「世界陸上での5000m予選がターニングポイント」驚異のマルチランナー・田中希実にどんな変化があったのか
2023年の田中希実は過去最高のシーズンと言える成績を残した photo by New Balance
田中希実インタビュー 前編
田中希実(New Balance)の2023年シーズンは、東京五輪で築いた礎を強固なものとし、自身最高と言ってもいいシーズンだった。
2021年の東京五輪では5000mで予選落ちとなったが自己ベストで走り、卜部蘭(積水化学)とともに日本人として五輪史上初めて出場した1500mでは日本記録を2回更新した上で8位入賞。翌2022年は世界陸上で個人種目において日本人初の3種目出場(800m、1500m、5000m)を果たした。
2023年は世界陸上5000mで8位に入賞。大会は異なるが日本人選手として初の1500m&5000mの世界大会入賞者となった。
【2種目とも良かったシーズンはなかった】――2020年あたりから本格的に複数種目に取り組んでいますが、その意味をどのように捉えていますか。
「1500mと5000mがリンクしていることを表現したいと思っていますが、1500mが整っている年は5000mが落ち目になったり、その逆もあったり。もしかしたら前のシーズンでやっていたことが、次のシーズンに生きているのかもしれませんが、そこを同時期に生かすことがまだできていません。パリ五輪ではそれを2種目入賞という形で達成したいと思っています」
――ご自身ではどのシーズンが、一番しっくり来ていますか?
「どのシーズンもしっくり来ていないかな......」
――目標や理想が高い?
「自信満々の練習ができて、自信満々でレースに臨めて、実際に走って結果が出て、というシンプルなストーリーにできたシーズンが一度もありません。東京五輪の年(2021年)も世界陸上ブダペストの年(2023年)も、入賞までの紆余曲折や浮き沈みがすごく激しかったんです。結果が出るかどうか、それどころじゃなくなった時に、ポッと結果が出たりした。自分でも、なんで結果が出たんだろう? みたいな部分がありました」
――2022年も5000mで14分40秒くらいは出せる手応えがあったのに、レースでは出せませんでしたが、2023年にそれができるようになった。何かターニングポイントがあったのでしょうか。
「世界陸上での5000m予選が大きなターニングポイントになったと思っています。それまでも一つひとつのレースの結果にこだわる姿勢は持っていましたが、世界陸上の予選の後からは結果だけでなく、そこまでの過程によりこだわれるようになったと強く感じています。だからこそ、その後のレースでも当日にスイッチが入らないことがあっても、普段丁寧に取り組んでいたことで思ったより走れました。逆にレースの結果が思ったより良くなくても、真摯に向き合った結果だから仕方がないと思えるようになった。そういった精神的な変化は、世界陸上がターニングポイントになった結果かな、と感じています」
――2023年4月に実業団チームをやめて、フリーランスの形で活動を始めました。プロとしてのスタイルもプラスになりましたか。
「練習環境自体は特に大きく変わった部分はありませんが、取り組み方として、のびのびと選択できるところが2022年までとは違っていました。企業や学校に所属していたら、思いついたことをすぐ行動に移せないこともあります。それが2023年は、思いついたらどんどん行動に移すことが増えていました。練習環境やレースにバンバン出ていくスタイルは、今までと大きく変わっているようには見えないと思うんですけど、その中身や取り組む気持ちの充実感はすごく変わっていたと思います」
【世界陸上後に日本記録更新&DLファイナル6位】――2021年の東京五輪後、記録は安定していたものの、世界レベルの走りは続けられませんでした。一方で2023年は世界陸上の13日後に5000mの日本記録を更新し(14分29秒18)、その9日後のダイヤモンドリーグ(DL)・ファイナルでも6位に入るなど、世界レベルの活躍を続けました。
「東京五輪の時は、周りの高い評価によって自分自身が感化された部分がありました。結果を出した直後は"やったあ"くらいにしか思っていませんでしたが、オリンピックが終わってたくさんの言葉をかけていただいて、すごいことをしたんだ、という気持ちになって、ひと息ついてしまいました。ダイヤモンドリーグなどへの出場予定もなく、手放しで喜んでしまった部分があったと思います。それに対して2023年は、結果が出たら評価していただけることも前提に考えて、その評価も次へのステップにしようと思っていました。ダイヤモンドリーグへの出場も決まっていて、気持ちが切れることはありませんでした」
――世界標準のスタイルで強くなっているのが田中選手です。逆に日本人ならでは、という利点を生かしている部分もありますか?
「日本人の美徳として、海外の選手からすれば無駄と思えるようなことでも、泥くさく頑張り続けることがあると思います」
――外国選手に限りませんが、走り始めて調子が良くなかったら途中棄権する選手もいますが、田中選手は途中棄権したことは一度もないのでは?
「昨年の3月にオーストラリアで3000mのペースメーカーをした時だけです、完走しなかったのは」
――日本新記録を出した9月のダイヤモンドリーグ・ブリュッセル大会は世界記録(14分00秒21)が出たレースでした。直前に発熱もあり、お母様(市民ランナーで北海道マラソン優勝経験がある田中千洋さん)は出場をやめてほしいと希実さんに言われたとか。1周遅れにされることを心配されていました。
「1周遅れになることも自分の気持ちのどこかで受け入れて、自分で走りたいと言って出ました。うまく行かなかったら納得できず、クヨクヨするんですけど、そういう気持ちになる時間があってもいいから出る、と決めています。だから、出なければよかった、と思うことはあまりありません」
――お父様でもある田中健智コーチは、完走することで行なってきたトレーニングとの「答え合わせができる」ことが重要だとおっしゃっています。レースに出る限りは、結果が悪くても受け入れる覚悟を持っている?
「はい。ただ、悲壮感が出たらダメだと思っています。ダイヤモンドリーグ・ファイナルもインフルエンザに罹って、普通だったら(精神的にも)ドン底状態なのですが、その時は、ボロボロになっても、それも面白いかもしれない、くらいの気持ちになれていましたね。真面目にやりすぎたなかで悲壮感が出てくると、良くない時期になっている証拠です。結果に関係なく、悲壮感なくやりきったときはスッキリして、やって良かったと思えます。泥くさく頑張り続ける日本人の美徳の部分にプラスして、自分の気持ちが向かっていくことがリンクすれば、すごい力が出て強みに変わるんじゃないかと感じています」
後編〉〉〉スーパーランナー田中希実は「人間の可能性を決めたくない」
【Profile】田中希実(たなか・のぞみ)/1999年9月4日、兵庫県生まれ。小野南中→西脇工高(兵庫)→ND28AC→豊田自動織機TC→New Balance。同志社大卒。中学時代から全国大会で活躍し、高校卒業後はクラブチームを拠点に活動。2019年からは父・健智さんのコーチングを受け、今日に至る。国際大会には高校時代から出場を果たし、U20世界陸上3000mで2016年大会8位、2018年優勝。世界陸上は5000mで2019年ドーハ大会から3大会連続出場、2022年オレゴン大会では日本人女子初の800m、1500m、5000mの3種目に出場、2023年ブダペスト大会では5000m8位入賞を果たした。東京五輪には1500m、5000mの2種目で代表となり、日本人女子として五輪初出場となった1500mでは予選、準決勝で日本新をマーク、決勝で8位入賞を果たした。自己ベストは1500m3分59秒19(2021年)、3000m8分40秒84、5000m14分29秒18(2023年)はすべて日本記録。