レースクイーンもグラビアも素行の悪さで仕事なし→上福ゆきが東京女子プロレスに入るまで【2023人気記事】
2023年の日本はWBC優勝に始まり、バスケのW杯では48年ぶりに自力での五輪出場権を獲得、ラグビーのW杯でも奮闘を見せた。様々な世界大会が行なわれ、スポーツ界は大いなる盛り上がりを見せた。そんななか、スポルティーバではどんな記事が多くの方に読まれたのか。昨年、反響の大きかった人気記事を再公開します(2023年8月10日配信)。
※記事内容は配信日当時のものになります。
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■『今こそ女子プロレス!』vol.13
上福ゆき 前編
身長173cm、体重51kg――。股下83cmのスラリと長い脚は、キャット・ウォークがよく似合う。リング中央にべたりと座り、観客に向けてゆっくりと投げキッス。その妖艶な世界観に、感嘆のため息を漏らさずにはいられない。上福ゆきは、入場から"魅せる"プロレスラーだ。
上福ゆきレースクイーン、グラビアアイドルを経てプロレスラーになった上福ゆき
7月29日、東京女子プロレス後楽園ホール大会。シングルマッチのトーナメント「東京プリンセスカップ」2回戦の相手は、渡辺未詩。ソフトボールで鍛えた強い肩を持つパワーファイターだ。その試合前、上福は「練習しない、クラブに通う、平野紫耀と会う。平野紫耀が応援しに来てくれることを祈って、そしたら愛の力で勝てるかなって思ってます」と謎の対策をコメント。誰もが渡辺の勝利を確信していたように思う。
「『かみーゆ(上福の愛称)、応援してる!』って言ってた人も、トーナメントの予想でピタリ賞を当てたいがために『渡辺未詩が勝つ』ってツイートしてたんですよ。『お前、正直かよ!』みたいな(笑)。反骨心でちょっと頑張りました」
上福は頑張った。ビッグブーツ、ドロップキック、そしてフィニッシャーのフェイマサー。得意技すべてを全力で出し切り、渡辺に勝った。
上福が使う技は、それほど多くない。だから彼女の試合はシンプルでわかりやすい。技の数を絞っているのには理由がある。
「友だちもすごく少なくて、ごく少数の人と深く仲がいいんですよ。それと同じように、技も"とりあえずやる"ようなのは要らなくて、自信があるものだけをやりたいと思う。人より背が高くて脚がきっと長いから、それを生かした技だけを頑張ろうと思ってます。タックルとか、たぶん一生やらない」
プロレスライターで解説者の須山浩継氏は、彼女のことをこう評している。「プロレスに対する適性がある選手だったと思う。理屈抜きで、短期間でプロレスの本質を理解できた人」――。技の数を絞ることにしてもそう。"魅せる"ということにしてもそう。「自分が強くなるよりも、相手の技を受け切りたい」と話す上福は、紛れもなく本質を理解している。
パリピキャラで、一見なにも考えていないようにも見える。しかし彼女には、真面目でピュアな心と、深い思想があった――。
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上福は1993年2月20日生まれ、神奈川県藤沢市で育った。父、母、3つ上の姉がいる。
父は温厚で、曰く"ポエマーみたいな男"。「勉強よりも友だちを大切にしなさい」と教えられた。母は厳しく、「強く生きなさい」というタイプ。上福が中学生の時、先輩に殴られて歯が欠け、学校に呼び出された母に泣きついたことがある。すると母は「家庭に持ち込むな」と一蹴した。
「『1本折られたら、2本折れ』くらいの勢いでしたね。本当はきっと優しくしてあげたいんだろうけど、仲間外れにされた時とかも、基本的に『やられたらちゃんとやり返してこい』という親でした」
