭司はベンチに響き渡るほどの大きい声で言った。
「江川104球、おまえらの勝ちじゃ」
それまではベンチの指示どおりに動いているだけで、選手たちは"怪物"江川の前に飲み込まれた感があったが、このひと言で勇気を与えた。
そして8回裏、試合は大きく動く。先頭の金光が四球で出塁。次打者は三振に倒れたが、一死後、3番・楠原基がわざと空振りし金光がすかさず二盗を決める。楠原は内野安打で出塁。4番は三振に倒れ二死一、二塁となり、ここで江川と亀岡(旧姓・小倉)偉民のバッテリーはひと息つく。この間(ま)を迫田は見逃さなかった。5番打者の3球目にダブルスチールを仕掛けた。
キャッチャーの亀岡はすかさず三塁に送球するが、ボールは高く逸れてレフトを転々とする間に金光がホームに還り広島商が勝ち越し。
亀岡はこのシーンを、今でも鮮明に覚えている。
「金光が二盗した時、思いきり投げたらセンターまでボールがいったんです。ちょっと力が入りすぎかなと思っていたら、余計に力が入ってしまって......。これまでサードに暴投したことがなかったから、レフトもカバーしていませんでしたし、思いきり放ったからフェンスまで達しましたね。悠々のホームインでした」
試合は2対1で広島商が勝利。江川がついに敗れた。広島商の心理作戦と奇襲で、江川を攻略したのだ。広島商の機動力にやられた感はあるが、ピッチング内容は本来の調子とはほど遠いものだった。広島商の待球作戦や4連投の疲労など、敗因はいろいろ挙げられているが、じつは体調不良が原因だった。
【試合前日に首を寝違える】前日、雨で1日順延となったため、江川は午前中に室内練習場で軽めのピッチングをし、午後から休養をとっていた。その時、大広間のソファーで寝ていた際、首を寝違えてしまったのだ。寝違えた江川は、ランナーが出ても首が痛いため牽制ができず、盗塁はされ放題だった。
のちに広島カープの正捕手として活躍し、プロでも江川と対戦を重ねた当時の広島商のキャッチャー・達川光男が、このセンバツ大会のことを克明に語ってくれた。
「秋の中国大会からセンバツまでの間、江川のことは噂レベルでしか聞いていなかったが、センバツでは"論より証拠"、本物を見てしまった。見た瞬間、あの球を打つにはどうすればいいかと本気になった。それまでは守り勝てばいいと思っていたが、それじゃ無理だと思った。江川レベルの投手は打ち返さなくてはダメ。各々が全体練習後にティー打撃500球をノルマに個人練習をやった。どんな強豪校であろうと、同級生にすごいのがおったらそいつを打ち崩すためにやるのが高校野球というもの。
プロに入って、江川から首を寝違えていたと聞いて、それであのボールかと驚愕した。盗塁でかき回すことができたのは、首の痛みでランナーが見えなかったから。本来、投げられる状態じゃないのに、あれだけのピッチングをした。あらためてすごい男だと思った」
作新に勝った広島商は、決勝の相手が横浜高になり「楽勝」と思ったという。今でこそ甲子園常連の強豪校だが、当時はまだ新興校。広島商からすれば格下相手に思えたが、予想外の展開となる。
その理由は、江川を攻略したことである種の「燃え尽き症候群になってしまった」と監督の迫田をはじめ、当時のメンバーが胸の内を明かした。
決勝は延長11回表、横浜の冨田毅が2ランを放ち、3対1で横浜が勝利して初優勝を果たした。試合後、横浜高の監督・渡辺元智はこう語った。
「まだ目標が残っています。夏こそ、自分たちの手で江川くんを打ち崩したいです」
渡辺はあくまでも力対力で倒してこそ、"打倒・江川"の本懐であると思っていた。夏の戦いは、もう始まっていた──。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している