教育は繁栄をもたらすが、教育過剰には負の側面もある(写真:Graphs/PIXTA)

長らく教育は幸福につながると考えられてきました。実際に発展途上国では識字率の上昇とともに平均寿命が延長し、個人の単位でも教育によって未来の選択肢は増えます。しかし一方で、教育には負の側面もあると人口学者のポール・モーランド氏は指摘します。本稿では、教育が十分すぎるほど普及した先進国で生じている弊害について解説します。

※本稿はポール・モーランド氏の新著『人口は未来を語る』から一部抜粋・再構成したものです。

教育は幸福につながるか

教育の価値については、基本的には異論の余地がない。教育は個人の視野を広げるためにも、経済を発展させたり人口転換を進めたりする手段としても、明らかに望ましいものである。また教育の向上は平均寿命の延長とも無関係ではない。

発展途上国では、読み書きができれば自分と家族の健康をよりよく管理できるようになるため、教育の向上によって平均寿命が延びる。先進国では、学士号取得者のほうがそうでない人よりも死亡率が低いという事実がすでに明らかになっている。さらに、教育は民主主義が育ちうる状況を作り出すとも考えられる。

そのような状況は、人はたくさんいるが命がぞんざいに扱われ、ほとんどの人が政治プロセスに参加しない体制よりも好ましいはずである。また教育は開発を促進する。ある意味では教育そのものが開発である。1人あたりGDP、平均寿命とともに、教育は、国連が人々の幸福を測る指標である「人間開発指数」を算出するのに用いている3つの指数のひとつに入っている。

教育に懐疑的な人々は、教育が繁栄をもたらすのではなく、その逆ではないかと指摘する。教育によって人が豊かになるというより、豊かで余裕のある人が教育を受けているだけではないかと。それは違うと思われるが、ただしすべての教育がよいもので、金額に見合った価値がある(負担しているのが国か個人かは別として)とは言えない。

また、たとえ教育が行われていても、必ずしも市場の要求を満たすわけではない。少し前に述べたように、中東では教育が就職や収入に結びついておらず、中国南西部の農村地帯でも同じ問題が見られる。この地域の少数民族には義務教育を受ける権利があるのだが、研究者によると、こんな山村ではたとえ大学を出ても仕事などないと言って子供を学校に行かせず、野菜を売りにいかせる親がいるという。

ある父親などは、学校を出て運よく工場で働けることになったとしても、それでは怠け癖がついて農作業に耐えられなくなるから困ると言ったそうだ。この父親が状況を正確に把握できているのかどうかは別として、環境がまったく整っていなかったり、教育後に何の機会も与えられないとしたら、教育が有益だとは言えなくなってしまう。

教育は未来の世代の希望

一方で、教育への渇望は多くの人々を行動に駆り立てる力を持っていて、教育のためなら犠牲を払ってでも行動しようと思う人が少なくない。アメリカにやってきた移民の最初の数世代は、自分たちが得られなかった教育の機会を子供たちに与えるために身を粉にして働いた。彼らは教育を社会に立て掛けられたはしごと見て、自分たちは登れなかったが、将来世代は登れるようにしようと力を尽くしたのだ。

これはアメリカだけのことではないし、移民に限ったことでもない。世界のどこであっても、子供たちは受けうる最高の教育を求めて学校に行っていて、なかには裸足の子供、空腹を我慢している子供もたくさんいる。マラウイで学校に通うナイレンダはこう言う。

「朝は食べないけどそんなのは平気なんだ。だっていつか実業家になれるって信じてるし、そうしたらたくさん食べれるようになるから」

教育に対するもうひとつの否定的な見方は、教育とは人間を近代の産業資本主義の生産単位にするためのものだという考えだ。SF作家で未来学者だったアルビン・トフラーは、「大衆教育は、産業主義が必要とする大人を生産するための精巧な機械だった。それには組織化、個別性の欠如が効果的な手段とされた」と述べた。

このような批判は工業化時代から脱工業化時代に移行してもなお教育につきまとい、今では次のように表現されている。単純作業化が進み、人はオートマタ(自動人形)として仕込まれ、いずれ技術の進歩によって不要になるまでその仕事が続くのだと。

成果主義のプレッシャー

また、教育が持つ、達成しなければならない、順応しなければならないという側面は精神的プレッシャーの一因になり、誰もが耐えられるわけではない。韓国を見るとそれがよくわかる。韓国は教育を大きなバネとして、以前には考えられなかったほどの繁栄を遂げたが、成果主義の教育制度はこの国の若者たちを大きな不安に陥れた。