上福は子供の頃から「変わっている」と言われていた。ランドセルも、赤ではなく緑を欲しがった。女の子とビーズやお人形で遊ぶよりも、男の子とベイブレードで遊ぶほうが好きだった。カエルの死骸を見ても「怖い」と言ったら負けだと思い、面白がる振りをした。「自分でもちょっと変わっていたと思う」と振り返る。
小学校6年生で、身長は163cm。地震が起きると「上福が転んだ」とからかわれた。身長が高いことがコンプレックスで、「こんなに大きくて、この先、世間に馴染んで生活できるのかな」と不安に思っていたという。
中学ではバドミントン部に入部したが、「態度が悪い。帰れ」と怒られたので帰った。本当に帰ってしまったことで「ガッツが足りない」とまた怒られ、ダルくて2カ月で辞めた。野球部のマネージャーもやったが、女の先輩に「男目当てだろ」と言われ、ダルくてすぐに辞めた。暇を弄び、やんちゃな仲間とつるむようになった。一方で、一生懸命に頑張っている人を羨ましく感じていた。
「自分も何かを見つけたいと思って、先生に相談したんです。そうしたら、『今さら?』って言われたんですよ。そのひと言がすごい響いちゃって、そこから『何を始めても遅いんだ』っていう気持ちで過ごすようになりました。卑屈でしたね」
中学2年生の終わり頃、父がアメリカに転勤することになった。日本を離れたくなかった上福は、「犬を飼ってくれたらアメリカに行ってもいい」と父に交換条件を出す。父はこれを承諾し、渡米した翌日、ペットショップで犬を買った。コーギーの赤ちゃん。「ランディ」と名づけた。
「昔から動物が大好きだったし、アメリカで友だちができる気もしなかったので、犬がいたらどうにかやっていけるかなと思って」
案の定、友だちはできなかった。それどころか、ひどい人種差別に遭った。オハイオ州の中でも小さな町で、白人が99%以上。アジア人は珍しく、「英語が喋れない」とエイリアンのような扱いを受けた。日本人のイメージは、"一重で細くて背が低い"。背が高く、目鼻立ちのはっきりした上福は、余計に「何者なんだ?」という目で見られた。多感な年頃だったため、子供たちは彼女に対して容赦なかった。
現地時間の12月8日、真珠湾攻撃(1941年)が起きた日の前日、学校から連絡があった。「みんな日本人に何をするかわからないから、明日は学校を休ませてもいい」――。
「結局、母親に『行け!』と言われて行ったんですけど、授業中はめちゃくちゃ気まずかったです。先生が真珠湾攻撃の動画を流して、日本人のことを悪く言うような授業でした。かといって、広島や長崎の原爆の日には何もないんです。自分たちが攻撃を受けた時のことだけ。日本人もそうだと思うんですけど」
教室の隅で、いつもポツンとしていた。クラスメイトが何を話しているか、まったくわからない。何がわからないかもわからない。みんなが席を立ったら、上福も立つ。見様見真似の生活だった。みんなが話す言葉を、とにかく真似してみる。赤ちゃんが言葉を覚えるように音で覚えるうちに、少しずつ少しずつ、わかるようになっていった。
毎週月曜日、アメリカの国旗に向かって胸に手をやり、忠誠を誓う時間があった。アメリカに来て1年ほど経ったある日、いつものように国旗に向かっていると、黒人の男の子に「お前はジャップなんだから、アメリカに誓ってんなよ!」と罵られた。ついに堪忍袋の緒が切れ、英語で叫んだ。「トヨタはジャパニーズの車だぞ! シャープはジャパニーズのTVだ!」――。
「そのように主張したら、『こいつには意思がある』と思われたんでしょうね。『ゆき、ウケる』みたいになって、サンドバッグのような存在から少し変わりました。会話してもらえるようになって、汚い言葉だろうが何だろうがとにかく喋るようにしたら、どんどん上達していきましたね」
友だちがたくさんできた。上福のことを「醤油女」「寿司ガール」と馬鹿にしていた子も、日本に帰国する日にケーキを作ってきてくれた。上福に向かって1セントを投げてきた子も、「もう会えないかもしれない」とハグしてきた。
