野球人生を変えた名将の言動(13)

掛布雅之が語る吉田義男 後編

(中編:岡田彰布監督と吉田義男監督の共通点「守り重視」と「起用法」>>)

 掛布雅之氏に聞く吉田義男監督とのエピソード。後編では、1985年開幕間もない巨人との3連戦で生まれた「バックスクリーン3連発」や、名遊撃手・河埜和正の落球と岡田彰布の走塁、当時の阪神の「走塁」と「犠打」の重要さについて聞いた。


1985年4月17日の巨人戦でホームランを放ち、バース(右)とハイタッチする岡田 photo by Sankei Visual

【阪神に勢いをつけた、バックスクリーン3連発と岡田彰布の走塁】

――1985年のシーズンといえば、先ほど(中編で)も少し話が出た、「バックスクリーン3連発」がやはり印象的でした。シーズン始まって間もない頃でしたね。

掛布雅之(以下:掛布) 開幕して2カード目、甲子園で行なわれた巨人戦(4月17日)です。当時はセ・リーグの開幕が4月12日(同年は全3試合が雨天中止)でしたね。

――1対3と2点ビハインドで迎えた7回裏、巨人の先発・槙原寛己さんから、ランディ・バースさん、掛布さん、岡田彰布さんが3者連続でバックスクリーン(掛布氏の本塁打はバックスクリーン左翼側のスタンドへ)に本塁打を打って逆転。そうして勝利したわけですが、チームに勢いをつける意味でも大きかった?

掛布 一番大きかったのは、ランディのスリーランだと思います。ランディは毎年、エンジンがかかるのがちょっと遅くて、暖かくなってから打ち出すんです。このシーズンも直前の打席まで不振だったのですが(15打数2安打で打率.133、本塁打0)、あの試合で本塁打を打ったことが非常にチームを勢いづけました。これには吉田監督も手ごたえを感じたと思いますよ。

――4月16日から始まったこのカードは、阪神が3連勝しました。

掛布 4月16日の巨人戦では、巨人の名遊撃手・河埜和正さんが落球したことをきっかけに逆転勝ちしたのですが、あの時のオカ(岡田氏の愛称)の走塁も本当に大きかったです。1−2と巨人に1点リードされ、一塁にはフォアボールで出塁したオカがいたんです。

 次の6番の佐野仙好さんが打球を打ち上げてしまって、河埜さんに捕られると思ったら落球。オカは二死で早めにスタートを切っていたのですが、ほぼ全力疾走に近い形で走っていて、一気にホームまで還ってきました。

――隙のない走塁がチームに浸透していた?

掛布 この年はチーム本塁打数219本のことをよく言われますが、チーム全員がしっかり走っていた。僕もそんなに足は速くないし、ランディも速くはないけれど、足が速いとか遅いとかの問題ではありません。

【ビッグイニングにつながる犠打】

――貪欲に次の塁を狙う走塁意識の高さは、今の阪神と共通している部分ですね。

掛布 そうなんです。今の阪神はセ・リーグの他の5球団よりも圧倒的に走る力はありますし、大山悠輔の一塁までの全力疾走もすばらしいじゃないですか。それと、当時の阪神は豪快な打撃が注目されますが、リーグで犠打が一番多かったわけで(1985年、阪神のチーム犠打数はリーグトップの141)、その部分も今の阪神と似ていますね(2023年、阪神のチーム犠打数はリーグ2位タイの106)。

 ただ、今の阪神と当時の阪神では、同じ犠打でも犠打によって導いていく結果が違いました。よく「1試合の中で、最低でもチャンスは2、3回くる」と言われますよね。そのチャンスを確実にモノにするために犠打を使えば、最低でも2、3点は取れるわけです。

 それと、今の阪神はチーム防御率が2点台(リーグトップの2.66)。つまり、今の阪神は1試合に手堅く3点を取って勝つ野球なんです。一方で当時の阪神は、犠打で一死二塁という形を作れれば、仮にランディが倒れても僕が打てる。僕が出塁したらオカが打てる。バースが一発で決めるなんてこともありました。つまり、当時の犠打は「ビッグイニングにつながる犠打」なんです。

――強力なクリーンナップの後の6番を打っていた佐野さんの勝負強さも際立っていました。

掛布 佐野さんの存在は大きかったです。ランディや僕やオカが塁に残れば、それを返す役割をしてくれましたから。シーズン終盤は右打ちの佐野さん、左打ちの長崎慶一さんといった両ベテランを併用する形でしたが、吉田監督はそのあたりの選手の起用法がうまかった。シーズンを通じて気持ちを切らさないような起用をしていました。

 昨年、岡田監督も梅野隆太郎と坂本誠志郎という両キャッチャーを上手く起用していましたよね。長いシーズンを見据えた起用法をしていたと思いますし、梅野も坂本もモチベーションを高くキープできていたと思いますよ。

【掛布氏が吉田監督から得たもの】

――ベテランの弘田澄男さんをシーズン前半で主に2番に起用し、後半では北村照文さん、吉竹春樹さんらと併用していました。

掛布 ベテランの弘田さんを休ませながら、若い吉竹らをうまく起用していました。日本シリーズなど、ここぞという勝負どころでは弘田さんを起用していましたし(日本シリーズは全6戦で先発出場)、ベンチやファームにいる選手も含めて全体の戦力をコントロールしていました。

 長いシーズンをどういうリズムで戦っていくかは、監督として一番難しいところだと思うのですが、吉田監督はその部分が長けていましたね。

――吉田監督との出会いで得たものとは?

掛布 やはり、「守る野球」の大切さです。阪神に入団して1年目(1974年)は一軍守備コーチだった安藤統男さんに猛ノックで徹底的にしごかれ、吉田監督が阪神で1回目の監督に就任された時(1975年)に、もう1回守りをしごかれました。

 野球は守備がよければ、守備固めの選手と交代させられることもなく、試合の最後まで出られます。僕のレギュラーの定義は、「27個目のアウトを取る時にグラウンドにいる選手」。あとひとつアウトを取れば勝てるという27個目のアウトって、守る側からすれば一番緊張するアウトですよね。そのアウトを取る瞬間、"サードのポジションに立っている掛布"を作ってくれたのが吉田監督だと思います。

【プロフィール】
掛布雅之(かけふ・まさゆき)

1955年5月9日、千葉県生まれ。習志野高校を卒業後、1974年にドラフト6位で阪神に入団。本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回、オールスターゲーム10年連続出場などの成績を残した。球団初の日本一になった1985年は不動の四番打者として活躍。1988年に現役を引退した後は、阪神のGM付育成&打撃コーディネーター、2軍監督、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー、HANSHIN LEGEND TELLERなどを歴任。野球解説者や評論家、YouTubeなど活躍の場を広げている。