誰もが一流大学を目指すことを求められ、競争率の高い入学試験を突破しようと必死になるからだ。ストレスを感じている生徒は86パーセントに上り、休みを取ると罪悪感を覚えるという生徒が75パーセント近くいて、夜は11時まで勉強するのが普通だという。

ある生徒は、「友達がどうしているのか気になっちゃうんです。それで、友達ががんばっているのに自分がやってないとうしろめたくなって、もっと勉強しなくちゃと思うんです」と言っている。韓国の自殺率はOECD加盟国のなかでもっとも高く、10代の自殺率は世界でもっとも高い。

多くの発展途上国では、植民地政府が西洋式の教育を導入したため、ヨーロッパ人が作り上げた近代教育によって、自国の本来の知識のあり方が壊されたと非難する人もいる。だが発展途上国の指導者の多くはもっと現実的で、教育をむしろ西洋依存から脱するための最短の道だと考えている。

それに、近代教育と自国の文化・伝統をどう組み合わせるかはそれぞれの国次第である。その点で模範となるのは日本で、西洋の科学と教育をうまく取り入れながらも、古い伝統と独自性を保っている。これから世界のますます多くの地域で教育水準が上がっていけば、知識が西洋の領域というより、人類の共同事業と見なされるようになっていくことはほぼ間違いない。

教育によって価値観が植え付けられる

教育の最悪の側面として指摘されるのは、頭を使わないオートマタを大量に生み出すばかりか、ナショナリズムや、大量虐殺につながりかねない敵対感情さえ育ててしまうという点である。わたしたちがしばしば思い起こすのは、戦間期のドイツ人は世界でもっとも教育水準が高かったにもかかわらず、ナチスを支持して民主的制度を捨て、戦争と大量殺戮へと突き進んだことだ。

1994年のルワンダの大虐殺についても、学校でツチ族への反感を植えつける教育が行われたことも原因になったとして、教育の責任を問う声がしばしば上がっている。ナショナリズムに関しても、教育は当初からそれを広めるうえで中心的な役割を果たしてきたし、宗教も今日では家庭と同じくらい学校で広められている。

これらの批判は、公害、事故、銀行強盗(逃走に車が使われる)などについて自動車そのものが悪いと責めるようなものである。教育は悪用されうるが、善用されることのほうがはるかに多いと答えればいい。近代国民国家も産業経済も、言語やものの見方の標準化、国民の読み書き・計算の能力がなければ成立しえなかった。

伝統的な国民国家が教育なしには発展できなかったように、グローバル化にも教育が必要で、それがなければ人々が自分を一国の国民であると同時に、世界市民でもあると認識できるようにはならない。教育批判に対しては、皆が無知のままのほうがよくなるとでもいうのかと切り返すのがいちばんだろう。

最近ではもっと興味深い指摘も出ている。ジャーナリストのデイヴィッド・グッドハートと経済学者のディートリック・ヴォルラスがそれぞれ別に指摘したもので、最先進諸国はすでに「教育のピーク」に達したかもしれないというのである。経済学的に言えば、人口の半分が大学に進学するようになった時点で、人的資本への投資利益率は低くなっているという。

実際、ほとんどの先進国で学位取得者の収入の優位性が低下してきている。これについてグッドハートは、職場で何を評価し、何に報酬を与えるかを再検討するべきだと述べ、ヴォルラスのほうは、教育のこの状況こそが近年の経済成長鈍化の一因だと述べている。

人類全体の教育過剰はまだまだ先の話

先進国はどちらの指摘にも耳を傾けるべきだが、人類全体が教育のピークの問題に直面するのはまだ先の話である。アフリカ中部のチャドなどでは今もなお大多数の人々が──若い世代でさえ──非識字者であり、このような状況が続くかぎり、過剰教育は先進国の問題でしかない。教育の道を歩みはじめたばかりという国は多く、またバングラデシュのように教育の進歩が目覚ましい国であっても、道のりはまだ長い。


韓国やバングラデシュの成功には注目するべきだが、逆に教育の進歩が見られない国々があることも事実であり、これは憂慮すべき問題である。前述のチャドはその例だが、ほかにもサハラ以南のアフリカの多くの国が類似の状況にある。またこの地域では識字率の男女差が世界のどこよりも大きい。

それでも高齢者の識字率が3分の1なのに対して若者は4分の3と、全体としてはいいほうに向かっているのだが、同時に人口爆発が起こっているために教育問題への対応が難しくなっている。

たとえば西アフリカの小国、赤道ギニアでは、人口に占める非識字者の割合は低下しているものの、人口増加があまりにも急なので非識字者の人数は増えていて、1990年代なかばから現在までにほぼ3倍に膨らんでいる。若年者人口が等比級数的に増えていくときに普通教育を施すのは容易なことではない。

(ポール・モーランド : 人口学者)