「終わりよければすべてよし。許さねえ奴もいますけど(笑)。当時はめっちゃ辛かったけど、いろんなものを見すぎたし、感じすぎたので、今となっては大抵のことでは動じなくなりました」
高校3年生の途中、日本に帰国することにしたのは「日本のJKをやりたかった」から。父には「大学に行きたいから帰して」と嘘をついた。日本の高校に編入したが、大学に行く気はなく、父に「109の店員になりたい」と言ったら、初めて怒られた。仕方なく帰国子女枠で東洋大学英語コミュニケーション学科を受験し、合格。英語が好きだったわけではないが、一番ラクだろうと考えたのだ。
大学に入っても勉強はせず、サークルにも入らなかった。西麻布や六本木のバーでアルバイトをし、夜な夜な飲み歩く"港区女子"生活を送った。3年生の時、「お父さんにたくさんお金を出してもらっているのに、大学でいい思い出がひとつもない」と思っていたところに、大学のミスコンの話が舞い込む。思い出作りで出てみることにした。
結果は、準ミス。「サークルの組織票がないのに、すごいですね」と私が言うと、「組織票なんですよ」と笑う。
「当時、巣鴨に住んでたんですけど、スロットとパチンコが大好きで、スロットを打ってたら隣のおばあちゃんが目押し(回転しているリールを無作為に止めるのではなく、対象の絵柄を狙ってリールを止めること)できなくて、ゆきが代わりに目押ししてあげてたんです。それ以降、街でちょっと有名になり、ミスコン当日も巣鴨のおじいちゃんやおばあちゃんたちが会場にめっちゃ来てくれた。"巣鴨票"のお陰で、2位になりました」
ミスコンきっかけで芸能界入り。しかし、順風満帆とはいかなかった。まずはレースクイーンの仕事をしたが、「どの車が速くてもよくね?」と言ってクビに。グラビアを始めても"媚び"を売ることが苦手で、曰く"素行の悪さ"が原因で仕事が来なくなった。
バーのアルバイトをしながら、相変わらずの港区女子生活。23歳の時、仲間の第一波結婚ラッシュがあり、「このままじゃマズい」と焦った上福は、マネージャーに相談する。マネージャーは3つの選択肢を出してきた。「不動産の仕事を紹介するよ」「エッチな番組に挑戦すれば?」、そして「高木三四郎っていう奴いるんだけど」だった。
「プロレスの知識がまったくなくて、『高木ってだれですか?』みたいな感じで話を聞く流れになったんです。そしたらもう、団体の人たちにガッツリ囲まれた(笑)」
DDTの高木三四郎社長(現サイバーファイト代表取締役社長)と面談した時、「うちにはこんな綺麗な人がいるんです」と赤井沙希の写真を見せられた。スレンダー美人の赤井を見て、「こういう人がいるんだったら、プロレスラーになってもゴツくならずに済む」と思った。
東京女子プロレスの練習生になってから、赤井はDDT所属であることを知り、「嘘をつかれた!」と思ったが、時すでに遅し。上福はプロレス界に足を踏み入れたのだった。
(後編:「自分は客寄せパンダでいい」 港区女子からリングで取り戻した自尊心と周囲への感謝>>)
【プロフィール】
●上福ゆき(かみふく・ゆき)
1993年2月20日、神奈川県横浜市生まれ、藤沢市育ち。東洋大学文学部英語コミュニケーション学科に在籍中、大学のミスコンで準ミスに輝き、芸能界入り。レースクイーン、グラビアアイドルを経て、2017年8月26日、東京女子プロレス後楽園ホール大会でプロレスデビュー(まなせゆうな&上福ゆきvs瑞希&のの子)。2020年11月7日、TOKYO DOME CITY HALL大会にて、空位となっていたインターナショナル・プリンセス王座の新王者決定トーナメントを制し、第5代王者となる。173cm、51kg。Twitter:@zacyuki